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あの後、大上さんに途中まで送ってもらい、家に帰ってきた。
少しだけ気持ちが明るくなっているのは大上さんのお蔭。
でも、凰士の事をどうするかは何も決めていない。凰士の気持ちを疑っているわけではない。
ただ、私自身の事がわからない。
凰士の事、好きな、愛している気持ちはあるけど、少し先の、凰士のプロポーズを受け入れてからの自分がわからない。あの白馬家でやっていける自信はない。身の置き場を見出せるかわからない。きっとすぐに淋しくなる。不安になる。
私はそれを乗り越えられるんだろうか?凰士の重荷にならずに、生きていけるんだろうか?
何より、私なんかが白馬家の跡取りの嫁として、やっていけるんだろうか?と、凰士の傍にいる事を前提に物事を考え込んでしまった。
バカね。きっと、今頃、退職願は受理され、私は会社を去る。そして、ここじゃない場所で、新しく始める準備をしているのに。未練多らしい。
眩しいくらいの日差しが入り込む窓を見上げ、小さく溜息。
一週間の休みが終わったら、とりあえず旅行に出る。行き先は決まっている。大学の四年間を過ごしたあの街。就職先と住む場所を見つけ、新しく始めるんだ。それが軌道に乗り出したら、恋愛をしよう。平凡な男性と平凡な結婚をして、平凡に子供を産んで育て、平凡な毎日。嫌な事や悩みもあるけど、平凡を噛み締められる、そんな日々を過ごす。それが一番私に似合っている。
日常に流されれば、きっと凰士の事はすぐに忘れる、忘れられるはず。
昔、こんな恋愛したなって、笑えるようになる、きっと。
これって、逃げかなと思わないでもないが、それでいい。人生には逃げ道があってもいい。それを選ぶのは今しかない、きっと。
知らない間に溜息を零していた。自分でそう決めたはずなのに、迷いが生じている。
もし、凰士が白馬家の跡取りじゃなかったら、ずっと一緒にいる答えを選んだかもしれない。
なんて、仮定の上の想像をしても仕方がない。
「あぁ、全然進んでないや。」
目の前においてあるパソコンに視線を向けた。引継ぎの資料を作っていたはずなのに、一行も進んでいない。気分転換に紅茶でも飲もうと一階に降りる。
「どうしたの?白雪。」
「うん。紅茶でも飲もうと思って。」
「じゃあ、お母さんのもお願い。」
「はい、はい。」
まだ両親には休み明けの事、退職願を出した事を話していない。いや、凰士と別れた事さえ話してはいない。
まぁ、吹雪が話すはずもないから、知らないだろう。今夜にでも話さないといけないな。
「ちょっと、出て。お母さん、手が離せないの。お願いよ。」
「はぁい。」
チャイムの音を無視していると、お母さんからのご注文。
早足で玄関へ。ドアフォンを見る癖が身についていないため、そのまま、ドアを開ける。
そこに立っていた相手を確認すると同時にドアを閉めようとした。
が、足を挟み、阻まれる。ガラと性質が悪い訪問販売かと突っ込みたい。
「話がある。」
「私はない。」
足を出したまま、私の右手を掴む。振り払おうとするけど、本気の力を出しているのか、びくりともしない。
こういうとこ、嫌いだ。
「白雪を借りていきます。」
奥にいる母親に声を掛け、さっさと手を掴んだまま、歩き出そうとする。
「白雪、凰士くんなの?」
母の声が奥から聞こえるが、返事をする余裕はない。
取り込んでいるのよっ。
「行かない。」
左手でドアにしがみ付き、足に力を籠めた。握られた腕が離れたので、ドアを閉めようとした瞬間、私が宙に浮く。
「えっ、あっ。」
有無も言わさずに、肩に乗せられ、荷物扱い。手足をばたつかせ、本気の力で殴っているのに反応はなし。そのまま、車の助手席に押し込まれる。体勢を起こし、逃げようと車のドアに手を掛けた瞬間、車が発進した。
