序章 信忠生還
この作品は、架空の武将を1人ぶっこんだ信忠生存からはじまる仮想戦記となります。
ただし、このオリジナル武将はあくまで歴史の一登場人物としての扱いであり、一方的に無双するような展開はありません。
また、本作では武将を原則的に諱(信長様、光秀殿等)で呼びあっております。
本来、諱で呼び合うのは主君や肉親、あるいは敵でもない限りありえない事ではありますが、分かりやすさを重視するためのものとしてご了承ください。
「天は、我を選ばぬか――っ!」
山崎の地に、明智光秀の声が響き渡った。
その声は、無念の色によって塗りつぶされている。
唇は強く噛みしめられ、血がにじんでいるがそれをぬぐおうともしない。
この合戦場で、明智軍と羽柴軍の軍勢が激突していた。
だが、合戦の流れは、羽柴側に傾いており、光秀の軍勢が押されていた。
銃声や、悲鳴が戦場から聞こえてくる。
そんな戦場を茫然と見ながら、光秀はこれまでの事を思い返していた。
天正10(1582)年の6月13日。
11日前に、本能寺にて日の本の大半を支配し、天下人に最も近い男と言われた織田信長を明智光秀が討った。
光秀とて、勝算もなしに謀反を起こしたわけではない。
光秀にも味方がいる。
まずは、光秀の盟友・細川藤孝だ。
彼とは将軍・足利義昭に光秀が仕えていた頃からの盟友であり、長年苦楽を共にしてきた仲。
関係は深い。
また藤孝の嫡男・忠興は光秀の娘を正室としていた。
続いて、大和の筒井順慶だ。
彼は事実上の組下大名であり、光秀との関係は深く、多くの戦場を共にしてきた。かつて、松永久秀を討って大和を平定した際、大和は光秀に下される予定であった。だが、光秀は彼に大和の地を譲っている。
その件で恩があるはずだ。
それに、個人的な親交も深かった。
何より、四国には長宗我部元親がいる。
長宗我部は有力な味方として計算できた。
四国の長宗我部家と明智家の親交は深い。
まだ、長宗我部が土佐一国すら統一してない時期から、元親は畿内で勢力を拡大する信長と接近し、誼を通じていた。
当時の信長は、四国の阿波に本拠を持つ三好家と敵対していた。
同じく四国で勢力を拡張する長宗我部としても、時の権力者となりつつあった信長の力はあって困るものではない。双方の利害は一致した。
そのため、信長は長宗我部と誼を結び、四国の切り取りも認可した。
その時から取次として光秀は元親と親交を深めていたのだ。
それだけではない。
長宗我部の当主・元親の嫡男である信親の正室は、光秀の家臣である斎藤利三の異父妹でもあるのだ。
今回の謀反の裏には、長宗我部を支援するという理由もあった。
三好家はすでに弱体化しており、甲州崩れにより武田も滅んでいる。東方の脅威を取り除き三好の力も弱まった今、信長にとって長宗我部の価値は著しく下がっていた。
いや、むしろ邪魔になっていた。
しかも、長年の宿敵であった石山本願寺を下し、念願の大阪を手に入れた信長は大坂に本拠を移そうと考えていた。
――大坂を本拠にする以上、四国は信頼のおけるものが統治した方が望ましい。
そう考える信長にとって、四国一帯に独立勢力があるのは我慢ならない事だったのだ。
そう考えた信長は長宗我部との断絶を決断し、一度は認めていた長宗我部の四国は切り取り自由という約束も反故にした。それどころか、三男・信孝に丹羽長秀や九鬼嘉隆をつけ、四国征伐に乗り出そうとしていた。
そんな長宗我部にとって光秀はまさに救世主といえた。
長宗我部は味方だ。
一方の反光秀派になるであろう、織田家臣団はというと。
まずは柴田勝家。
彼は、北陸方面軍の総司令官として上杉を滅ぼすべく越中の魚津城を攻めていた。この時期、上杉家は謙信亡きあとの家督争い、御館の乱において景勝と景虎が激しく争い、著しく弱体化していた。最終的に家督を継いだ景勝にもほとんど力は残っておらず、北陸戦線は柴田軍優位に傾いていた。
だが、それでも上杉は大国。武田のように滅ぼすにはまだ相当な時間がかかると思われたし、和睦も容易ではないだろう。
次いで、羽柴秀吉。
彼は、中国方面軍の総司令官として毛利を滅ぼすべく備中の高松城を攻めていた。こちらの戦線も、羽柴軍優位に傾いてはいたものの、まだ毛利に力は残っている。柴田勝家同様撤退に相当な時間がかかるものと思われた。
次は滝川一益。
