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校門に足を一歩踏み入れたところで水城は止めた。
校門をくぐってすぐ左を見れば、そこには立派な松の木が立っている。太く伸びた松はこの学校を見下ろしていて、来年度を楽しみに待っているようだ。
そんな木の下で、一人の女が佇んでいた。
日野だ。幼い子供のように口を半開きにさせている。水城は右手で頭を掻きながら日野の方へと近付く。
「口、空いてる。てか……何やってんだ、アンタ?」
首を傾げながら水城が訊くと、日野は急いで口を閉じて彼の方へと小走りで駆け寄った。
「井岡君、来てくれたんだ!」
「小柳が遅れるって伝えにきただけ。……じゃあ帰る」
メンバーから外れると言ったので日野とは目を合わせにくい。一度、頷いたことをやっぱり無理と言って首を横に振ったのだ。もっと分かりやすく言えば、水城は約束を破った。自らが定めるルールを反して。
自己ルールはとても厄介だ。それを破ると気持ち悪いものが胸を濁らせる。それがどういうものかを詳しくは説明できないが、その感情を水城なりに行動で示すと目が合わせられない。これが彼の表現。
水城はそれ以上を語らず、その場から逃げるように校門の外へと足を持って行く。だがそれを拒むように、日野が水城の腕へと自らの腕をからめた。
「何だよ?」
「やれるだけやりましょ、ね? 私も手伝うから」
火也と同じ台詞。水城は目だけで反応した後、家の方向へと歩き出した。
「ねえ、井岡君。昨日のこと、まだ怒ってる? 金澤君のこと」
今にも泣きだしそうな日野の声。水城はあまり聞かないようにと目をそらすが、目をそらしたところで声が聞こえなくなるはずがなく、諦めて日野の方を見た。
シンのことを問われ、一瞬眉間に皺を寄せそうになったが、腕にからみついてくる日野の姿が意外にも近くにあって、水城の顔は眉間に皺を作るより先に頬を染めた。
近すぎだ。ここまで密着していると恋人と勘違いされるのではないかと心配になる。日野が普通の女性なら問題はないが、彼女は教師という立場。それが生徒と腕を組んで歩いているように見えるのは問題があると水城は考える。まあ当の本人は危険という思考がないようだが。その証拠に日野は学校を出る前よりもしつこく腕に絡みついている。悪い気はしない、でも彼女のことを考えると心配にはなる。
らしくもなく心配してやっているあたり、自分の心情が意外にも落ち着いていることに水城は気付いた。昨日まではシンの名前を耳にするたび、苛立っていたというのに。どれだけ単純人間なんだと思わず笑いそうになる。女の心は猫の眼とは上手く言ったものだが、これは男にも当てはまる。男の心は猫の眼でもいいかもしれない。まさに水城がそうだ。
「ねえ、井岡君」
腕に絡みついている日野の上目遣い。
「やるだけやってみましょう? みんなのためにも」
いつもの抜けたような、ふわふわとした言葉遣い。でもとても真っ直ぐに水城を捉えていて離さない。その目が彼女からは逃げられないのだと伝える。昨日も一昨日も、嫌と言いながらも約束を結んでしまった。きっとゲームが完成するまで彼女は水城を追うのだろう。そして自身も何だかんだ言いつつ逃げないだろう。
水城の腕に絡んでいるせいで歩幅があっておらず、小走りしている日野を少しおかしく思いながら、水城は速度を落とした。
「……オレ、またやめるって言うかもしれねぇから」
「そしたら私が捕まえるわ。一昨日も昨日も、今日も! でしょ?」
「捕まえるって……。何か悪者みたいじゃねぇか」
日野は悪戯っぽく笑うと、水城の腕にからみついたまま彼を学校へと誘導した。
水城が教室へ入ってから三十分後。老人を病院に送り届けた火也が教室へ来た。そして日野が教卓の前に立ち、水城と火也はその前の席に並んで座り、ゲーム制作の打ち合わせは始まった。
「はーい、まず井岡君に報告があります!」
教卓の前に立った日野が元気よく手を挙げる。
「はい、では日野ちゃん。発表どうぞ」
