112話 丹羽征伐1
「家康が何者かに撃たれたじゃと!?」
羽柴秀吉がその情報に接したのは、徳川家康同様に政務を終え、屋敷へと戻った直後であった。
「間違いはないのか?」
目の前にいるのは、秀吉の間諜である。
各国のみならず、大坂城内でも秀吉は諜報活動を行わせていたのだ。
このような一大事があれば、すぐに知らされる手筈になっている。
「それで、家康はどうなったのだ?」
「はい。狙撃されてすぐに、屋敷へと戻り治療を受けている様子です」
「……それで」
秀吉は急いたように先を促した。
「生きておるのか?」
「生死は不明です」
「……」
秀吉は、顎に手を当てて考え込む。
……どういう事だ。
少なくとも、今回の暗殺は秀吉が目論んだ事ではない。
命じた覚えもない。
すると、家臣のいずれかが勝手な忠誠心で暴走したのか。
……考えにくい、か。
家康の暗殺など、一大事だ。
主君である自分に内密でやっていい事ではない。
「……ご苦労であった。下がって良い」
秀吉は、忍を下がらせると密かに家臣を呼び寄せた。
真っ先に駆け付けて来たのは、黒田孝高である。
「殿、至急の用件とは一体……」
急いで駆け付けてきた為か、息が荒い。
「うむ」
秀吉は、じっと孝高を見つめてから――言った。
「――家康が撃たれた」
「は?」
一瞬ぽかん、とした顔を孝高は浮かべる。
「……そ、それは誠ですか?」
「うむ」
孝高の驚いた様子の顔を見て、秀吉は目の前の男への疑いを薄めた。
……やはり、違うのか。
「今、細かい情報を探らせておる。生きておるのか、生きておるとすればどれほどの怪我を負った状態なのか現状では不明だ」
その言葉に孝高は、明らかに驚いた様子だ。
良くも悪くも、この男は自身の本心を隠さない男だ。
それだけに、この反応はかなりの信憑性があるように思えた。
……まあ、儂を欺くほどの演技をしておる可能性も一応はあるがの。
「詳しい情報が入り次第、改めて合議する。すぐにでもこの集まれるよう準備をしておけ」
それだけを言うと、秀吉は孝高を下がらせた。
その後も、石田三成、増田長盛、大谷吉継らといった大坂城下にいる家臣達を呼びよせて反応を窺ったが孝高同様に本心で驚いているように見えた。
少なくとも、大坂城下に滞在している自分の家臣達の中に今回の家康暗殺未遂事件の黒幕はいない可能性は高い。
秀吉はそう結論づけた。
数日後。
改めて、黒田孝高らを呼び寄せて合議を行った。
まずは、忍らが集めた情報をまとめる。
「まずは、家康の生死からじゃ」
秀吉が口火を切って始める。
「家康の生存。これはまず確定じゃ」
軽い、ざわめきが起こる。
そんな中、三成が質問した。
「それで、怪我の方は? 狙撃されたと聞きましたが」
「思った以上の重傷らしい。完治にはしばらくかかる。弾は貫通していたとはいえ、しっかりと命中していたらしいゆえな」
「……」
この数日、多方面から秀吉は情報を集め続けた。
だが、それでも結論は変わらなかった。
家康は生存している。
しかし、それなりに重傷でありしばらくは療養する必要がある。
……罠ではない、か。
さらに詳しい情報を忍達に銘じて探らせていたが、どうもその可能性は低いようだ。
ならば、今回の事件を利用させてもらうまで。
秀吉はそう考えた。
「家康には、見舞いの品を贈っておけ。その間に儂は儂らでやる事がある」
「鬼のいない間の何やら、ですか。殿もお人が悪い」
「うむ。鬼がおらん間に、狩りと行くか」
と、一瞬間を置いてから、
「家康が大人しくしているうちに丹羽征伐を行う――っ!」
力強く、秀吉は宣言を行った。
が、いかに秀吉の権力が強いといっても問題を起こしたわけでもない丹羽家をいきなり取り潰すわけにはいかない。
その大義名分を探し始めた。
ここで、秀吉は丹羽家の帳簿に不正があったと告発した。
だが、ここで丹羽家の家臣である長束正家が強く反論してくる。
しっかりとまとめられた帳簿を証拠として提出し、秀吉に食ってかかったのだ。
それは、あまりにも理路整然とした反論であり、秀吉も思わず唸るほどだった。
「相分かった。どうやら、こちらの間違いだったようじゃな。迷惑をかけた」
そう言って秀吉は訴えを取り下げたのである。
「なかなか楽しませてくれたのう、あの男」
大坂城の一室。
織田宗家当主の織田秀信も、後見人の織田信雄も事実上、傀儡と化した今、天下は秀吉と家康によって運営されているといっていい。
その家康が伏見で療養中の今、事実上この城の主は秀吉と言えた。
それでも、名目上の城主は織田秀信である。
にも関わらず、まるで我が城のような振る舞いだった。
上機嫌で天守から下々の光景を見下ろしていた。
「左様ですな」
そんな秀吉の追随するように、黒田孝高が言った。