武田家滅亡後、上野と関東管領の椅子を手に入れていたが、その基盤は盤石とは言い難かった。信長の死を知れば、武田の旧臣が放棄する危険がある。
それを考えれば、迂闊に動くことはできない。
同じく旧武田領を拝領した、甲斐の川尻秀隆や信濃の森長可らも同様だ。
そして、信長の同盟者・徳川家康。
彼らは今、堺にいた。
だが、軍勢を引き連れていたわけではない。
盟友・信長の誘いにより、堺見物をしにきていただけだ。本多忠勝や榊原康政、といった有力武将を引き連れていたものの、まとまった兵力はない。
それに、その家康旗下の武田旧臣・穴山梅雪(信君)。
武田家滅亡後、家康に下った彼は家康に同行して堺にいたが、こちらもまとまった兵力は持っていなかった。
彼らは領国に帰れるかどうかすら、定かではない危機的な状況にあったのだ。
領国に帰ることなく、どこぞの山奥で果てる可能性すらありえるのだ。
さらには織田信孝。
彼は、前述通り長宗我部を征伐するべく軍勢を大坂に集めていた。だが、信長の死の情報による動揺は大きいはずだ。
逃亡兵も相次ぐだろう事。
以上のことから、織田軍団は当分の間、機能することはできず、その間に畿内で勢力を固め、迎え撃つつもりでいた。
だが、光秀の目論見は脆くも崩れる事になる。
大阪にいた信孝の軍勢は、信長の死を知り動揺し、脱走兵が相次いでおり、こちらに関しては予想通りだった。
さらに、「家康討ち取ったり」の報告も届いた。
この2点に関しては順調ともいえる滑り出しだった。
だが、他の2つの問題が、光秀を今まさに追い詰めようとしていた。
そのうちの1つこそが、毛利攻めをしていた秀吉だった。
秀吉は、信長死す、の知らせを受けた秀吉は大急ぎで軍を返した。
秀吉や勝家が毛利と上杉と和議を結んで京へと引き返してくることは、光秀の予想の範疇にあった。
だが、わずか数日間で戻ってくるとはさすがに予想できなかった。
秀吉の大返しを知った周りの諸大名は、反光秀の態度を取る事になる。
盟友の細川藤孝は、光秀の娘を離縁した上で幽閉し、自身も隠居して嫡男の忠興へと家督を譲った。
組下大名のはずの、筒井順慶はあからさまに光秀に反旗を翻してはいなかったものの、積極的な加担を避けた。
逆に、秀吉は信孝や長秀の四国方面軍も取り込み、3万ほどに膨れ上がっていた。
対する、光秀は1万3000ほど。
人数という点で、大きく劣ることになる。
だが、時間を稼いだところで光秀の有利になるとは思えない。
むしろ、不利になるだろう。
さらに、この時点の光秀は知らないことだが、光秀の兵は穴山梅雪を家康と勘違いして討ち取ってしまっており、本物の家康は無事に堺を脱出していた。
その家康は、帰国と同時に光秀討伐の軍勢を起こすつもりでいたのだ。
――いずれにせよ、光秀は圧倒的な劣性にありながら秀吉に決戦を挑んだ。
いや、人数で劣る状態であったからこそ、その状態で秀吉の軍勢を打ち破ることによって明智軍強しの印象を諸大名に見せつける気でいたのだ。
が、それは完全に裏目に出た。
この山崎の合戦において、戦の流れがどちらに傾いているのかは素人目にも明らかだった。明智軍の陣形は大きく崩れつつあった。
(くそっ――! 信長を討ち取りながらも私はここで果てるのか――)
辺りに飛び交う悲鳴は銃声をどこか他人事のように聞きながら、光秀は茫然として立ち尽くした。
(いったん、近江の坂本城に逃れるべきか――)
光秀の脳裏に、自身の居城である坂本城の天守が頭に浮かぶ。
(いや、無理か)
ふ、と光秀は自嘲する。
劣勢になった者に、戦国の世を生き抜いた大名達は恐ろしく冷たい。
そうなれば、日和見を決め込んでいる筒井も。手切れを宣言した細川も、今度は敵として攻め込んでくる。
(それにあの男が、近江にはいる。近江も危険だ――)
この謀反に、光秀の計算外ともいえるもう一点。
秀吉の大返しに並ぶ、もう一つの計算外のこと。
それは、
(信忠を、逃してしまった事――)
本能寺で信長を討った後、妙覚寺で信忠を討とうとした。
だが、その目論見は崩れた。
(あの時――)
ぎり、と光秀は奥歯を噛みしめる。
あの時、信長を首尾よく討ち取った後、嫡男の信忠も即座に討ち取るべく軍勢を動かした。
だが、あろうことかその軍勢を指揮していた光秀与力の指揮官が裏切り、信忠と共に京の都から脱出してしまったのだ。
結果、安土城まで逃れられた。
うめくように、自身を裏切った家臣の名前を吐き出した。
「おのれ、金剛秀国――」