109話 官位役職
大坂城――羽柴屋敷。
羽柴秀吉を上座に、黒田孝高、前田玄以、増田長盛らが話し合っていた。
「朝廷はうなずかんのか」
「はい――」
前田玄以が、申し訳なさそうな顔で項垂れている。
天正大乱の終結後、織田家の凋落を予見した玄以は、織田家を見限り、秀吉に急接近した。
ただし、これは玄以だけではなく旧織田家臣の多くがしている事だった。
秀吉を次代の天下人と見込んだ者は、秀吉に。家康の方を次代の天下人と見込んだ者は家康へと急接近していた。
秀吉としても、京都所司代として朝廷のパイプ役を務め、今でも朝廷に強いコネクションを持つ玄以の協力はありがたかった。
今の玄以は、かつて足利義昭に仕えていながらも織田信長に仕えていた明智光秀のように、織田の家臣でありながら羽柴の家臣としての仕事もこなすという非常にややこしい立場にいた。
「うーむ……」
だが、その玄以を前に秀吉の顔は渋かった。
秀吉は、天正大乱の後、自身の領土を大幅に増やした。親しい大名にも大幅な加増を行い、自身の派閥を強化した。
しかし、それでは天下を取るのに足りない。
「朝廷側も足元を見ておりますな」
長盛が言った。
「あるいは、ここ数年の態度を恨んでおるのか……」
孝高も傍らから言う。
ここ数年、織田家と朝廷の仲は冷え切っていた。
織田信長、信忠親子の方針もあり、無視ともいえる状況が続いていた。
その織田親子とは違うという点を秀吉達も見せる必要があり、膨大な献金や贈り物攻勢を行った。
にも関わらず、未だに朝廷の態度は冷ややかだった。
「だが、儂は諦めんぞ」
また、出生という点で大きなハンデのある秀吉にとって、朝廷による天下人としての権威付けは必須なのだ。
故・織田親子も、徳川家康も誰もが敬う名家というわけではない。織田家も元はといえば、分家の分家だし徳川家も、根拠としている徳(得)川家の家系図はかなり疑わしい。
が、秀吉はその彼らの比ではない。
自らが決して、人に誇れるような出生でない事は他家の大名のみならず庶民にまで広く知られているのだ。
これまでは、その事は問題にならなかった。
出生とは無縁に、これまで織田家で出世街道を歩いてきたのだ。
が、単なる織田家の重臣でいるだけならともかく天下人として全国に号令をかけるというのであれば、絶対に権威は必要だ。
単なる織田家の筆頭大老というだけでは、全国の大名に指示を出す大義名分としては弱い。
「玄以、金は惜しまん。絶対に官位を儂によこすよう説得せい」
「はっ」
玄以も平伏する。
もはや、名実ともに羽柴の家臣といった様子だった。
「殿」
孝高が話しかけた。
「何じゃ?」
「今のところ、朝廷も様子見といった段階かと。信長公や信忠公に代わる、新たな傀儡として使うはずだった信孝があのような結果になって慎重になっているだけかと」
「なら良いがの」
ふん、と秀吉は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「やはり、殿には最悪でも信長公がかつて任じられていた右大臣にはなっていただく必要がありますな」
「いや、右大臣はいかん」
秀吉の顔に、さらに不機嫌そうに皺が濃く刻まれる。
「何故ですか、亡き上様の後を継ぐという意味で縁起の良い……」
「良くないわ」
はっ、と秀吉は小さく苦笑する。
「右大臣などという職についていたからこそ、信長公はあのような末路を迎えたかもしれんのだぞ。縁起が悪いわ」
「そのような事はないかと……」
孝高は取り成そうとするが、秀吉の意思は固いようだった。
「いや、儂はこういう事には気を使うのじゃ。右大臣職には就かん。左大臣か、太政大臣にならなってもよいがの」
「左大臣か太政大臣ですか……」
傍らの長盛も呆れた様子だった。
「右大臣ですら、認められていないというのにですか」
「はっ、朝廷もいずれ儂の事を認めるわ。今の朝廷を守ってやっているのは、誰だと思っておる。我ら、織田家ぞ」
自身に満ちた口調だ。
朝廷が、いずれ自分に折れる事を微塵も疑っている様子はない。
「玄以、できるな」
「某の持てる力を、全て出してでも」
玄以の言葉にも力が籠る。
古参と、新たに家臣として加わる外様を比べれば、どうしても古参の方が優遇される。
それだけに、外様は古参以上に実績を作る必要がある。
特に、このままの地位で終わる予定のない前田玄以としては、羽柴家での実績作りに必死だった。
一方の、徳川屋敷。
こちらも、朝廷に対して働き掛けていた。
が、秀吉以上に苦戦していた。
というより、取り掛かる段階にすら達していなかったのである。
徳川家が、朝廷を軽視していたというわけではない。
原因は二つ。
一つは、徳川家自体に朝廷との繋がりが薄いという事だった。
これまで、織田信忠の忠臣として活動してきた家康は、朝廷と距離を取る信忠の方針に従い、極力朝廷との接触を避けてきた。
が、これからはそうはいかない。
天下を志すのみならず、今後も徳川家による子孫の繁栄を家康は望んでいた。
その為に、自分一代で終わらない為に強固な基盤を築く必要があった。
もう一つの原因は、羽柴家以上に直轄領が増えた為、その統治に勤しんでいたという理由もあった。
後継者として見込む、秀忠はまだ少年。
ある程度は、優秀な家臣に支えられながらも領国を治めているが、それでも限界はある。
最近では、岡崎城や浜松城といった東海道筋の重要拠点の改築・増築工事なども行っており負担も大きかった。
自身の手に負えないと判断した問題は、大坂にいる父に判断を仰いでいた。
そちらの方に、家康も気を使う必要があったのだ。
秀吉も、似たような問題を抱えてはいたが、こちらの後継者候補筆頭の秀次は既に成人している。名護屋城では失態を犯したものの、安土城攻防戦ではそれなりに実績を示しているし、新たな領国の統治も無難にこなしていた。
「なかなか、うまくはいかないものよのう」
家康は、各地から送られてくる報告書を見ながら、呟くように言った。
「少しではありますが、朝廷との繋がりはできているではありませぬか」
近くに控えていた本多正信が、励ますように言った。
「はい、烏丸光宣様などのように、御屋形様に好意的な者も少なくありません」
子の本多正純も答える。
「いずれ、御屋形様の力を朝廷もお認めになり、自然と近づいてくるかと」
「秀吉の方にもっと近づいたらどうする」
が、家康の気はなかなか晴れないようだ。
「その為には、やはり丹羽征伐を何とか中止させる必要がありますな」
「その件か」
「はい」
「やはり間違いないらしいな。伊賀者も、明らかに秀吉や親羽柴大名が戦支度をしておると報告を寄越しおった」
――丹羽領に隣接する諸大名、不穏な動きあり。
伊賀者からの報知である。
丹羽領に近い大名家の領国では最近、浪人を雇い入れ、兵の鍛錬を頻繁に行い、武器弾薬を買い付けていた。
明らかに、戦を前提にしての行動にしか思えない。
「そうよの。丹羽家とは深い誼を結んでいるわけではないが、秀吉の勢力拡張は避けるべきだしな」
何か手を打つべき、と改めて家康は思うのだった。




