103話 九州平定
肥後――隈本城。
肥後一国を与えられた、佐々成政がこの地の本拠として選んだ城だ。
それに相応しい城にするべく、改築工事を始めた。
だが、本格的な築城を前にして今回の決起となった為、工事はまだ不十分だった。
その不完全な状態でも、城としては機能していた。
その城を、毛利輝元、吉川広家ら毛利一族。それに、島津龍伯、家久を始めとする島津一族。
さらには、安土決戦が終結した本州から援軍として駆けつけた加藤清正、藤堂高虎、仙石秀久、石田三成、大谷吉継ら。
他にも安土城攻防戦には参加せず、名護屋城に留まっていたものの朝鮮の即時の逆侵攻はないと考えてこの城に向かった小西行長などもいる。
その数は、10万を超える。
今や数千ほどにまで減じて未完成の隈本城に籠らざるをえなくなった佐々成政・島津歳久を滅ぼすには大きすぎるほどの戦力といえた。
何より、彼らの盟主というべき織田信孝は既に自害し、各戦線で戦っていた味方達は滅びるか、大坂方に降伏するかの道を選んでいる。
にも関わらず、未だに彼らは抵抗を続けていた。
その抵抗は凄まじく、安土城が落ちてから一か月以上が経つというのに未だにこの城は落ちずにいた。
「……」
「……」
「……」
大坂方の、軍議の空気は重い。
佐々成政も、故・織田信長の馬廻りから一国の国主にまでなった男だし、島津歳久も勇猛果敢な島津四兄弟の一人として知られていた。
だが、これほどの戦力を投入すればさすがに磨り潰せると思っていた。
しかし、相次ぐ城攻めは失敗していたずらにこちらの戦力を減らすだけだった。
その理由としては、成政と歳久が優れた将だったというのも勿論ある。
が、それ以上の理由があった。
それは、既に後がない籠城側と違い、攻める大坂方の人間は勝者側だ。もはや、この大乱に勝利したいわば勝ち組であり、この戦いはもはや消化試合なのである。
そんな戦いに、貴重な将兵を投入したくない、という思いが積極的な城攻めを躊躇わせていたのだ。
「どうにか手はないのか」
軍議の席で、総大将格の毛利輝元が発言した。
しかし、皆は一応に顔を背けた。
誰もが、無駄に兵卒を失いたくないのだ。
「島津殿、籠るのは貴殿の弟。武勇の優れた御仁だ。その島津歳久と五分に戦えるのは貴殿以外にありえないと思うのだが」
うまい事を言って彼らに押し付けようという思惑が輝元には会った。
龍伯もそれは分かっている。
が、迂闊にそれを退ける事はできない。
島津は、大乱の最中、事実上の中立であり今の立場は決して良くはないのだ。
「買い被り過ぎです、某など弟の反意を見抜けずに離反を招いた愚かな当主に過ぎませぬ」
龍伯は否定するように言う。
下手に頷いて城攻めを押し付けられては敵わない、という思いがある。
「何とかならんのか。他の地で安土方の残党は次々と下っているというのに……」
輝元の言うように、他の戦線の安土方勢力はほぼ消滅していた。
まずは豊後の大友義統。
信孝の死後、さして時間がかかる事なく降伏。
助命はされたものの、領土は全て没収された上で毛利家へと身柄を預けられる事になった。
四国の長宗我部。
こちらも、助命はされたものの長宗我部元親は既にまともな精神状態でなく、以後は療養生活を続ける事になる。
続いて、東国。
安土城で自害した織田信孝、滝川一益らの領土は全て織田公儀へと一旦召し上げだれた。
その後で、恩賞という形で羽柴秀吉や徳川家康らに分配されていく事になる。
信濃の真田昌幸は、既に切腹している。
息子の信繁は昌幸の弟・信尹と、甥の信幸(この直後に信之に改名)の助命嘆願により、助命された。
全ての所領は没収となったものの、利根川の戦いでの戦果などから信之が後を継ぐ形で上田城城主となる。
関東の北条再興軍も滅んだ。
北条氏直、松田憲秀、大道寺政繁ら再興軍の中軸だった者達が腹を切り、それ以外の家臣らは助命された。
高野山に上る者もいれば、帰農する者もいた。
無論、他家に仕える者も。
徳川家康に仕える北条氏規は健在であり、この大乱後はむしろ加増を受けるほどだったが、あくまで徳川家傘下の一大名としてだ。関東の覇者として君臨していた北条家は、今度こそ滅んだと言える。
続いての問題は、佐竹家だった。
あまりにも重い削減処分を受けた佐竹家だが、当初は揉めた。
だが、最終的にはそれを受諾。
大大名としての地位は失ったものの、その存続を認められた。
蒲生家は、現領土の3分の1ほどの削減処分。
佐竹と比べれば甘い処分ではあり、蒲生氏郷もこれを受諾する。
