106話 関東統治
関東地方。
かつてこの地は旧北条家が、支配していた。
初代早雲の代から、地道に、だが確実に版図を拡大し、四代目の氏政の代にはまさに北条家最大の版図を築いた。
三国同盟を結び、強力な盟友として存在していた今川家や武田家が徳川家や織田家によって潰されていく中も関東の覇者として君臨し続けた。
かつて、上杉謙信が関東管領の名の元に大規模侵攻を仕掛けた際もこれを追い払っている。
関東の民も、北条家を慕い、北条家もまた民に善政を敷いた。
が、それも織田信忠による関東征伐によって全てを失う事になる。
本拠・小田原城を始めて関東に散らばる多くの支城を全て開城され、北条家は滅んだ。
五代目当主・氏直は、織田信孝が決起した際に北条再興軍を結成し、北条家を復活させようと目論んだものの織田信孝率いる安土方が滅んだ事によってその計画も破綻。北条家は今度こそ完全に滅びた。
以前から徳川家康に仕えていた北条氏規の一族は残ったものの、関東の覇者として君臨していた巨大な北条家は完全に滅んだのだ。
だが、北条は滅んでも関東地方は滅びていない。
新たな主となった、徳川家はこの関東を統治していかなければならないのだ。
そんな中、ある噂が関東中に流れていた。
「おい、お前は聞いたか?」
「何をじゃ?」
「氏政様の噂よ」
「氏政様? もう何年も前に亡くなった御方であろう」
「そうよ。その氏政様の汁掛けの噂よ」
「汁掛けじゃと?」
「うむ。故・氏政様は、飯の時に汁を一度かけ、食べ始めてからもう一度かけていたらしい」
領民は、さもその場にいたかのように演技をしてみせる。
「それを見た、先代当主の氏康様は嘆いたそうじゃ。ああ、北条家も儂の代で終わりか、とな」
「? なぜそうなるのだ?」
「飯など毎日するようなものじゃろう? それにかける汁の量も推し量れんようでは、家臣や領民の器量も到底推し量れるはずもあるまい、というわけじゃよ」
「ほー、先々代様はそのような事を」
「こんな話もあるぞ。麦を刈っている領民を見た氏政様、がその場でそれを昼食にしようといいだしたという話だ。刈ったばかりの麦が食えるはずがないのになあ」
「はは、それはひどいな」
「おうよ、実際に氏政様の代で北条家も終わってしまったわけだがな」
「何を言っておる、北条家が滅んだのは氏直様の代だぞ」
「そうは言っても、実質的に北条家を仕切っていたのは氏政様であろう」
「それはまあ……そうだな」
その領民は言葉を濁した。
そして、この話を聞いた領民はまた別の領民に話すようになっていった。
このような噂が、関東中に流れていた。
しかし、実際にそのような事実はなかった。
では、偶発的に出た噂かというとそうでもない。
これは二代目当主として関東の統治を任されていた徳川秀忠の流した噂話だった。
親北条色を弱め、親徳川色を強める為に氏政の噂話を流布したのだ。
といっても、旧政権を悪者に仕立て上げる事など、歴史上、誰でもどこでもやっている事だった。
徳川家ももし滅べば、新たな政権は徳川家を貶めるような悪意を持った噂を流す事だろう。
巧みなのは、北条を露骨に悪者にするのではなく、無能な当主だったとして広めた事だった。
悪政を敷いた、などという噂では領民達も簡単には信じなかった事だろう。直に北条家に治められていた領民にとってそんな嘘はすぐにばれる。
だが、二度の汁掛けをしたなど、領民は知りようがないうえに確かめようもない事だ。
「……というわけで、徐々に旧北条家の色は取り除かれ、新たに関東を統治するようになった我らに領民達も懐き始めております」
江戸城の一室で、本多正信が秀忠に報告していた。
「さすがは若。あからさまに旧北条を貶すようなものではなく、氏政個人が愚者であったと印象付けようとするとは。当主が暗愚であるという認識が広まれば、北条に対しての好印象も自然と薄まる事でしょう」
「うむ」
そう頷きつつも、秀忠の機嫌は良くない。
というより、この正信に良い感情を持っていないのだ。
正信だけでなく、家康付きである子の正純に対しても同様だ。
彼らは、松平秀康こそが当主にという気持ちがあった。
無論、それを秀忠に面と向かって言うような真似はしなかったものの、秀忠は敏感にもそれを察していた。
……好かん男だ。だが、この男は父上のお気に入りだし、父上自らの指示で私に付けた男。家中での影響力も強い。無碍に扱うわけにはいかん。
未だ20にも達しない、若者でありながら、秀忠は良くも悪くも冷めた男だった。正信に当たり散らす愚行よりも、冷静に使いこなす道を選んでいた。
ちらり、と傍らに控える若者も口を動かした。
「本多殿の言う通りです。さすがは若」
名は土井利勝。
この年、ちょうど20歳になる。
彼は、家康の母方の兄に当たる水野信元の子。
つまり、家康とは従兄弟に当たる。
その水野家は元々、今川、織田、徳川といった大勢力に挟まれながらも強い影響力を三尾に持っていた。
が、織田・徳川両家が東西に勢力を拡大してくると、その影響力が逆に邪魔になり、武田家との内通容疑をかけられ、攻め滅ぼされた。
その後、遺児となった彼は家康の計らいにより徳川家に仕える土井利昌の養子となった。
家康から異常ともいえるまでの寵愛を受け、隠し子ではないかという話も囁かれた。
また、養子ではなく利昌の実の子ではないかとも。
いずれにせよ、破格ともいえる待遇を家康から受けており7つの頃に秀忠の傅役に任命された。
「うむ」
「しかし」
