2
目が覚めると朝だった。
昨日は苛立ちのままに帰宅し、その後、小説を書こうと思っていたがあまりにも腹が立ちすぎて、鉛筆すら持てなかった。だからベッドでゴロゴロして、夕食を取り、風呂に入って、またゴロゴロ。そんなことをしていたら眠っていたらしい。
ベッドの上で寝返りを打つと水城は枕へと顔をうめた。
「今日は行かねぇ……」
日野の誘導により昨日は打ち合わせへ出向いた。でも今日は行かない。昨日も日野から連絡は来なかった。きっとシンが水城は外そうなどと言ったのかもしれない。まあそうだとしたらありがたい。
元より乗り気ではなかった。日野が言うからやっていただけ。強い思いもなければ、絶対に成し遂げたいという気持ちもない。そもそも、シンと一緒に制作するのは耐えられない。そう考えると、昨日シンとしたやり取りが鮮明に水城の頭へとよみがえった。
今、思い出してもシンは怒りの対象でしかない。そんな彼を愛称で呼んでいる海斗と火也は何者なのだろうと水城は感じてしまう。海斗は明らかなる変人だが、火也はどちらかというと常識があるような人間。シンとは真逆のような気もする。
「小柳か……」
彼は懸命に物事を進めてくれようとしていた。もし火也と二人で作れと言われたら、できたかもしれない。現に、火也が制作の話をしてくれた時、水城は少し楽しいと思えたのだから。でもシンとのやり取りに、水城は辞退した。
「まあ、どうでもいい」
水城はベッドから身体を起こすと、衣装棚から服を取り出した。
今は春休み。この休暇を有意義に過ごさなければならない。まあ過ごし方は言わずとも決まっていて、小説を書く、ただそれのみだ。
水城は窓の外へと目をやった。今日は天気が良く、風も穏やかで気持ちが良さそうだ。どうせなら書くなら今日は外で書きたい。自然は良い。五感すべてを刺激して、心の奥深くまで潤す。そっと手で触れて、目で見て、耳で聞いて。それだけで良いフレーズが浮かびそうな気がする。
確か、今の時間なら裏通りが静かだ。たまに子供が出てくるかもしれないが、大抵の子供はこの近くの公園へと足を運ぶ。よってほぼ一人の空間に浸ることができる。
こういうところは田舎の良いところだ。水城はそう自身に納得させると、就寝時に着ていた服をベッドへと投げつけた。そして昨日から中身を取り出すことなく放置していた鞄を手に取って階段を下りて居間へ向かう。
「誰もいねぇか。じゃあ鍵閉めて出ねぇと」
居間は誰の姿もない。当然だ。今日は平日。水城が春休みで休日を得ているが、春休みでもなんでもない共働きの両親は仕事。まれに母が仮病で休んでいることもあるが。
水城は居間を確認した後、洗面所へ行き、急いで身支度をする。
昨日、書けなかったぶんも今日は文章を書きたい。そうすれば昨日までの怒りも、シンのことも忘れ、すべてがクリアとなる。
水城は身支度を終えると、玄関へと足を運んだ。
「今日こそはアイツのツンデレ章を脱しねぇとな」
小説が書ける。そう思うだけで自然と胸は落ち着く。ゲーム制作に関するストレスも忘れそうだ。そう、水城にとって小説とは精神安定剤のようなものである。
「……いってきます」
誰もいない家へ出発の挨拶をして、水城はドアを開けた。そして誰も侵入できないようにと家の鍵を閉める。その瞬間、水城はふと隣に誰かの気配を感じた。
「すごいね。誰もいないのに〝いってきます〟って」
火也だった。
「何してんだ、オマエ」
そう水城が訊くと、火也はしゃがんでいた腰をゆっくりと上げた。
「迎えに来た」
にっこりと笑う火也とは裏腹に水城はむっとした表情になる。
「……オレはやらない」
「え! そう言わずにさ、仲良く一緒にやろうよ」
「昨日、メンバーから外れるって言っただろ。しつけぇよ」