火也が悪ノリするように指名すると日野もまた「はーい」と返事をする。その光景は校内でも何度か見かけたことのある簡易学校ごっこ――「質問です、先生」「はい、○○君。なんですか」という学生同士のふざけたかけ合いのようなもの――に似ていて、水城は思わず溜め息をついた。
教師というよりは女子高生に近い。教師がこれでいいのだろうか。まあでも、まだ実年齢二十四歳の彼女にとっては二年という教師歴よりも学生歴の方が長いので仕方のないことかもしれないが。いや、そうだとしても、ここまで酷い女子高校生教師はいないだろう。むしろ、いないでほしいと水城は願う。
未だ繰り広げられるレベルの低いかけ合いを止めようと水城は二人の間に割って入った。
「何だよ、報告って」
「実はゲーム制作のメンバーが井岡君と小柳君、そして私の三人だけになっちゃいました」
「ボクがシンちゃん責めたせいで、シンちゃんやめるって言って。海君もヒカルんもそのままやめちゃった。ごめんね」
暗い表情を浮かべる火也。その一方で水城は不謹慎にもほっとした。火也は悲しむかもしれないが、これで衝突する相手がいなくなった。そう考えると心が少し落ち着き、なおゲーム制作に対してやる気も上がった。
水城は不謹慎極まりないことを謝る代わりに「まあ、やれるだけは手伝う」と火也へ言葉を投げつけた。すると火也は嬉しそうな顔で「頑張ろ!」と笑った。そして日野は人差し指を立てたお決まりのポーズを取りながら水城を見た。
「すべては井岡君と金澤君が引き起こした喧嘩によって、こうなったのよ。だから、井岡君は悪に強ければ善にも強し。この言葉を忘れずに頑張ってもらいます!」
「意味分かって使ってんのか、おい」
悪に強ければ善にも強しとは、たいへんな悪人ほど一度改心すれば非常な善人になるということわざである。どこをどう考えてこの言葉が出てくるのか、不思議でならない。もし意味を知っているとすれば、水城が悪人だったことになってしまう。
でもこれだけ意見をあちらこちらと変えてメンバー内をかき乱した、その点では悪人だったかもしれない。
水城はほんの少し反省すると日野を眼中から外して、火也へと話しかける。
「それで、どうするんだ? ゲームは」
「制作メンバーがボクと水城君と日野ちゃんの三人だからね。期間も考えて、とりあえずプログラミングが不要のゲーム制作ソフトを使って、パソコンゲーム作ることにしようよ」
「……プログラミングって何だ?」
「コンピュータのプログラムを作ることだよ。実はコンピュータってプログラミング言語っていうものがあって、うーん……何っていうのかな。授業とかでサイト作りしなかった?」
そんな授業、受けたことがあっただろうか。水城が首を横に向けると、火也は少し困った顔で説明を続ける。
「サイトを作る時に、英語や数字、記号とかよく分からない文字使って作ったりするでしょ? ああいう感じだと思ってくれたらいいよ」
正直、よく意味は分からない。日野もさっぱりと言った顔をしている。だがこれ以上、この話に踏み入れてもただ混乱するだけのような気がして、水城は分かってないくせに分かったと適当な返事をした。
火也はそのことに気付いてか否かは不明だが、「そっか」と一言で答えると次の工程へと話を持っていく。
「まあそれよりも一番大事なのはシナリオっていうか、どういうジャンルのゲームを作るのかってことになるんだけど」
「ジャンル?」
「ほらアドベンチャー、サウンドノベル、ロールプレイングとか、ジャンルによって作り方も違ったりするから」
ゲームの種類は正直、あまり知らない。けれども物語ジャンルなら水城にも要望がある。
「……恋愛」
水城は風にかき消されそうなくらい小さな声で言った。別にやましい気持ちも何もないのだが、どこか気恥ずかしくてそうなってしまった。しかし火也と日野はそれに関して何か気にすることもない模様で、それがまた水城の恥ずかしさを煽った。
水城は自ら辱めた心を鎮めるように深呼吸をして火也を見た。今の意見は通るだろうか。そう思った時、火也が立ち上がる。
