128話 和歌山城
紀伊――和歌山城。
紀伊を領国とする豊臣秀長は、この城で客人を迎えていた。
来客者は、秀吉側近の黒田孝高だ。
「おお、今年は年賀の挨拶にも行けずにすまなかったの。兄者は、いや関白殿下はどうしておる」
「御変わりなく」
孝高は短く答える。
「そうか。では、やはり儂の方が先に逝く事になりそうじゃのう」
そう言う秀長の顔色は悪い。
今日は比較的調子が良いようだが、本来であれば布団で横たわっていなければならないほど彼の病は重い。
「そのような事は。秀長様は、まだ豊家に必要な御方です」
「豊家に必要な御方、か。そういってくれるだけでもありがたいの」
こほこほと小さくせき込みながら、秀長は小さく笑う。
「最近、知っている顔が減っていっての。大坂や姫路に行っても寂しい思いをするだけでな、ますます城に閉じこもるぐらいしかやる事がないのよ」
蜂須賀正勝や加藤光泰をはじめとして、秀吉の古くからの家臣達も一人、また一人とこの世を去って行っている。
存命者達も、家督を子や孫に譲り隠居する者も少なくない。
秀長家臣の桑山重晴などもその一人だ。
「貴殿こそ、領国には長い事帰っておらんようだが良いのか」
「某がおらずとも、子の長政がうまい事まとめております」
孝高の言う事は嘘ではない。
孝高が、大坂や姫路で秀吉を補佐している間、子の長政は領国を無難に治めていた。
だが、どことなく冷めた雰囲気の漂う長政を孝高は苦手としていた。
「そうか……」
どことなく、気まずい沈黙が流れる。
秀長も、孝高が子の長政を苦手としている事を知っている。つい余計な事を言ってしまったか。そういわんばかりの様子だ。
「……それにしても」
孝高が空気を変えるように唇を動かす。
「殿下の治世の元、世の中は穏やかになりましたな」
「そうような」
秀長は頷いてからしかし、と続ける。
「殿下はそれで満足してはおられないのだろう」
「はい。徳川右府を倒し、東国を完全に平定する気でおります。その後、秀次様に東国を統治させ、秀秋殿と秀家殿に補佐させる方針のようです」
「その中に秀保の名はないのだな」
「はい。秀保様の御身体を考えた殿下の配慮かと……」
「……儂もそう信じておる」
どことなく、秀吉は秀保がもう長くない事を悟っている。
そして秀長も。
……兄者はそうなれば、当家を潰す気か。
秀吉に乞われ、織田家に仕えたばかりの頃であればそれを惜しいとは思わなかっただろう。
だが、今は違う。
秀長も独自の家臣団を築き、領国を治めているし、養子とはいえ自身の跡を継ぐ後継者の秀保もいる。
それを壊されるのは、天下人となった兄といえども良い気はしなかった。
「……」
「……」
再び空気が重くなる。
そんな暗い空気の中、ぼそりと孝高は呟くように言った。
「某のようなキリシタン大名にとって、何かと生きづらい時代となりましたゆえな」
「まあ、あのような事があったばかり故な」
この年の前年、とある事件が起きていた。
事の発端は昨年の七月、土佐の長宗我部領である浦戸に、南蛮船が来訪した。
マニラから、メキシコを目指して太平横断を目指していたスペインのガリオン船であるサン=フェリペ号だ。
来訪、というよりは漂流である。
既に、船の破損はひどくとても太平洋を横断できるような状態ではなかった。
そのサン=フェリペ号を盛親は領国で保護し、乗組員達の身の安全の保障、それに本国へ送り届ける事を保証した。
が、ここで問題が発生する。
盛親は、船の積荷の返還は拒否した。
彼からすれば、自分達が助けなければ沈んではずのものだし、乗組員達の命を助けたのだからそれくらい報酬として貰っても良いと考えての事だったのだろう。
しかし、仰天したサン=フェリペ号船長のマティアス・デ・ランデーチョは長宗我部に抗議を行った。
だが、盛親としても引く気はない。
事態が大きくなってしまい、この件に裁定を下すべく都からは増田長盛が派遣される事となった。
だが、この増田長盛は盛親の烏帽子親であり、どうしても盛親贔屓の目で見てしまう。
それが伝わったのか、サン=フェリペ号側は激怒し、「このような無礼は許されない。我が国は世界でも最強の海軍を抱える国でありこのような小さな国はすぐに征服できる。その準備もできており、宣教師はその先兵である」と言い出した。
それが秀吉の耳に入った。
激怒した秀吉は、船員達から積荷の没収を命令した。
それだけに留まらない。
これを理由に、禁教令を強化。