水城はさらっと述べると家の敷地内から一歩外へと踏み出た。すると火也もその後についてくる。
「てか、何でオレの家、知ってんだ?」
「実は昨日、日野ちゃんとここまで来たんだ。でも水城君、留守だったから今日再トライ、みたいな?」
昨日は帰った後、念のため鍵をかけて寝た。午後八時くらいだっただろうか。その頃に母から電話がかかってきて、水城はそこでやっと起きた。なので、もしそれまでに彼らが訪れたとすれば知らないのも納得だ。
水城は興味なさそうに「へー」と軽く流すと、裏通りに続く道へと足を向けた。
「あのさ、やるだけやろうよ」
「何を?」
「ゲーム制作。……ボクとじゃ最後までできるかは分からないけど」
「オレはやらないって言ってんだろ」
「だけどさ、ボク。水城君のシナリオ読んでみたいから、一緒にやりたい。日野ちゃんが言ってたよ、水城君の書く小説は魅せられるって。だからボクも見てみたい、キミの書く世界を。それで友達になってほしいんだ」
爽やかで愚直な言葉。ドラマのような台詞だが、普段から小説を書いている水城にとっては何の違和感もなかった。なぜなら、彼もまた作詞という方法で文に触れ合う者なのだから。
それよりも、日野がそんなことを火也に言っていたことの方が水城は驚いた。
顧問だったので何度か見せたことはあった。でもそれは本当に数えるほどで、しかも完結してない小説ばかり。だから感想もなくて当然。そもそも、感想を欲したことがないので、そんなこと気にもならないが。それでも日野がそれなりの感想を思ってくれていたことは素直に嬉しい。
そう思った時、水城はふと足を止めた。もちろん、火也も。そして彼らの視線の先には一人の老人。しかも倒れている。
「え、ばあさん……?」
どこの誰かも分からない老人が横たわっていて水城は目を丸くするが、火也は何を驚くこともなく老人の側へと駆け寄った。
「おばあさん、大丈夫? もしかして気分が悪いの?」
火也が心配そうに老人へ言うと、老人は病院に行く途中で疲れたのだとシワシワの顔で理由を口にした。
疲れたからと言って、道端に倒れ込むか普通? 思わず水城はツッコミを入れるが、火也は何か不思議に思う様子もなく、老人の前に背を向けてしゃがみ込んだ。
「ほら乗って。病院まで送るよ」
「……いいのかい?」
「うん。ボク、華奢っぽく見えるけど、たぶん体力すごいから。大丈夫だよ、絶対落とさないから! 一緒に病院行こう、おばあさん」
火也が不安感を与えない笑顔で言葉をかけると、老人はゆっくりと火也の背中に乗った。すると火也は慣れた手つきで老人を背負い、来た道を引き返そうと動く。
「ごめん、水城君。おばあさん、送ってくるから、日野ちゃんに遅れるって伝えて!」
「オレは行かねぇって」
「しっかりつかまってね、おばあさん。じゃあ行くよ。レッツ、ホスピタル!」
水城は急いで言葉を返すが、すでに火也の耳には聞こえていないらしく、老人を乗せたまま走り出した。そして引き止めようとするより早く、火也は道の角を曲がり、老人と共に姿を消した。
「何なんだ……、おい」
彼が言っていた遅刻理由が事実なのは分かった。
「てか、三日連続で老人を病院に連れて行くって……」
水城は呆然と立ったまま火也の去っていった曲がり角を見つめて、走り去る前に彼が頼んできた言伝をどうしようかと悩む。行く気はなかったが、これでは行かざるを得ない。いや、行くか行かないかは水城の自由だ。しかし困った老人を素通りすることなく、自ら声をかけて病院へ連れて行くほど善良な火也の頼みを断るのは何だか極悪非道な気がしてならない。
「めんどくせぇ」
ポツリと言葉を放ち、水城は学校に続く道へとつま先を向けた。