「良いと思うよ! ボクも恋愛曲って好きだから。昨日歌ってたのも恋愛曲なんだ」
昨日、彼が懸命に歌っていた曲を水城は必至で思い出そうとするが、上手かったという感想しか覚えておらず、水城はそれをさらっと流す。
「じゃあ物語ジャンルは決まりだな」
水城が決定の言葉を出すと火也も大きく頷いた。その様子に水城は胸を撫でおろした。というのも、実のところ水城は、恋愛物語以外を書く気はなかった。もっと言ってしまえば、恋愛ジャンル以外の小説は書けないのである。
今までファンタジー、バトル、友情などを書いてみようと思ったが、どの物語も途中で鉛筆が止まってしまい、完結させることなく投げ出していた。恋愛とは人が経験しやすいものだからこそ書きやすい。より深く心情や背景が書ける。それが水城の見解だ。
さて、どういう恋愛の話を書こうか。水城は鞄の中からノートと鉛筆を取り出し、ノートの最終ページを広げた。まずは舞台だ。学園、何かの企業、その他にもたくさんあるが、やはり仮入部で披露することを考えて、彼らが最も身近と感じられる学園を舞台にするのが無難だろう。では次に主人公は男にするか、それとも女にするか。それだけでまったく内容が変わる。
「主人公は男と女、どっちにすんだ?」
水城が火也に訊く。と、その時。日野が手をあげた。
「ね、ね。どうせなら女性向け恋愛アドベンチャーゲームにしましょうよ!」
「……は?」
止めることなく出てしまった不快詞。またこの女は何を言い出すのか。そう水城は不満をもらすも、ゲームには疎いので大人しく彼女の意見に耳を傾けることが最善だ。仮にその意見がダメなものだとすれば、火也が止めてくれるだろう。ジャンルやら制作ソフトやら言っていることから、彼がゲームに詳しいのは瞭然としている。
水城が早く意見を言えと目で訴え、それに答えるように日野が声を張る。
「女の子を主人公にして、主人公が男と恋に落ちるゲーム。その名も〝仮入部にきた女の子のハートをわしづかみ! 甘い言葉をそえて〟」
「何だよ、そのネーミング……」
「あれ? 井岡君にはこのセンスが伝わらないのね!」
「伝わらせたくねぇよ」
「ひどーい、井岡君……」
落ち込む日野を華麗に無視して、水城は火也を見た。今大事とすることは、くだらないレベルの日野の哀情よりも火也の決定だ。
火也が水城と視線を合わせる。
「ネーミングは確かに変だけど、案としては悪くないと思うよ。恋愛ジャンルだったらアドベンチャーが一番良いと思うから。まあ恋愛アドベンチャーにした時点で、女性か男性向けのどっちかになるし、ボクは日野ちゃんの案で異論ないよ」
「じゃあ決まりね!」
間髪入れずに、日野が言った。その目は喜びを映していて、さっきまでの落ち込みはどうしたと水城は言い返してやりたくなった。でもそんなことをすればまた話が脱線してしまう。水城は口を閉ざした。時間の無駄遣いは嫌だった。
それに反して、火也が口を開ける。
「あとは作業場だけど、どうする?」
今ここで作業している。つまり作業場所はここになるはず。それともここでは何か問題が生じるのだろうか。水城は首を傾げた。
「パソコンがある場所じゃないと作れないんだよ」
そういうことか。水城は深く追求することなく納得した。
「だったらオレの家を使え」
「え、いいの!」
火也が嬉しそうに声を張り上げて立ち上がる。
水城の両親は休日以外、いや、休日もいないことが多いので家はほぼ水城一人。活動場所として使うには最適だ。まあそれは建前として、本当の理由は他人の家に毎日訪ねるくらいなら、来てもらう方が楽だからだ。しかも自分の家なら変に気を遣う必要もない。
「よし! 決まりだね。じゃあこれから水城君家に行ってもいい?」
「勝手にしろよ」
水城は愛想なく言って立ち上がると鞄の中にノートと鉛筆をしまった。
「水城君?」
「……行くぞ」
水城が小さく合図を取ってやると火也と日野が顔を見合わせて笑っていた。それが何だかこそばゆく感じられて、水城は振り返らずに歩き出した。