2
「誰も来ねぇ……」
午前十一時を過ぎた時計を睨みつけながら水城は舌打ちした。
昨日の別れ際に〝明日の十時集合〟と言ったが、水城と日野以外誰もいない現状。しかも来る気配がまったくと言っていいほどない。
張りつめた空気が教室を少しずつ冷たさと怒りで包み込んでいく。それはすべて、水城の心中だ。それを日野も感じ取っているのか、水城を見ながらも時折、視線を別の方向へと持っていく。その明らかに気がはやっていると告げる態度がさらに水城の怒りを煽る。
「み、みんな来ないわね」
動揺もまた腹立つ。
「言われなくても、そんなこと見りゃ分かるだろ」
窓から吹き込んでくる風さえ静まりそうな声で水城は言い捨てた。
「おかしいわね。みんな、ちゃんと来るって昨日は言ってたのに」
めげずに言い返してくる日野の言葉がほんの少しだけ胸の苛立ちを抑えようとしてくるが、それでは足りない。怒りはあふれるだけ。
「オレ、帰るわ。時間ムダにしたくねぇし」
水城は鞄を手に取った。すると日野が水城の前に指を突き立てて、その行動を止める。
「こういうのは確か、腸がひっくり返る! て、言うのよね?」
「……ひっくり返らねぇよ」
「え! また違った?」
場の空気を和ませようとした計算のボケなのか、それとも本当に知らないのか。水城には理解できない。でも明確なことが一つ。
今、この女に関わるとムカつく。
「あのさ。そういうの、マジうぜぇから」
自分でも驚くほど低い声が出た。でも謝りはしない。うるさいと思ったのは事実だ。水城はだるそうに鞄を持ち上げて、教室の外へと足を運ぶ。
「うぜぇって、先生に向かって……!」
水城が教室を出る一歩手前で、日野が彼の腕を掴んで止めようとする。だが、水城はそれをいとも簡単に避けて、そのまま教室を出て行った。
水城が帰って三十分後。
日野が携帯電話を片手に教室の中を一人でうろうろしていると、一人の男子生徒が顔を見せた。リスみたいなくりくりとした目と男子高校生にしては少し低めの身長が彼の愛らしい容姿を引き立てている。
日野は首を傾げながらも、その男子生徒へ近寄った。
「もしかして小柳君?」
廃部を避けるための計画を練る時、軽音部の部長だけが捕まらず、結局、シンと海斗に言付けを頼んだ。だから名前だけは知っている。本来ならきちんと生徒の顔と名前を覚えるべきであろうが、受け持っていたクラスだけで手一杯だった日野には難しい話だった。
「うん! ボクが小柳火也。軽音部部長の一年生。よろしくね、日野ちゃん」
「もー、先生に〝ちゃん〟はつけません!」
「でも先生よりも日野ちゃんって呼ぶ方が可愛いよ、ね?」
天使のような笑顔を火也は浮かべた。
「それより、ごめんね。道端で倒れてたおばあさんを病院に連れて行ってたら遅くなっちゃって。あ、そうそう。海君は急用で休み。シンちゃんはちょっと遅れるって。確か、メンバーは日野ちゃんを含めて六人だったから……。そうだ、あと二人は?」
今度は火也が首を傾げる。
「黒木君は来てないわ」
「あー、ヒカルんは体内時計で動くって言ってたし、時間指定はちょっと難しいかもね。それでもう一人の人は?」
「えっと井岡君ね、井岡水城君」
「水城君って言うんだね。それで? その水城君は?」
「そのー、井岡君は……帰っちゃった」
日野の言葉にピタリと火也の表情が固まる。そして一呼吸置いて、火也は驚愕の声をあげた。
「会ったことないから、友達になりたいなって楽しみにしてたのに! 残念……」
「みんなが遅いから、怒って帰っちゃって……」
日野が語尾にごめんねと付け加えると、火也はくりっとした目を細くして首の後ろで両手を組む。
「日野ちゃんが謝ることないよ。遅れたボクらが悪いんだし」
そう言ってくれるものの、火也の表情が何となく怒っているように見えて、日野は手にしていた携帯電話へと視線を落とした。
一応、部活関係の連絡ができるようにということで水城の連絡先は訊いている。とりあえずは一人来たと報告すべきだろうか。でも報告したところで彼が再び来てくれるだろうか。いや、来ない確率の方が高い。彼は妙に頑固なところがある。
