126話 栄枯盛衰
慶長2(1597)年。
年が明け、新年となった。
大坂城には今年も各地の有力大名が訪れ、年賀の挨拶を行っていった。
普段以上に大坂の城下は栄え、さすがに日の本の誇る大都市に相応しい賑わいを見せていた。
そんな中、この大坂城で暗鬱な状態で新年を迎えた男がいた。
織田家当主――織田秀信である。
この年、生誕17年目。
当時の基準からすれば、立派な大人である。
にも関わらず、不機嫌さを隠そうともせず黙々と酒を飲んでいた。
「……」
周りを取り囲む家臣達も視線を合わせようともしない。
ただ気まずい沈黙だけがここにあった。
「……くそ、どいつもこいつも織田の恩を忘れおって……」
呪詛にも近い言葉が秀信の口から洩れる。
この言葉は、自身を差し置いて天下人として振る舞う豊臣秀吉や徳川家康に向けられたものではない。
「忠興め、秀治め……あ奴らまで成り上がり者に媚び諂うかっ」
細川忠興と堀秀治は、この日、織田家の当主である秀信ではなく豊臣秀吉の元へと真っ先に趣き年賀の挨拶をしたのだ。
彼らはこれまでは秀吉よりの態度を取りつつも、織田宗家を優先する事が多かった。だが、今回の事で明確に織田離れを宣言したに等しい。
「こうなれば、あ奴らの領地に兵を向けてくれようか……」
ぶつぶつとそんな事を秀信は呟き始める。
「しかし上様」
秀信家臣の、百々綱家が口を挟んだ。
「誠に無念ながら、現在の織田家には彼らを処罰する力はありませぬ。また、自らと誼を通じようと試みている細川殿や堀殿を我らが罰しようとしたのであれば、必ずやそれを関白は阻止するかと」
「織田の力が、あんな成り上がり者風情よりも下だと申すか」
不快そうな表情を隠そうともせずに秀信は吐き捨てた。
「恐れながら……」
綱家が肯定するように頭を下げる。
もはや、織田家は大坂城とその周辺の領土を治めている一大名に成り下がりつつあった。
それでも2、3万ほどの兵ならば動員できる力はあるし、それだけの兵がいれば細川・堀征伐は可能だろう。
だが、それを秀吉は見過ごす事はないだろう。
必ずそれを阻止してくる。
細川や堀を倒す事はできても、豊臣を倒す事は今の織田家には不可能なのだ。
「叔父上の力を借りてもか?」
秀信の言う叔父とは、織田信雄だ。
彼は、織田一族の中で最も力を有しており、今なお100万石を超える大勢力を維持している。
「はい」
しかし、ここでも綱家は頷いた。
織田一族でまともな戦力を維持しているほぼ唯一の存在である信雄といえども、
秀吉や家康との力量差は明白だ。
「関白は10万を超える軍勢を用意できますゆえ……」
「だが、織田家当主の儂が立てば別であろう。細川と堀の恩知らず共は儂から離れおったが、全国には織田の威光に従う大名がおろう。天下人である儂が決起すれば、織田恩顧の大名共も同時に立とう」
「……」
あまりにも甘いといえる見立てに、すぐに言葉は出てこなかった。
彼は、天下人の後継者としてこの城で甘やかされて育てられた。戦国の世を生き抜いてきた秀吉や家康をはじめとする戦国大名達と比べて、圧倒的なまでに覚悟も器も劣っていた。
今もなお、織田家こそが天下を統べるべき存在であると思い込んでおり、その天
下人である自分が動けば他の大名達も動くと疑っていないのだ。
「織田の恩を感じる大名達も、関白や右府の威勢が強い今は日和見に徹する恐れがございます。ここは、機を待つしか……」
綱家が、眉間にしわを寄せながら苦々しげに言った。
ここは、何が何でもこの男を思いとどまらせる必要がある。
豊臣も徳川も今のところ織田宗家を尊重しているが、それもいつまでも続く保証はない。
何かのきっかけで、織田宗家の殲滅に目標を切り替える可能性もあり、今の両家の勢いならばそれが十分に可能なのだ。
そして、その切っ掛けをこの男は与えてしまいかねない危うさがあった。
「いつまで待てば良いというのじゃ」
