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乖離戦国伝  作者: 藍上男
第4部 天下を継ぐ者
119/251

118話 拾丸誕生

 天正20(1593)年――。

 この年の末から、天正の時代が終わり、文禄の時代へと突入していこうという年。


 遂に、関白・藤原秀吉――翌年には下賜された豊臣姓に改姓――が誕生した。


 その秀吉に吉事が訪れた。

 遂に、念願の子供が誕生したのである。

 しかも、男子だ。


 遂には、秀吉の跡を任せる事のできる後継者が誕生したのである。

 母親は、天正大乱終結後、秀吉の側室となっていた茶々だ。


「よくぞやったっ」


 秀吉は、満面の笑みを浮かべている。

 両手には、まだ生まれたばかりで首も座っていない赤子。

 瞳の先には、横たわっている側室・茶々である。


「本当によくやった、よくやったぞ……」


 秀吉の瞳からは、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちている。

 人誑しと呼ばれ、人心掌握の為に多くの表情を使いこなしてきて、涙も自由自在に出せる秀吉だったが、この涙は決して偽りの涙なのでなく、本心から零した涙だった。


「これで、これで遂に儂の子が……本当に、よくやった……」


 後半は嗚咽混じりでほとんど聞きとる事ができない。


「そうじゃ、茶々よ。褒美にお前に城をやろう」


「城を、でございますか……?」


 未だ出産という、大きな戦いをすませたばかり。

 疲れも取れ切っていないようだ。

 横たわったまま茶々は答える。


「そうじゃ。どこぞ好きな城をくれてやる。どこか希望はあるか?」


「そうですね。ならば、どこか京の都に近いところが」


「うむ。相分かった」


 この後、茶々は本当に城を賜る事になる。

 山城国にある淀城である。

 この事から後世に彼女は、淀君、あるいは淀殿などと呼ばれる事になる。




 赤子――拾丸(後の豊臣秀頼)生誕から数日。

 秀吉のところに、正室である寧々だ。

 彼女は、関白になった夫・秀吉に伴い北政所の称号を与えられている。


 当初、彼女が訪れた目的を秀吉は拾丸の事だと思った。

 当時の常識として、例え側室の生んだ子供であっても正室である彼女が育てるのが筋だった。


 怪訝に思ったのは、何故か彼女が黒田孝高を伴ってきた事だった。

 そして、拾丸の事に触れる事なく孝高が切り出した。


「殿下。確か、毛利輝元殿には子がおりませんでしたな」


「……うむ」


 いきなり予想外のところから切り出され、秀吉は困惑する。


 今現在、輝元に後を継ぐ子はいない。

 だが、彼はまだ40に到達したばかり。

 今後に子ができる可能性は十分にある。


「そのようじゃが、それがどうした」


「はい。毛利家は、かつて敵対した時期もありますが今は豊臣家と強い絆を結ばれた特別な家です。このまま、後継者が不在というのはあまりにも忍びない。そこで、当家から養子を受け入れて頂いてはどうでしょうか」


「何?」


 秀吉の瞳に驚きの色が浮かぶ。


「養子じゃと」


「はい。豊臣秀俊様を是非、と思いまして」


「……」


 この時期、北政所の甥であり、秀吉の養子となり豊臣姓を与えられていた秀俊の名がでてきた事に秀吉は聞き返した。


「秀俊を、の」


「はい」


「その方が両家にとって、よき事かと……」


 孝高の言葉に、北政所も追随するように言った。


 ……そういう事か。


 秀吉も、彼らの思惑を理解した。


 この時期、秀俊同様に秀吉の養子となっていた秀勝は没している。

 一時養子だった秀家は、既に宇喜多家に戻っており、今現在の秀吉の有力な後継者候補は豊臣秀次と秀俊の二人だった。


 が、この二人の立場は秀頼の生誕により非常に危ういものとなっていた。


 そして、秀吉は必要とあれば容赦をしない性格である事を北政所はよく理解している。

 秀俊を溺愛する北政所としては、政争に巻き込まられる前に何とかしたい、という思いがあったのだろう。

 そこでおそらく、相談したのがこの黒田孝高だったのだ。

 その孝高が考えたのが、今の案なのだろう。


「そうよの。養子とはいえ、関白である儂の子とあれば毛利も悪い気はしまい」


 ふふ、と秀吉は笑う。

 二人の思惑が分かったところで乗ってやる事にしたのだ。


 ……ま、どの道避けては通れん問題だしの。


 秀俊に、現在の拾丸を害する気がないとしても、将来はどうなるか分からない。仮に、将来もその気にならなかったとしても、周囲の人間が放っておかずに祭り上げておかしな事をやらかすかもしれない。