「もしかして、日野ちゃん。水城君に連絡するの?」
何か見透かされている気がすると思いつつも日野は小さく頷いた。すると火也は組んでいた手をほどき、日野へと手を伸ばす。
「ケータイ、貸して。ボクが連絡するよ。電話番号、どれ?」
日野が了承する前に火也は日野の携帯電話を奪い、プライベート情報が……という日野の心情など露知れず、電話帳をあさり見る。〝井岡〟の名前はあ行の最初――電話帳の一番上――にあった。
火也はその名前を見つけるとすぐに発信ボタンを押した。ワンコール、ツーコール……、発信を知らせる音が鳴る。そして五回目のコールで電話が繋がった。すると「何だよ?」とだるそうな水城の声が火也よりも早く会話を紡ぎだす。
「もしもし。ボク、小柳火也。一年生だけど軽音部の部長してます。えっと、遅れちゃって、ごめんね。それで今日のことなんだけど……」
その瞬間、電話は不機嫌そうな音を立てて切れた。火也はツーツーと鳴る携帯電話を耳から離して見つめた後、日野へと目を移した。
「切られちゃった」
「井岡君はいつもそんな感じだから」
日野がフォローすると、火也は驚きにもそれをすんなりと受け入れて、携帯電話を日野へ返した。
「とりあえず、シンちゃんとヒカルんが来るのを待ってよっか」
火也は日野に微笑みかけた。
「行かねぇって言ってんだろ」
風呂上りでまだ水滴の伝っている髪をタオルで覆いながら水城は答える。
電話の相手は日野だ。最初は出てやるものかと思っていたが、数分置きにかけてくる電話攻撃に耐え切れず出ることにした。さすがに五十件近くの不在着信を無視できるほど、水城の精神は頑丈にできていない。
「午後一時集合? だからオレは参加しねぇ。参加するくらいなら廃部になっていい」
ベッドに腰を下ろして水城が言うと、受話器の向こう側で日野が「そんなこと言わないで、明日はみんな来るから」と今にも泣きだしそうな声で、廃部は嫌だよねと問いかけてくる。それに対して水城もまた受け答える。
「はあ? 廃部が嫌? それならアンタが参加すりゃいいだろ。オレは別に廃部になっても構わねぇし……」
どうでもいいと言おうとした時、ふいにすすり泣くような声を日野が出す。
「あ、おい。泣くんじゃねぇよ」
女の泣くという行為は半ば脅しに近い。特に水城はそれが苦手だ。どうすればいいのか分からなくなる。
「あー、もう! 行けばいいんだろ、行けば。だから泣くな、めんどくせぇ」
水城が焦り口走った。その刹那、泣きそうだった日野の声が明るくなる。
詐欺だ。しかもテクニックは高度。水城はやや感服しつつも、大きく息をはいて立腹を表す。だが日野はそれに気付いてない様子で「明日待ってる」と元気な声を水城へかけた。
「……分かった」
倦怠感のある声質で水城が返すと、日野は「絶対来てね、待ってるわよ」とさらに念を押す。
「うるせぇ、二度言わなくても聞こえてる。……それじゃあ、切るからな」
水城が言うと日野は「また明日ね、おやすみ」と電話終了を受け入れた。それに対して水城もまた「おやすみ」と挨拶を交わして電話を切った。同時に水城は携帯電話と共にベッドへどっと倒れこむ。
「めんどくせぇ……」
こぼれたのはたった一言。それ以上の言葉は浮かばない。
日野は〝明日はみんな来る〟と豪語したが、はたしてそれは現実として成り立つだろうか。どうせ来たとしても時間通りに来る者はまずいないだろう。何事も最初が肝心という。しかし今日、自分以外の者は誰一人として時間を守れなかった。まあその前日、勝手に帰った水城自身も問題はある。でも結局のところ、時間を守れない、打ち合わせ中にまったく関係ない方向へ話が脱線する、それは誰も真面目にやる気がない証拠だ。今日の出来事で、昨日までは推測でしかなかった、このメンバーではやっていけないという思いが水城の中で断定へと変わる。
面倒臭い、鬱陶しい。明日が来なければいい。これが仮病を使って学校を欠席する人の感覚だろうか。水城は様々な思いを頭の中で巡らせると、静かに寝返りを打った。そして部屋の電気が点いていることも忘れて眠った。