「関白も右府も、既に老人。おそらくは後数年の命でしょう。特に関白の子はまだ言葉をようやく覚えた程度の幼子――。秀次も武人としての器に欠けると噂されております。付け込む事はできるかと」
そう言いながらも、綱家はそれが難しい事が分かっていた。
確かに、秀吉の存在は豊臣にとって巨大だし、それが失われれば求心力が下がる。豊臣という家よりも、秀吉個人を崇拝していた子飼大名達も離反するかもしれない。毛利や上杉といった大大名も豊臣を見限るだろう。
徳川もまた、家康個人で築き上げたようなもの。
家康に後継者といえる子は既に何人もいるとはいえ、家康と比べればその求心力は劣る。
徳川家臣団も決して一枚岩ではない。家康が死ねば、徳川もまた割れる可能性はある。
だが、その豊臣や徳川に代わる存在に織田がなれるかというとその可能性はほとんどないだろう。
考えられる未来としては、乱世の再来。
そうなれば最悪だ。
今の織田家が、その時代を乗り切っていけるとは到底思えない。
そう思うと、暗鬱な気分は一向に晴れなかい。
結局、何一つ明るい話題はないままだった。
そんな中、弱体化する織田家を見て九鬼嘉隆、金森長近といった信長時代から仕えている有力大名もまた豊臣家や徳川家に接近を始めていた。
尾張――清州城。
織田信雄は、正月を大坂城で過ごした後、居城であるこの清州城に戻っていた。
自室に戻った信雄に家臣の土方雄久を呼んだ。
「上様の御様子は……?」
雄久が主・信雄に訊ねた。
彼は大坂には同行しておらず、この清州城に残っていたのだ。
「挨拶はしてきた。いつも通り、じゃ」
その言葉で雄久は察したらしい。
「そうですか」
「未だに織田を天下人の家だと思っておる。父上、そして兄上が亡くなった今、天下人としての織田は滅んだというのにな」
「……」
「ま、あんな城に住んでおればそう思い込んでしまうのも無理はないか。いっその事、どこか適当な小城で養育を受けておればそんな勘違いをせずに済んだかもしれんがの」
呆れた、と言わんばかりの様子で信雄は肩をすくめた。
「では、上様は相変わらずのご様子で……」
「うむ。徳川や豊臣を天下人と認める気などないらしい。それどころか、その両家と敵対した場合の戦略を訊ねてきおった」
「それはまた……」
雄久が苦笑する。
「我が甥は現実が見えておらん。まあ、関白にまでなった秀吉も未だに織田家の当主には一定の敬意を払って接しておるらしいし見下してしまうのも仕方ないかもしれんがの」
「そうですか……」
「じゃが、いかに秀吉や徳川右府が丁重に接するといっても、今は織田が大人しいからじゃ。もし、敵対関係になれば本気で織田を滅ぼそうとするやもしれん」
「そこまでするでしょうか。関白は織田に大恩がありますし、右府殿も律義者として知られておりましょう」
「あるのは、父上や兄上に対してじゃ。あんな黄金の城で踏ん反り返るだけの御仁に対していつまでも義理立てする事はあるまい。敵対するような事があればあの二人は――本気で織田を潰す」
「……」
織田家を潰す、と聞いてさすがに雄久の顔が強張った。
「それでも儂は織田一族の人間じゃ。父上の残した兄弟の中で最も力を有しておるのも儂じゃ。その儂が織田の滅亡を座視するわけにはいかん」
「では、どうされるおつもりなのですか?」
「……最悪の場合でも、何とか織田家を残せるよう関白や右府との関係を強化しておく。最悪でも甥の命だけは助ける気じゃ。かつて、天下人とまで呼ばれた織田一族の人間としては情けないかもしれんが、織田の名を残す為にはこれしかないのじゃ」
そう言う信雄の顔にはどこか哀愁が漂っていた。
かつて、足利の天下に終止符を打ち、新たな天下を平定し栄華を極めた織田家。その織田家もまた頂点から転がり落ちていた。
しかし、まだ落ち始めたばかりであり底辺まで落ちたわけではない。
少しでも高い位置に止めようと、信雄も織田家の人間として必死だった。