「ちょっと、何を考えているのよ。」
「抵抗する白雪が悪いんだろう。」
「話なんて、ないもの。」
「俺にはある。」
不機嫌を綺麗な顔に貼り付け、短い返事。
これは完全に怒っている。
「仕事は、どうしたの?」
こんな質問はどうかと思うが、沈黙に耐え切れない。
「早退してきた。」
「今日、新作の出荷が一軒あったでしょう。それはどうしたのよ。」
「もう済ませてきた。伝票も上げた。」
「そう。」
しっかりしている事。感心するわ。
「何処に向かっているの?」
「俺の部屋。」
「今、話し出来ないの?」
「話に集中したら、運転が出来なくなる。」
「じゃあ、何処かに止まればいいじゃない。」
「じっくり話さないといけないんだよ。」
「あぁ、そう。」
もう二度と行く事がないと思っていた凰士の部屋。
ヤバイ、鼓動が早くなっている。うぅ、逃げ出したい。
車が凰士の部屋の地下駐車場に止まった。
逃げ出すなら今しかない。
ドアに手を掛け、開けた瞬間、凰士に抱き上げられる。お姫様抱っこだ。
「ちょ、ちょっと。」
「こうでもしないと逃げ出すだろう。」
私の事をよく理解してらっしゃる。なんて、暢気に感心している時じゃない。
絶対に向かい合って話を始めたら、私、泣く。
器用に片手でドアの開閉をして、凰士の部屋に到着。ソファーに下ろされる。
「今、お茶淹れるよ。」
「いらない。それより話って何よ。私、こう見えても忙しいんだからね。」
「逃げ出す準備か?」
「別に逃げ出さないわよ。そんなの関係ないでしょう。」
苦笑を浮かべ、隣に腰掛けた。
少し近付けば触れられる場所に凰士のぬくもりがある。それなのに、何処までも遠い。
「退職願を出したんだって?」
「えぇ、他にやりたい事があるの。」
「この間の男と結婚するのか?」
「彼は、彼は関係ないわ。」
「そう。やっぱり、彼氏でも何でもないんだろう。」
「もう放っておいてよ。」
投げ遣りの返事を繰り返す私。冷静な凰士。
私がバカみたい。
「白雪、改めて言わせて欲しい。結婚してください。」
「だから、出来ないと言っているでしょう。」
「白馬の家を出る。いや、正確に言うと、白馬家と縁を切る。だから、一人の男として、俺と一緒にいて欲しい。ちゃんと、ここを出て、小さなアパートを借りて、仕事を探す。白雪と二人力を合わせれば、それが出来る。」
「凰士…。」
「俺が白馬家の跡取りだから、結婚はムリなんだろう。俺、白雪と一緒にいるためなら、他に何もいらない。俺を育ててくれた両親も何もかもを捨てる事が出来る。だから、俺を受け入れて欲しい。」
どうして、そんな事を言えるの?凰士が嘘をつくはずがない。だから、心からの言葉。
例え、嘘でもこういうのって、ずるいよ。
「バカよ。」
声が震えている。瞼が熱くて、胸が痛い。
「知っている。」
「何で?」
「白雪が俺の全てだから。」
「私より綺麗な人も可愛い人も性格が良い人も星の数ほどいるのよ。」
堪えていた涙が頬を伝う。
「でも、俺が愛している白雪は一人だ。」
「凰士のバカ。」
凰士の胸に飛び込んだ。
ここが私のいるべき場所だと思った。
凰士が一瞬だけびっくりしたが、次の瞬間には背中に腕を回し、抱き締めてくれる。
「だから、イヤだったの。凰士のそういう所、ずるい。私、やっと自分の気持ちに整理をつきそうだったのに。」
「そんな必要ないだろう。」
優しく髪を撫ぜてくれる温かで優しい手。私のずっと求めていたぬくもり。
「私も凰士と一緒にいたい。ずっとずっと辛かったの。でも、それが凰士のためだから、私のためだからって、何度も言い聞かせたのに。それなのに、結局戻ってきてしまう。」
「運命の赤い糸で繋がっているからね。多分、ワイヤーロープみたいに太くて丈夫なんだろう。だから、絶対に切れない。」
「ずっと一緒にいてくれる?」
「ずっと一緒にいるよ。白雪が嫌だと言っても離したりしない。俺の精一杯で白雪の傍にいる。」
