117話 豊臣秀吉
丹羽征伐を完了した、北陸方面の丹羽征伐軍は越前・若狭において事後処理をすませると秀吉率いる本隊はそのまま北国街道を南下。
近江、そして山城へと戻った。
今回の戦いに秀吉本隊はほとんど加わっておらず、被害は皆無に近い。
秀吉含む将兵達の顔は明るかった。
その頃、徳川家康もようやく容態を回復しつつあったが一時は生死の境を彷徨っていたほどだ。
その傷を完全に癒すのにはまだまだ時間がかかるだろう。
その間、徳川家は丹羽征伐において積極的な介入を行う事をできず、かろうじて若狭一国を安堵させる事ができただけだ。
家康あっての――徳川家。
その事を改めて徳川家中のみならず、天下に知らしめてしまったのである。
いずれにせよ、今回の丹羽征伐により秀吉は自身の版図を拡大したばかりか徳川家との格を大きく引き離す事に成功したのである。
上機嫌で秀吉は凱旋。
京、そして大坂に行き朝廷や織田秀信に事の経緯を報告して天下の静謐を改めて誓った。
同時に、親羽柴大名であり信長時代から朝廷との繋がりの深い細川幽斎や京都所司代の前田玄以に命じ、自身の官位をあげるよう働きかけた。
その成果は、この年の末辺りから出始めるようになる。
その間、家康も何もしていなかったわけではない。
秀忠に関東の領国運営を任せる傍ら時折、三河や駿河に戻り東海の政務を行ったり、秀吉同様に朝廷に対して家臣の板倉勝重を通じて働きかけたりしていた。
同時に、上方への在留時の本拠として伏見に城を築く許可を大坂の秀信に願い出た――といっても、ほとんど事後承諾に違い形ではあったが。
結果として、家康も右大臣の地位を手に入れる事に成功したが、その時点で秀吉は左大臣にまで昇り詰めていた。
これよりも上に、太政大臣があるがこれは非常任の職であり左大臣としての地位が事実上の最高位である。
つまり、秀吉はの官位はこの時点で事実上の頭打ちと思われた。
――ところが。
「何?」
伏見城。
上方在留拠点として築いたこの城に、徳川家康はいた。
傍らに、本多正信・正純親子、榊原康政、以心崇伝といった側近達。
その家康と側近達と対面する形でかしこまっているのは、朝廷との折衝役を任せてある板倉勝重である。
この人物、根っからの武士ではない。
幼少期、家督は弟が継いだ為、僧籍に入っていた。
しかし、その弟の定重が遠江高天神城の戦いで討ち死にすると、家督を継ぐ事になる。
家督を継いで以降、駿府や江戸で奉行として力を示し、家中にその実力を示す。
そして、今では朝廷との折衝役を任せられるほどの信頼を家康から得ていた。
そんな勝重だが、今は強張った顔つきのまま、主君に報告を行っている。
「申し訳ありません。何とか、親徳川色の強い公家達に反対するよう頼み込んではいるのですが、どうやら時間の問題かと……」
「では、間違いないというのか」
正信が口を挟んだ。
「秀吉が、関白職に就くというのは……」
勝重が運んできた情報というのは、羽柴秀吉が関白職を得るよう朝廷に働きかけているというものだった。
それも、近いうちに実現しそうだという事も。
「あの禿鼠が。何と畏れ多い事をっ」
吐き捨てるように言ったのは、榊原康政だ。
この男、徳川家中においても特に秀吉嫌いとして有名だった。
その康政を無視するかのように、正信が勝重に訊ねる。
「しかし」
考え込むような仕草をしてから、正信は続ける。
「確か関白職というのは、五摂家でなければ就けないのではなかったか?」
五摂家。
それは、
近衛家。
一条家。
二条家。
九条家。
鷹司家。
この五家によって構成されている。
そして関白職に就くには、この五摂家のいずれかである必要があるという認識があった。
「いや、その為に以前関白職に就いた事もある近衛前久様の猶子となられるようだ」
「あの御仁が……」
正純が驚いたように目を瞬かせた。
「我らが保護してやった恩を忘れたのかっ」
康政が吼えるように怒鳴った。
近衛前久は、本能寺の変の際、ある疑いをかけられた。
本能寺襲撃の際、明智軍が近衛前久の屋敷から銃撃した事があった為、明智軍との内通容疑がかけられたのだ。
その急先鋒だったのが、織田信孝だ。
その信孝からの追及をかわす為、近衛前久は徳川家に庇護を求めてきていた。
その信孝は滅したものの、それまで擁護し続けた徳川家に恩があるはずなのに、と康政は憤っているのだ。
「まあ、秀吉からの圧力をかわしきれなかったのでしょうな」
その康政の反論するよう、正信が前久を擁護した。
その正信を、康政がギロリと睨む。
「とにかく」
家康が、不仲な二人が衝突するのを防ぐように声を出して遮った。
「今確かなのは、このままでは秀吉が関白職に就く事を防ぐのは難しいという事か」
家康の表情は苦々しい。
だが、その瞳にはまだ強い力が宿っている。
肌の艶も鍛えられた身体も若々しく、すでに当時としては老人と呼ばれる年齢に突入した男とは思えないほどだ。
一時は、生死の境を彷徨ったとは思えないほどに精力的だ。
「儂は諦めんぞ」
改めて宣言するように言ったその言葉に、側近達も強く頷く。
「その通り。我らも上様についていくまでっ」
康政が強い口調で言った。
「はい。天下を差配するのは、上様こそが相応しいかと」
犬猿の仲の二人ではあるが、この思いだけは一緒なのだ。
ちなみに、この頃には既に徳川家中においては家康の事を上様と呼ぶようになっていた。
無論、公の場では避けていたが。
「うむ。もう今川にも武田にも――そして、織田にも気を遣う必要がない。徳川家に安泰をもたらしてみせる」
家臣達の言葉を聞き、改めて家康は決意するように言った。