 拾丸から遠ざけ、なおかつ大国・毛利に豊臣家から楔を打ち込む事ができる。秀吉にとっても一石二鳥にも三鳥にもなる策だった。


「うむ、了解した。毛利には儂から話を通す事にする」


「ははっ」


「有難きお言葉……」


 秀吉の言葉に、二人は改めて平伏した。






 安芸――広島城。

 毛利一族の、新たな本拠として築城されて数年の城だ。この城の一室に毛利家当主である毛利輝元、それに小早川隆景、吉川広家らいわゆる「毛利両川」の両者が集っていた。


 三人は、安国寺恵瓊の話を三者は聞きっている。


「何と……その噂は真なのか」


 驚愕の色を浮かべているのは、小早川隆景である。


「はい。間違いありません。信憑性の極めて高い情報です」


「となると、事実なのか……」


 輝元が、じっとその言葉の意味を咀嚼するように言う。


「関白の養子の秀俊殿を毛利家の養子にしようというのは……」


 安国寺恵瓊が持ってきた噂というのはその事だった。

 今は、秀俊と名乗っている秀吉の正室・寧々の甥にあたる養子を毛利輝元の子とする気でいるという話だ。


「猿面冠者めが! 体よく、毛利家を乗っ取ろうというのかっ」


 広家が、吐き捨てるように言った。

 元々、織田政権にも豊臣政権にも好感情を抱いていない広家だ。

 その秀吉の子を、毛利家の当主として崇めさせようという話に怒り狂っていた。


「広家、少し落ち着け」


 輝元が諭すように言う。


「御当主の言う通りじゃ。それに、今や豊臣秀吉様は関白職に就いておられる。帝に代わり、執政を行う立場。そのような暴言は許されんぞ」


「……そうですな。少し言葉が過ぎました」


 隆景の言葉に、広家は内心で苦々しい思いをしつつも引き下がった。


 ……ふん。


 最近、広家の不満は隆景にも向けられるようになっていた。

 そもそも、「毛利両川」などと言われ、吉川と小早川は対等な立ち位置のはずだった。

 が、最近の秀吉はあからさまに小早川を優遇している。


 石高も、隆景は筑前で40万石近い領地を与えられているのに対し、広家は15万石ほどだ。

 また、結局採用はされなかったものの彼を中老職に、と秀吉が推した事もあったらしい。


 毛利両川などと秀吉は持ち上げつつ、明らかに小早川の方に肩入れしている。


「……御当主、しかしこれは悪い話ではありませんぞ」


 隆景自身、恵瓊同様に秀吉を推すような発言が多い。

 これがまた、広家の機嫌を大きく損ねる原因にもなっていた。


「関白殿下の子を貰い受ければ、毛利家は豊臣の準一門という立場。毛利家は安泰も同然ですぞ」


「小早川様の仰る通りでございます」


 恵瓊も、続いた。


 ……糞坊主め。輝元様に余計な事を吹き込むなっ。


 広家は、恵瓊にも苦々しい視線を送る。

 仮にも父の弟であり、毛利家の重鎮でもある隆景以上に悪意の籠った視線だ。

 だが、恵瓊は気づいていないのか気づいて無視しているのかまるで気にしている様子はない。


「……うむ」


 輝元は顎に手を当てて考えこんでいる。


「確かに、儂に子はいない」


 ぽつり、と輝元が言った。


「御当主っ!」


 その言葉に、広家は慌てた。

 秀吉の提案を受けるつもりなのか、と危惧したのだ。


 その広家を輝元が手で制す。


「まあ、落ち着け」


 広家が浮かしかけた腰を下ろすのを見てから、輝元は続ける。


「確かに儂に子はいない。いないが、元就(祖父)隆元(父上)から受け継がれた毛利家だ。儂の血の入った子に次いで欲しいと思う。儂もまだ若いし、今後に子供が生まれてくる可能性は十分にある」