里見家も、蒲生家同様に3分の1ほどの領土を召し上げられた。
宇都宮は、領土の大半を没収された。
これは、武器や兵糧などを北条再興軍に援助していたり、安土方と連絡を取り合う書状が多く見つかった為、安土方と見做された為だった。
最上義光と伊達政宗に攻められていた、寺池城の木村吉清はそのまま降伏。こちらは助命されたものの、所領の全てを没収された。
こうして、以前の会議に決まったように親羽柴・親徳川大名に没収した領土は振り分けられる事になった。
以後、天正大乱と呼ばれるようになるこの一連の戦いによる混乱は一応は治まった事になる。
この地を除いて。
元々、この九州においては安土方の方が優勢だった事もおり佐々成政と島津歳久は織田信孝が討ち死にし、安土城が落ちてからも敗北を認めなかった。
むしろ徹底抗戦に意思を固め、積極的に撃って出ていた。
だが、圧倒的なまでの数の差に奮戦も空しかった。
これにより、佐々・島津討伐軍の総勢は10万を超える大軍勢となり、逆に佐々・島津両軍からは脱走する兵も続出し、その数は5000ほどにまで減じたのである。
徐々に勢力圏も狭まり、ついには隈本城にまで追い詰められたのだった。
しかし、この隈本城で彼らは粘る。
数日で済むと思われたこの隈本城攻めは、一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。そして一か月が経ってしまった。
こうなってくると、10万もの兵を食わせている攻め手の方の兵糧にも不安がでてくる。
これ以上の長陣は避けたい。
輝元、いや包囲軍全体にはその思いが強い。
「御屋形様」
吉川広家が声をかけた。
朝鮮半島から帰国後、この陣に加わっていた彼だった。
「ここは何としても、力攻めで落としましょうぞ」
「いや、死を覚悟した兵というのは侮りがたいものある。ここは何とか穏便に交渉ですませるべきかと」
小西行長は反論する。
朝鮮の地で、実力的には遥かに劣る朝鮮の義勇兵相手に苦戦してきた彼だけに説得力のある言葉である。
だが、広家も反論する。
「いや、奴らを許す方が危険だ。今後の戦乱の火種になりかねない。そのためにも」
「何が何でも討つと申すか」
「はい。それに、これまでの戦いで相当に疲弊しているようですし、何より兵糧も武器弾薬もかなり減っているはずです。必ず落とせます」
「しかし……」
それに行長らがさらに反論し、議論は長引く。
結局、結論の出ないままこの日の軍議は終わった。
翌日からも城攻めが続く。
だが、その間にも行長は、輝元の許可を取り何とか穏便にすませるべく籠城する佐々成政たちと交渉を始めた。
・佐々成政、島津歳久は現在の所領を全て没収するが助命する。
・隈本城内にいる者達も同様とする。
この二点を重点的に、交渉した。
そして、それは順調に進んでいった。
佐々成政も島津歳久も、辛うじて城を守れてはいたものの、先の見えないこの状況に不安を感じていたのだ。
援軍の当ては、もはやない。
島津本家は歳久を見限り、近隣で最も大きな力を持っていた大友義統は大坂方に下った。
敵が増える事はあっても、その逆はありえない。
広家が軍議の席で言ったように、食糧も武器弾薬も不足してきている。
兵の士気もどん底まで落ちていたのだ。
以上の事情から佐々成政と島津歳久は降伏を決め、自ら輝元のいる本陣へと赴いた。
だが、そこを加藤清正率いる部隊が強襲した。
「おのれっ! これが勝者のやり方かっ」
佐々成政も島津歳久も怨嗟の言葉を残し、最期まで抵抗したものの多勢に無勢。
最終的には討ち取られた。
大将格の二人が討ち取られた事により、一気に城内の士気は萎えた。
10万もの大軍勢の総攻撃に耐えられず、これまでの抵抗が嘘のようにあっけなく落ちた。
だが、これに激怒したのは小西行長である。
「何故このような事をしたっ」
歳久と成政の助命を条件に、開城の条件を取り付けた行長の面子は丸潰れとなった。
だが、清正の返事は飄々としたものだった。
「成政たちとの交渉は貴殿が勝手にやった事。某達は、大坂からの指示通りに殲滅をしただけでござる」
事実、輝元や広家も清正のやり方を許容した上で行われた事だった。
だが、自分の交渉を利用された事が行長には許せなかった。
……儂はまるで道化ではないか!
釜山での一件に加え、さらに清正と行長の溝が深まる事になったものの、この隈本城も遂に落ちた。
ちなみに、以後この地の領主となった清正の考えにより、この城は「熊本」と呼ばれるようになる。
そして。
――安土方の勢力はこの地で完全に滅んだ。