101話 信賞必罰
安土城を陥落させた、大坂織田軍15万の大軍勢はそのまま事後処理の為、炎上した安土城に一部の武将を残し、大半の軍勢を京の都に戻した。
そして、朝廷に事の次第を報告し、自身らの正当性を訴えた。
朝廷も織田信孝が死んだ今となっては、もはや安土方にこれ以上肩入れする必要は微塵もなかったのである。
大坂方の正当性を認めた。
京で一泊した後、秀吉や家康は大坂城へと戻った。
そして、織田家当主・織田秀信の名で、改めて信孝の死が全国の諸大名に従った。こうなっては、安土方に組していた大名達も矛を収めるほかない。
未だに粘っている大名もごく一部はいたが、概ね安土方に従った。
そのわずかに残った旧安土方の大名達も、近隣の大名に命じて討伐命令が出された。
彼らが降伏、あるいは自害し、完全に安土方が崩壊するにはまだ少し時間がかかると思われた。
とはいえ、もはや大勢は決した。
そんな中、大坂城の大広間に多くの武将達が集った。
織田秀信、織田信雄、織田信包ら織田一族。
羽柴秀吉、秀長、秀次ら羽柴一族に加え、黒田孝高、福島正則、仙石秀久、浅野長政、増田長盛、石田三成、田中吉政、山内一豊、蜂須賀家政、加藤清正ら羽柴軍団。
徳川家康、松平秀康ら徳川一族に加え、本多忠勝、石川数正、榊原康政、井伊直政、鳥居元忠ら徳川軍団。
決戦が終決したとはいえ、未だに抵抗をやめない場所も多く、いまだ一部の家臣はそちらで戦っていた。伊達政宗は寺池城の事後処理などが残っており本人が来る事はできなかったものの、片倉景綱を代理として大坂城へと送り込んできていた。
そして、これは羽柴秀吉と徳川家康にとって戦場だ。
共に、新たな天下人を目指す者達にとって、勝者への恩賞と、敗者への処罰は大きな意味を持つ。
どれだけ、味方に恩を売れるかを競う戦いでもあるのだからだ。
「一同大義」
織田秀信が言った。
最上位の上座からの発言のはずだが、どこか迫力がない。
少し下の席に座っている羽柴秀吉と徳川家康の存在感により、完全に秀信の存在は食われてしまっている。
今回の大乱の終結を宣言する言葉と、労いの言葉が諸大名にかけられてから、発言権を秀吉と家康に奪われた。
以後、秀信ではなく秀吉と家康が主導する形で領地の分配が決められた。
まずは、処罰。
安土方に組した大名の処罰が決まった。
織田信孝、柴田勝家、滝川一益ら既に討ち死にしている安土方の重鎮達。当然の如く、その所領は没収された。
彼らが討ち死にした時点で、概ねの安土方の大名は降伏したが初期の頃に挙兵していた佐々成政、島津歳久らはあくまで抵抗しており、いまだに毛利輝元や吉川広家の軍勢と戦っている。
信孝や勝家のように中軸を担っていた者達の多くが、討ち死に、あるいは自刃した為に死罪を申し渡されたものはいなかった。
が、当然のようにその家臣達は所領を没収され浪人する事になった。
筒井定次や、蒲生氏郷のように途中から大坂方に組した者達は減封処分となった。減封量は、大坂方に組してからの功績によって考慮された。
特に、北庄城攻めや安土城攻めで功のあった前田利家は、数千石高ほどの削減で済まされており、これは秀吉と親しい間柄だったという点が大きい。
そして、恩賞。
当然の如く、秀吉と家康は自分達の直轄を大幅に加増した。
秀吉は、没収した成政の肥後、大友吉統の豊後らに加え、近江、山城を得る。家康はそれ以上だった。自ら切り取った、信濃に加え、上総、下総、安房、上野、下野、といったように関東の大半を得た。
織田信雄は、本人こそ不参加だったものの彼の家臣団は小牧の戦いや、大垣・佐和山城の戦いでの活躍があり、大和一国が加増された。
土佐と越前は、約束通り丹羽長秀に。これにより、長秀は一気に大大名の地位を得る。
上杉景勝は、越中の地を得る。さらに、大宝寺の領していた庄内地方を得る。この地に関しては、後に問題になってくるがここでは割愛する。
最上義光は、没収された旧蒲生領から加増された。
伊達政宗は、旧木村領から加増を受けた。