「それではっ」


 広家が、輝元の言葉に顔に喜色を浮かべる。


「うむ。迂闊に関白の提案に乗るべきかどうか悩んでおる」


 その言葉に広家は安堵しかかるが、別方向から待ったがかかった。


「お、お待ちくださいっ」


 輝元の言葉に、慌てたように恵瓊が言う。

 このままでは、親秀吉の筆頭格である自分の立場がないと考えたのだろう。


「今現在、織田家随一ともいえる権勢を誇る関白殿下の提案を拒否するのは得策ではないはずっ」


「御当主……。毛利の血に拘るのであれば、秀俊殿の正室に毛利家所縁の姫と縁を結ばせれば問題はないはず」


 隆景が恵瓊を擁護するように言う。

 彼も、親秀吉派なのだ。


「そうよのう……」


 輝元は、少し試案するように顎に手を当てる。


「うむ。当家は親秀吉路線で来た事だし、秀吉の――いや、関白殿下の機嫌を損ねるのも良くはないか……」


 考え込む輝元に、やはり受け入れるつもりなのか、と広家は思う。

 だが、輝元の回答は違った。


「……叔父上」


「は、はい」


「確か、隆景叔父に子はいなかったはずじゃな」


「そうですが……」


 嫌な予感を覚えつつも、隆景は次の言葉を待つ。


「毛利家のために犠牲になってくれ」


「――っ!」


 ここで、隆景も輝元の意図を察した。


「よ、よもや御当主。秀俊殿を、毛利ではなく小早川に迎え入れろと……」


「察しが良いの。さすがは叔父上」


 輝元は口元を緩ませて笑った。

 が、隆景はそれどころではない。


「な、何故ですかっ」


 恵瓊も慌てたように言う。


「何故も何もなかろう。毛利当主の地位を豊臣一族の子に与えるわけにはいかん。が、もし関白の提案を毛利が拒んだとあれば、間違いなく秀吉の面子は潰れて関白との関係も悪化する」


 だが、と輝元は続ける。


「関白はまだ公式に当家に秀俊殿の件を打診してきたわけではない。今の段階で、こちらから小早川の養子に秀俊殿を向かえいれたいと提案すれば、秀吉の面子は保たれ、毛利家当主に他家の人間を入れる必要もなくなる」


「で、ですが……」


「叔父上。秀吉との関係を悪化させるなといったのは叔父上ぞ。何か不満でも」


 鋭い眼光が、隆景をとらえる。


「い、いえ……」


 輝元もまた、戦国大名だ。

 毛利の当主として、生き残る為に足利義昭、織田信長、織田信忠、豊臣秀吉らといった権力者に巧に恩を売り、今の毛利の地位を築いた男。

 決して暗愚ではなかったのである。


 だが、隆景も辛うじて反論する。


「しかし、小早川は既に秀包を養子に……」


 この時点で隆景は、元就の九男である秀包を養子に迎え入れていた。

 当然この秀包を後継者に、と考えていたのである。


 が、輝元の答えは簡潔だった。


「廃嫡すればよかろう。その上で、別家を立ててやる」


「……」


 その言葉に、隆景も頷くほかない。 


「広家も反論はないな?」


「はっ……」


 広家も頷く。


 ……こうなった以上、やむをえん。毛利本家を守れただけよしとするか。


 確かに、秀吉のやり方を卑怯、などとなじる資格はない。

 少なくとも、隆景には。

 小早川家自体、かつて父・元就が今の秀吉と同じようなやり方で乗っ取った家なのだから。


 こうして、隆景が大坂に出向いた際に、秀俊を小早川家の養子にと話を持ちかけた。

 秀吉は、当初は驚いたものの元々は自分ではなく、北政所や黒田孝高の発案した事だ。小早川でも良いか、とそれを了承した。

 その後は順調に事が運び、秀俊は小早川隆景の養子となり、小早川秀秋と名乗るようになった。


 以後、隆景はその秀秋に家督を譲って自分は隠居した。

 隆景に従ってきた家臣達も、新たに当主となった秀秋の元から出奔する者が続出した。

 明らかに、この乗っ取りともいえる秀吉の案、そしてそれを小早川家に押し付けた輝元に対するあてつけだった。


 だが、秀吉はそれに対して咎める事なく秀秋の元に内政に明るい家臣達を貸し出していった。

 これにより、小早川とは名ばかりの存在になり、実質的な豊臣一門としての小早川家が誕生したのである。

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