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乖離戦国伝  作者: 藍上男
第4部 天下を継ぐ者
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116話 丹羽征伐4

 伊予方面から攻め寄せる丹羽征伐軍は、総大将を小早川隆景とした総勢3万ほどの軍勢だった。

 それに加え、九州の大名からも兵を出させていた。


 伊予へと3万の兵を上陸させ、小早川隆景による土佐侵攻が始まった。

 が、どの城もあっけないほど簡単に開城していった。

 土佐統治の本拠ともいえる大高坂城だけは守りは堅かったが、それ以外の城は短期間で開城された。

 まともに戦闘になった城の方が少ない。


 あまりにも、あっさりとした結果だ。この成果に驚きつつも、占拠した岡豊城で軍議を開く事になった。

 岡豊城は、長宗我部時代の土佐統治の本拠だ。

 主が丹羽家に代わってからは、大高坂山城に政庁としての機能は移転していたが、この城も重要拠点である事に違いなかった。


「……さて」


 隆景が、切り出し軍議を始めた。


「予想以上に、順調に土佐の制圧は進んでおる。だが、大高坂城にだけはそれなりに大軍が残っておるし、油断は禁物。皆、いっそう気を引き締めて」


「大軍といっても、せいぜいが5000前後でござろう」


 隆景の言葉を遮るように答えたのは、長宗我部元親の四男であり元服したばかりである長宗我部盛親だった。

 傍らには、増田長盛も目付として座っていた。


「我らは3万。被害もほとんどない。一挙に攻め落として土佐を併呑すべきでござろう」


 彼は、今回の丹羽征伐が成った暁には、長宗我部の再興と土佐半国を恩賞として与えられる事を約束されており、それゆえのはりきりようだった。


「しかし」


 盛親の発案に反対したのは、後世、飯田覚兵衛の名で有名になる飯田直景だった。

 主である加藤清正に代わり、500ほどの兵を率いて参戦していたのだ。


「大高坂城には、当主・長重の弟である長正も籠っており、士気も高い。迂闊な力攻めは避けるべきかと」


「某も同意します」


 同行していた久武親和も答える。

 彼は、かつて長宗我部元親に仕えていたが長宗我部が改易されてからは加藤家に仕えていたのだ。


 その親和を盛親はギロリと睨む。

 自身に着き従う事なく、加藤家に仕官する道を選んだ彼の事を盛親は快く思っていないのだ。


「ですが、讃岐は既に宇喜多殿が率いる別働隊がほぼ制圧しかけておるのですぞ。我らだけのんびりとするわけには……」


「よそはよそだ。我らは、我らのやり方で土佐を制圧すれば良い」


 反対したのは、吉川広家だった。

 その態度は棘々しい。

 元々、反秀吉色の強い広家であり、完全に織田公儀を私物化した丹羽征伐の命令を下した秀吉にも、唯々諾々とそれに従う毛利輝元にも苛立っていた。


 そして、目の前の小早川隆景にも。


 ……気に入らん。気に入らんわっ。だが、吉川の為。そして、毛利の為にも従わねば。


「……ふむ」


 そんな広家の内心を知ってか知らずか、隆景は皆を見渡す。

 積極論、消極論ではどちらかといえば消極論の方が強いようだった。


 ここで、隆景は結論を出した。


「相分かった。暫く、大高坂城は囲むに留める。何、越前の長重の方が降伏すれば自然と長正の方も下るであろう」






 この丹羽征伐の決着は、小早川隆景らが大高坂城を囲んでいる間に着いた。


 丸岡城に孤立し、援軍の見込みのない丹羽長重は危機的状況に陥っている。

 村上頼勝や、溝口秀勝も丹羽家を見限った。


 ここでさらなる凶報が、長重の元に届いたのだ。


 ――長束正家、出奔。


 ふがいない当主に愛想を尽かしたのか、正家は長重を見限り、秀吉の元へと走った。

 ここでまた、大事な家臣を一人長重は失ったのだ。


 頭を抱えた長重は、もはや手段を選んではいられない。

 徳川家康に支援を求めた。

 秀吉の派閥の強化は、家康にとっても望ましくないはずだ、と一縷の望みを託したのだ。


 確かに家康にとって、確かに秀吉派の強化はおもしろくない。

 だが、これまでそれほど強く丹羽家と誼を結んでいいたわけではない上に、丹羽家の領国は遠国だった。

 これが、最上や伊達のように東国の以前からの親徳川大名だったら話は別だったかもしれないが、丹羽家はそうではない。

 無理をしてまで助ける理由がなかった。


 それでも、長重は必至に家康――というよりは、家康の側近である本多正信・正純親子らに頼み込んだ。

 家康は、意識を取り戻したとはいえ未だに布団から出られる状況ではなかったのである。


 だが、これ以上機会を伸ばせば秀吉は丹羽領を完全に飲み込んでしまうかもしれないという危惧が家康にはあった。



「秀吉に、丹羽征伐を中断させる必要がある。最悪でも、丹羽家の存続は認めさせる必要がある」



 身体こそ、横たわったままだが家康の瞳には強い意思が宿っていた。

 家康の指示を受け、秀吉に丹羽征伐を中断させるよう強く訴えた。さらには、徳川家に友好的な秀信の後継人である織田信雄の力も借りた。


 秀吉としても、既に今回の収穫は十分であり、それ以上は身の破滅を招くだけだと考えており、ここで折れた。


 が、大老職は秀吉の要求通り辞す羽目になったうえ、越前・讃岐・土佐の三ヶ国は没収された。

 以後、讃岐には仙石秀久(淡路の後釜には脇坂安治)、越前八郡を堀秀治に。秀治は、今回の戦いで大きな武功をあげたわけではないが、かつて秀吉は「いずれ一国を宛がう」と約束した事がある。その約束を履行したのだ。

 中村一氏、大谷吉継、生駒親正らはその秀治の目付も兼ね、府中10万石を分割して与えられた。

 土佐半国は長宗我部盛親に与えて、以前からの約定通りに長宗我部家を再興させた。

 残りの半国は、山内一豊に与えられた。


 言うまでもなく、これらは皆親羽柴の大名である。

 これで羽柴派の力が増した事になる。

 さらには、長重が辞した五大老の後釜に秀吉は宇喜多秀家を推薦。


 完全に秀吉にやられたまま終わるわけにはいかなった家康は、三中老の後釜に親徳川派の蒲生氏郷を推薦する。

 氏郷も、前田利家同様に旧安土方だ。

 しかし、利家という前例がある以上、それを理由に反対するには少し弱い。


 秀吉も、宇喜多秀家の五大老就任を認めさせた以上、その程度の譲歩は必要と考え、了承。

 以後、五大老職は羽柴秀吉、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の五人で。

 三中老は、細川忠興、前田利家、蒲生氏郷の三人によって運営されていく事になったのである。


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