近年になり、羽柴秀長や浅野長政といった側近達が秀吉と距離を取られるようになって今、秀吉に最も近い側近といえるのがこの孝高だった。
彼も秀吉に仕えるようになって、10年以上が経っている。
もはや、新参とも言える部類でもなくなっている。
「――しかし」
と孝高は続ける。
「今回の件で、丹羽殿を攻める口実はなくなってしまいましたな」
「心配はいらん」
ふっふっふ、と秀吉は不敵に笑う。
「次の手はある」
「長宗我部の倅ですか」
先読みするように孝高は言った。
「……うむ」
ここは、もう少し考える振りぐらいするべきだった。
主君の考えを先読みするような事をするよりも、考えた末に主君と同じ結論に至ったという流れにした方が秀吉の覚えは良いはずだった。
しかし、その辺りの心の機敏を孝高は察する事はできなかった。
が、秀吉もそれを表に出す事はしない。
何事もなかったかのように、話を続けた。
「長盛のところにおる、長宗我部の倅に資金を与えて旧臣どもを唆すよう言ってある。しばらく立てば四国で火があがる」
そして、この言葉はしばらく経ってから現実のものとなった。
――丹羽領・土佐で、大規模な一揆が発生。
大坂城に、その報告が届いた時、羽柴秀吉は憤慨した。
「だから言ったではないかっ」
が、これは演技だった。
不正帳簿による追及に失敗した秀吉が、放った二の矢。
それが、長宗我部旧臣の扇動によるこの一揆だった。
長秀存命時は、土佐・讃岐の仕置は長秀が行い、若狭・越前の仕置は長重が行ってきていた。
が、長秀が病没してからは長重弟の長正が土佐・讃岐の仕置も行うようになったが、それでも長秀存命時と比べると監視は緩んでいた。
そこに、秀吉は増田長盛のところで庇護されている長宗我部盛親とその家臣を通じて長宗我部元親時代を懐かしむ土佐の国衆達を煽り、乱を起こさせたのだ。
不自然なまでの広範囲に一揆は広がっていき、土佐や讃岐の丹羽軍では到底御す事ができなくなってしまった。
自分達で対処しきれないと判断した、丹羽家の家臣達はは中央の長重へと援軍を求めた。
が、長重も即座に大軍を送れる状態ではない。
やむをえず、織田宗家――というよりは、羽柴秀吉と徳川家康ら長重を除く五大老という事になるが――に助けを求めた。
この機会を望んでいた秀吉は、これを了承。
秀吉に追随するように、上杉景勝と毛利輝元も同意した。
家康も、丹羽領の混乱は望む事ではない。五大老制が発足して以降、珍しく五大老全員の意見が一致し、援軍の四国への派兵が決まった。
が、距離的な問題から家康と景勝は兵を送る事ができない。
実質的には、秀吉と輝元の配下の兵が出陣する事となる。
だが、実際に毛利家や本州にある秀吉配下の子飼大名達の兵は必要なかった。
瞬く間に乱は終結し、一機勢は鎮圧されたのである。
が、長重の試練はここからだった。
乱の終結を確認した秀吉は、ただちに言った。
「やはり、長重は大国の主の器に非ず。大老職から免じたうえで、その領国を没収する」
元より、予定通りの行動である。
長重は慌てた。
「確かに、土佐での一件は自分の不手際だったがいくら何でもこれは罰則が重すぎる」
「いや、丹羽家の問題はそれだけではない。天正大乱の時、安土方と内通した容疑がある」
それは、まさに青天の霹靂である。
まるで身に覚えのない事なのだ。
秀吉は、証拠とする書状を取り出した。
大乱の時、安土方から送られた書状である。
それに対する、故・長秀や長重の返事となる書状もあった。
これは、当初大坂方に着くか安土方に着くかで悩んでいた丹羽親子が、大坂方に着く事をはっきりと表明する前のものだった。
だが、安土方との繋がりを断たない為にものであり、安土方に着くか大坂方に着くかははっきりと書かれたものではない。
しかしこれを、秀吉は証拠と主張した。
「まさか、言いがかりもいいところだ!」
長重は激昂する。
土佐の一揆はまだしも、以前の帳簿の不正や安土方との内通などは完全に冤罪なのだ。
このような疑いで大国の地位を失うなど、冗談ではなかった。
だが、どれだけ理を持って秀吉を説得しようとも無駄だった。
元より、秀吉は丹羽家の大量減封を考えており、理由の方が後付なのだから。
が、そんな折に若狭や越前でも一揆の兆しありと報告が来た。
これを聞いて長重はさらに慌てた。
ここで若狭と越前にまでそんな事になったら、自身への破滅は決定的なものへとなりかねない。
織田秀信に、帰国の許可を得て慌てて長重は若狭へと戻った。
しかし、これまでも秀吉に利用される事になる。
「やはり、噂は本当だった。長重は織田家に対して謀反を目論んでいる。若狭へと戻ったのは、その挙兵の準備である」
秀吉は、そう主張すると即座に陣触れを発した。
土佐・讃岐・若狭・越前の丹羽領へと兵を動かしたのである。