島津に関しては、歳久の所領を没収処分とし、一時織田の直轄領とした後、朝鮮で武功をあげた島津義弘への恩賞という形で島津に再び与えられるという事になった。
最も、歳久は未だに抵抗している最中だったが。
ほとんど中央の争いに関与のなかった、秋田や津軽、南部といった東北の大名達はその所領を安堵された。
毛利は、筑前と伊予にあった織田の直轄領から加増された。
羽柴秀長は、紀伊和歌山へ。
福島正則は、豊後へと加増転封する事となった。
朝鮮での功績などから、加藤清正と小西行長はそれぞれ肥後半国を与えられた。一躍20万石ほどの大大名へと出世した事になる。他の子飼武将達も、もちろん加増はされたがこの二人の加増率は異常ともいえるほどだった。
松平秀康は、信濃平定の恩賞として旧宇都宮領――宇都宮は、北条再興軍を積極的に支援したとして安房に減転封された――などを中心として大幅な加増を受け、一躍40万石近い大大名となった。
他の徳川家臣団も無論、それぞれ加増がされた。
この論功賞は、必ずしも公平に行われたわけではない。
一部は秀吉や家康の思惑が大きく反映された件もあった。
その筆頭が、前田利家である。彼は、前述の通り秀吉と親しい関係にある。その為、安土方に組していたにも関わらず、軽い処分ですまされ、能登・加賀二国の領主としての地位を安堵されている。
次に、佐竹義宣である。彼は、安土方と大坂方の間で揺れ、日和見な態度を続けていた。彼らがようやく、大坂方に組したのは小牧の戦いで、織田信孝が敗れ去り、完全に大坂方が優位に傾いた頃だった。
とはいえ、積極的に大坂方に槍を向けたわけではない。にも関わらず、家康は佐竹の改易を訴えた。
これには理由がある。江戸に本拠をと考えている家康にとって、その近くに50万石もを超える大大名、それも信用できない相手をおいておきたくなかった。その為、厳しい処罰を望んだのだ。
が、秀吉の取り成し。さらには、常陸という統治の難しい地から佐竹を完全に追い出してはその後が難しくなると考え、結局は常陸領内に10万石のみ安堵された。
この論功に関する会議は、秀吉と家康を中心として三日三晩に渡り行われ、その結果をまとめたものが織田秀信に渡り、承認された。
ようやくひと段落ついたが、無論これで終わったわけではない。
あくまで、この大坂城で秀吉と家康らが紙の上で決めた事だ。
この仕置に納得できかねるという大名もでるだろうし、その場合はなおも抵抗を続ける事だろう。
それらの平定の為、大坂方の軍勢の大半が未だに各地に散らばっていた。
だが、当面は一息ついた事になり、これからの事も話し合われることになった。
秀吉が、家康に提案する。
「新たな公儀体制を築こうと思っておりましてな」
「新たな公儀体制……とはどのような?」
「うむ。秀信公はまだ幼い。とても、日の本全域に目を光らせる事はできますまい。そこで、当面の間は我らで合議して仕切るべきと思いましてな」
「なるほど……」
秀吉の提案に、家康は頷く。
「五大老制度、というのは如何でござるか?」
「五大老?」
「左様。幼年の秀信様に代わり、当面の間は大大名同士で合議して織田公儀を動かそうと考えているのでござるよ」
「ほう……」
感心したような顔の家康に、秀吉は告げる。
「そのうちの一人に徳川殿を、と儂は思うておる」
「ほう。某をですか。それは光栄ですな」
「無論、今や徳川殿は天下一の身代。徳川殿おらずして日の本は回りますまい」
そう言って秀吉はははは、と快活に笑った。
「そう言われて悪い気はしませんな」
家康も笑い返した。
「それで、羽柴殿も?」
「うむ、身に余る大役ではあると思いますが、分不相応にも徳川殿とほぼ同等の身代を得る事になりましたゆえな。辞退するわけにはいかんのですよ」
……よく言うわ。
野心の色をもはや隠そうともせず、ぎらぎらと瞳を輝かす秀吉を見て家康はそう思った。
……秀吉も、決意しておるのか。
天下人への道を。
そうなれば、いずれは最大の敵となろう。
だが今は、違う。
今すぐに秀吉と戦う気はない。
「それでは、某と羽柴殿がその五大老とやらになるとしても、五大老というからには後三つほど席が空いておりますぞ」