フランシスコ会の信徒達が捕らえられ、処刑された。
「あの南蛮人達も迂闊な事を言ったものだ。そのせいで、殿下の宣教師嫌いがいっそう激しくなってしまった」
「いえ、おそらく殿下は元々禁教令を強化するおつもりでした。サン=フェリペ号はその切っ掛けとして使われただけでしょう」
「……そうか」
秀長は、どこか遠くを見るような目で頷く。
この時期、交易の利こそあるが、宣教師を送り込んでくるスペインに対する目はさらに厳しいものになっていた。
秀吉傘下の大名に、孝高をはじめとしてキリシタン大名は少なくない。
天正大乱の時のように、信仰は決起の大義名分になりえるし、宣教師達が南蛮国からの情報収集の一環として使われている面も確かにあったのだ。
キリシタン大名を中心にしての決起や、南蛮国からの侵攻。
その未来を恐れる秀吉は、機を見て宣教師を粛清する事を考えていたのだ。
「近い内、大きな騒動が起こります。その時に備えて不安な材料は取り除いておきたかったのでしょう」
「そうか。 ――やはり近い内に兵を起こすつもりか」
「はい」
一呼吸置いた後、孝高は続けた。
「殿下は――おそらく来年か再来年辺りまでに徳川右府と決着をつける気でおられます」
「……」
「大陸遠征や、織田信孝の反乱で我らは大きく消耗しました。これは、徳川右府も同様です。ですが、それもだいぶ癒えてきてます。新たに増えた新領地も、殿下を事実上の頂点とする新たな公儀体制も安定しつつあります」
「……」
「明や朝鮮ともとりあえず、和睦の目途がたち、南蛮国からの侵攻なども少なくと
も当面はないでしょう」
「……」
「まさに今こそが決着をつけるべき時。 ……これ以上時間がたてば右府の方が優位になるでしょう」
「……」
秀吉の残り寿命は決して長くはない。
今は、天下人を目指し豊家を安泰させるという未来を目指し、気力で持ってはいるものの体は既に老人だ。先ほど元気だといったばかりではあるが、そこまで長くは持たないだろうと考えていた。一方、比較対象の家康はいまだに気力も体力も充実しており、近い者には「後20年は生きる」と豪語しているぐらいだった。
さらに、後継者の差。
秀吉の子の拾丸は未だ幼い。
豊臣秀次や、かつて養子として育てた宇喜多秀家や小早川秀秋などもいるが、彼らは秀吉の実子ではない。
一方、家康はこの時点で秀康や秀忠といった元服した子供がいる。
それ以外にも、松平忠吉、信吉がいる。
さらに、まだ幼いが辰千代、松千代、仙千代などもいる。
それらの条件から、これからの数年で決着をつけなければ不利になるのは豊臣家の方なのだ。
「……そうか」
秀長は、そういった事情を詳しく聞く事なく頷いた。
秀長も、孝高に聞くまでもなくその辺りの事は理解しているのだ。
「兄者が、天下人か」
「はい」
「だが、敗れればどうなる?」
「それは……」
一瞬言いよどむが、すぐに表情を平静なものに戻して孝高は続ける。
「徳川もこれほど大きくなった豊臣を完全に潰す事はできないでしょう。ですが、領地を削減されるは必定。おそらくは、親豊臣大名である毛利や上杉からも。豊臣一門からも、何人か責任を取る事になりでしょうな」
「そうか。それで、徳川に勝てるか?」
「勝てる可能性が高いかと」
「確実にか?」
その言葉に、孝高は即答する事はなかった。
「正直に申し上げて――確実にと言う事はできませんな。徳川もまた、10万の兵を動員できます。決して侮る事のできない相手です。何より、勝負事に絶対はありません。冷静に見て、我らが勝つ可能性が6、徳川が4といったところですかな」
「決して少なくはないな」
「はい」
「……不思議なものだな」
「何が、ですか?」
「若いころはひたすら殿下――兄者を一つでも上に出世させる事ばばかり考えておった。負けた場合の事や失敗した場合の事など考えておらんかった。だが、今は負けた場合に失うものの事ばかり考えておる」
既に痩せ細ってきた自分の腕を眺めながら、秀長は呟くように言った。
「……つまらん事を言ってしまったな」
「いえ、そのような事は」
その後は、何という事もない雑談にうつり、一刻ほど経った後、孝高が立ち上がった。
「それでは、某はこれにて」
「……そうか。忙しいところすまなかったな」
有岡城に監禁されていた際に悪くした足を引きずるように、孝高は退室していった。
部屋には、秀長のみが残される。
いつの間にか、日は沈んでいた。
だが、その沈む日を秀長はじっと眺め続けた。