少し顔を上げて、凰士の顔を見つめる。涙で滲む視界に凰士が映っている。
「ねぇ、愛しているって言って。」
「愛しているよ、白雪。」
愛しそうに瞳を細め、微笑む凰士。
「私も凰士の事、愛している。だから、絶対に離さないで。私と一緒にいて。」
「結婚、してくれるよな?」
「条件があるの。」
涙を拭い、凰士のぬくもりから離れた。掌をきつく握り締め、視線を落す。
「立派に白馬家を守って。お義父さんとお義母さんが、さすが凰士だって言ってくれるくらいに。私と結婚した事、後悔しないくらいに。」
「白雪…。」
「私が凰士のお嫁さんになって、白馬の家が傾いたら、何を言われるかわからないでしょう。私も、私に何が出来るかわからないけど、何処までやれるか自信がないけど、精一杯、凰士を白馬家を支える。だから、私を見捨てたりしないで。重荷だと思わないで。」
「そんな事、思うはずがないだろう。白雪がいてくれるんだから、頑張れるんだからさ。」
「でも、多分、時間が経てば、私の事、重荷だと思う。余計な苦労をさせるヤツだと呆れると思う。そうしたら、迷わずに、追い出してね。私、大丈夫だから。」
凰士が微苦笑を浮べながら、両腕で私を抱き寄せた。
「バカだな。どんな時もどんな事があっても白雪は白雪だろう。俺の愛している白雪だ。」
しゃっくりを上げながら、凰士のぬくもりに寄り添った。
「白雪に笑ってもらえるように努力するよ。幸せだって言ってもらえるように。だから、結婚して欲しいんだ。」
「約束ね。」
「あぁ、約束だ。」
一ヶ月以上も悩んだ事が嘘のように、凰士のぬくもりは安心する。
あんなに悩んだのがバカみたいだけど、もうどうでもいい。私はやっぱり凰士と一生一緒にいたい。
「白雪、受け取って欲しい物があるんだ。」
「何?」
ポケットから小さな袋を取り出した。私があの時返した指輪と合鍵、そして、見慣れない小さなジュエリーボックス。
「これは?」
「白雪に渡したくて、ずっと持っていた。」
「開けてもいい?」
「もちろん。」
ゆっくり開けると、ダイヤモンドが綺麗な輝きを放つ指輪。
「凰士?」
「あの時、渡そうとしていたんだ。婚約指輪だよ。白雪だけのために作ってもらったんだ。白雪の喜ぶ顔が見たくて。」
「ありがとう。」
手に取ると、リングの裏側に何か刻まれている。
OWJI&SHIRAYUKI。
何度か瞬きを繰り返し、凰士の顔を見上げた。
「いや、格好良い事を書こうと思ったんだけど、どうも上手くいかなくて…。」
「凰士らしいじゃない。」
「そうかな?」
「私は嬉しいよ。」
「じゃあ、良かった。」
リングを左手の薬指に嵌めてみる。ジャストサイズのはずなのに、痩せたせいだろうか、幾分緩い。
「あれ?この指輪と同じサイズにしてもらったのに、おかしいな。」
「痩せたのよ。」
「そうだよな。どうする?サイズ直しする?」
「ううん、必要ない。だって、今日から普通に食事が出来ると思うから。」
「まさか、ずっと食べられていないの?」
「多少は食べていたわよ。でも、美味しくなくて、ね。」
「じゃあ、お昼は美味しい物を食べよう。二人きりで。」
「うん。あっ、でも、私、こんな格好だし、何も持ってきていない。凰士が人攫い同然に連れ去るから。」
「悪かったよ。でも、そうでもしないと、白雪は話を聞いてくれないだろう。」
「当たり前でしょう。」
二人の視線が絡み合い、笑った。
「その前に、食べたい物があるんだ。俺、ずっと飢えていて。」
「えっ、凰士も何も食べていないの?」
「お預けされていたからね。」
「お預け?」
首を捻ると同時に凰士の腕に包まれる。
「えっ?」
「白雪をお預けされていたんだよ。」
「バカ。」
くすぐったい声が零れ落ちる。そのまま、ずっと欲していたぬくもりを与えられ、私の悩み抜いた時間は終わりを告げた。