と声をかけたのは、青山忠成だった。
彼は、三河時代からの古参の男。
武田家との抗争で父が亡くなると、家督を継いだ。
秀忠生誕後は、こちらも傅役を任される。
こちらも、正信とは違い秀忠からの信頼の厚い側近だった。
江戸の奉行として、江戸城とその城下の発展に対する貢献も大きい。
「まだ、この江戸の町は発展できますぞ。我らも手のふるいがいがあるというもの」
「うむ」
だが、その信頼の厚い両側近に大しても秀忠の態度は冷淡だった。
どれだけ内心で信頼が厚くても、感情を表に出す事は滅多にない。人誑しと言われた秀吉や、家臣と共に一喜一憂して人望を集めた父・家康とはまた違った当主の在り方が彼の中にはあるのだろう。
「それはそうと上様」
「何だ?」
正信の問いにも、ほとんど感情を感じさせずに秀忠は訊ねた。
「宇都宮の方ですが」
「兄上がどうかしたのか?」
「かなりの数の伊賀者を送られている様子ですな」
「それがどうかしたか?」
徳川家お抱えの伊賀者は、平時であっても――いや、平時であるからこそ諜報活
動を活発に行っていた。
一揆や謀反の兆しなどは、起きてしまってからでは鎮圧したとしても大きな痛手となる。
そのため、家康や秀忠は各地に多くの間諜を忍ばせていたのだ。
「宇都宮では、特に問題は起きておりませぬ。そのような場所に、数を割くのはいかながものかと」
正信がじっと、秀忠を見つめる。
感情をほとんど感じ差さない正信の顔だが、秀忠は不満の色を目敏く感じ取った。
「宇都宮では、新領国にも関わらず滞りなく政務は行われております。そのような箇所よりも、上杉のような反徳川色の強い大名家を重点的に行うべきかと」
「政務が滞りなくとも、領主に問題があるやもしれぬではないか」
「何という事を仰られますか」
正信の顔がこわばる。
宇都宮の領主は何といっても、存命者に限ればもっとも年長の家康の男子だ。
場合によっては、目の前の男と代わって徳川家当主として降臨していたかもしれない人物・松平秀康なのだ。
「兄に問題がなくとも、担ごうとする者がいるかもしれん」
ふん、と少年のものとは思えない冷たい笑みを秀忠は浮かべる。
そこには、秀康に対する警戒心が強く浮かんでいる。
元々、秀康とはそこまで不仲なわけではなかった。
だが、秀忠が徳川家の次期当主になる事が確定的になると、秀康は不満をこぼし始めていた。
自分の方が後継者に相応しかった、という類の発言を秀康は悪意なし周りにこぼしてしまっていたのだ。
そういった話が秀忠の耳に入るにつれ、秀康との距離が開いていったのだった。
そんな秀忠の顔を正信はじっと見つめ続けた。
同時期。
下野――宇都宮城。
30万石を超える大身となった、松平秀康の居城である。
宇都宮家改易後、この城を本拠にする事にした秀康だが、改築工事を行う事にしていた。
その工事の為、激しく人々が行き来する中、城下にある寺。その一室である人物と秀康は会っていた。
家康の側近・本多正純だ。
宇都宮城の改築工事の進捗を見ると同時に、家康の命に従い秀康の様子を見に来ていたのだ。
茶菓子が出されているが、正純は手を出していない。
部屋に通されて以降、ずっと仏頂面の秀康がそこにいた。
「……」
「……」
正純もまた、後継者に選ばれなかったとはいえ、主君の子である秀康よりも先に声を発そうとうはしない。
ただじっと、秀康を眺めていた。
「……正純よ」
じれたように、ようやく秀康が口を開いた。
「儂は、無能か?」
唐突な発言だ。
だが、正純は黙って首を横に振った。
「いえ、そのような事は。秀康様は、御屋形様の血を引く御方であり、信州平定戦でも見事な」
「武功をあげた、か。最後に上田城で手こずりながらも」
正純の発言が、皮肉げな言葉に遮られた。
「そのような事は」
「よい」
黙って秀康は首を振った。
その顔には、まだ20にも達しない若者とは思えぬ悲哀ともいうべきものがあった。
「少なくとも、父上は儂の武功など認めておらん。故に弟を後継者に指名した」
この時期、家康の後は秀忠が継ぐ。
多くの者達がそういう認識になっていた。
「……そのような事は。秀康様は、十分に徳川家の家督を継ぐに足る器量を持つ御方です」
秀康を持ち上げつつも、露骨に秀忠を非難する事は避けた。
正純は、秀忠よりも秀康を高くかっていたが、徳川家の臣であり家康の信頼厚い側近中の側近だ。
その徳川家、そして家康の決定に異を唱えるような事は避けたかった。
「ならば何故、儂はこのような地に飛ばされた」
顔色は暗く、吐き出すように秀康は言った。
「何故そのような事を仰られますか。この地は、上杉や蒲生、伊達や最上といった有力大名に睨みを利かすのに必須な土地。そのような地を守るのは、聡明かつ勇敢な知勇兼備の御方でなければなりません。それこそ、秀康様に相応しい地です」
「ものはいいようじゃな」
正純の言葉にも、秀康の顔は晴れなかった。
「そのように自分を勇気づけても、やはり駄目じゃ。今より半分、いや3分の1でもいいから岡崎城か浜松城のような徳川家所縁の城が良かったわ」
「秀康様……」
「ふん、このくらいの愚痴は良かろう」
日が沈みかけている。
城の普請作業もこの日も終わりを迎えるようだ、急速に城下も静かになっていく。
そんな中、ぽつりと秀康が言った。
「儂がもし、三河や遠江に領国を持つ事ができたらこの宇都宮など正純、お前にやってもよい」
そんな言葉を残して秀康は正純の前から去って行った。