「誠に勝手ながら、某は丹羽殿と毛利殿、それに上杉殿を推薦したいと思っております」
「丹羽殿はともかく、毛利殿に上杉殿でござるか……」
丹羽長秀は、今や100万石ほどの大身代となった。
織田家の古参でなおかつそれほどの所領を持つ者で丹羽長秀と並べるような者は、もはやいないといっていい。
懸念事項は長秀は既に病に侵されており、実質的な政務は子の長重が担っている状態だという点だが、それ以外は何の問題もない。
が、毛利輝元と上杉景勝は違う。
かつては敵対していた大名だ。
「毛利殿も、上杉殿も此度の大乱では、大きな功がありました。かつて、織田と槍を交えたとはいえ、今は織田の忠臣ですぞ」
「……」
「それに、彼らほどの大身は他におりません」
それは事実だ。
現在、織田宗家、羽柴家、徳川家、それに丹羽家を除けば100万石を超える大大名は毛利と上杉しかいない。
そういう意味では、秀吉の主張は何も間違っていないといえよう。
が、問題はこの二家が親羽柴大名だという点だ。
天下を志す為、これから凄まじい派閥争いになる事を家康は予見している。その際、有力な親羽柴大名を五大老という職に就ける事に大きな不安を感じていた。
だが、有力な反論はできない。
結局、五大老職には、羽柴秀吉、徳川家康、丹羽長秀、毛利輝元、上杉景勝が着任する事になった。
席に空白ができた場合の、代理職、及びに補佐職として三中老と呼ばれる存在も決められた。
宇喜多秀家、細川忠興、前田利家ら三名である。
秀家と忠興はともかく、利家は安土方だった男だ。
家康はそれを指摘したが、ここでも秀吉の意見が結局は通った。
これにより、領国の分配、及びに新たな公儀体制は無事に決まる事になった。
「では、これより先は討伐を祝し、盛大に酒宴を行おうと思っておりますが、その前に、一つ某に今は亡き上様からの遺品をいただきたいと考えております。ですが、徳川殿にもその同意をいただければと思いましてな」
「亡き上様の遺品?」
「はい。 ……おい、持ってまいれ」
と秀吉が傍らに控える小姓に指示を出す。
小姓は頷くと下がり、あるものを携えて戻ってきた。
「これは……」
光り輝くそれに、家康も思わず目を見開いた。
「もしや、徳川殿にも見覚えがあるのではござらんか?」
「見覚え?」
「かつて、今川義元公や織田信長公が所持していた名刀・左文字でござるよ」
「ほう……」
家康も感心を示した。
左文字は、桶狭間の戦いで横死した今川義元がかつて所持していたもの。
桶狭間で義元を討った信長がそれを奪い、本能寺で信長が横死した後は信忠が安土城で保管していた。
が、あの決起により安土城は占拠され、織田信孝の手に渡る。
そして安土城が陥落し、天正大乱が集結した後に安土城を接収した大坂方の手に渡ったのである。
そのような経緯から義元、信長、信忠、信孝と天下を志した者達によって引き継がれている刀なのだ。
「これほどの、天下の名刀。無事に確保できたのは僥倖というほかない」
「……」
「この名刀、某がいただこうと考えておりますが、よろしいですかな?」
これは、ただの刀ではない。
天下を志す者達が手にし続けたものなのだ。
秀吉と、家康の視線が対峙する。
数秒ほどの沈黙ほどの後、家康が言った。
「……羽柴殿の好きにされるがよかろう」
「ほう。よろしいのですかな?」
秀吉が意外そうに言った。
「それが、天下の名刀。某ごときには、まだ荷が重い」
「……」
「いずれ、その刀に相応しい存在になった時にいただくとしましょうかな」
「ほう……」
秀吉は興味深そうに目を細めた。
「そうですか。ですが、某は強欲な男ですゆえ、再び徳川殿が手にする機会は残念ながらないと思いますがな」
「たとえ、某の代では無理でも、秀忠やその子の代になった時にでも譲り受けたいものです」
二人は、顔だけは笑いあっていた。
だが、その内面では新たに来るであろう大乱を予想していたのである。
後は酒宴となり、この日は終わった。
同時に、新たな激動の時代の始まりともなったのである。