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今日でついに春休みが始まって一週間となる。このゲーム制作を始めてからの日数をいうなら一週間と一日――八日目――だ。
予定ならもうシナリオの五分の四は完成しているはずだった。でも現実はそう甘くない。水城のシナリオは未だ二ページで止まっている。
ここまで進まないとは予想外だった。進まないにしても、もう少しくらいは……そう思わずにはいられない。水城は机の上に顔を伏せた。
「水城君、大丈夫?」
目前でキャラクターデザインを懸命に描いている火也が心配そうに水城へ訊いた。彼も昨日からパソコン作業ではなくキャラクターデザインへと作業を移したので、作業机は水城と同じだ。
目に優しい薄緑色の服を身にまとった火也を水城は視界に入れた。
緑には心身の疲れを癒すなどのリラックス作用があるらしいが、今の水城にはまったく効果がない。
水城は鉛筆を机上に置いて、休憩と言わんばかりに火也へと答える。
「オマエはキャラクター描けたか?」
「それがさー、全然。シンちゃんならサクサクって描いちゃうんだろうなあ」
火也はぼそっと言った。その声は小さくて、自分が苦手意識を口に出したから遠慮しているのだろうかと水城が思ってしまうほど。何だか悪い気がしてしまう。
「まあ、弱音なんてはいてられないよね。よし、頑張ろう」
机の上に広げた紙へ鉛筆を走らせようと火也は気合いを入れ直すが、鉛筆は宙を描くばかりで進まない。互いに作業は止まりかけている。でも描かないわけにはいかないのか、くるくると落書きをして、火也はその想像力を必死に繋げようとしている。
その光景を水城がじっと見つめていると、ふいに火也の焦点が水城の広げているノートへと向かう。
「やっぱり難しい?」
火也の質問。でもそれは何だか、オマエにはやっぱり書けないのではと問われているような気がして、水城は少し眉間に皺を寄せた。もちろん、火也が嫌味で言っているわけでもなければ、悪気の帯びた表情もない。ただの疑問。分かっているはずなのに、妙に彼の言葉が胸に刺さった。
水城は心を落ち着かせるように軽く深呼吸する。
「……別に」
「小説とシナリオって、やっぱり違うの?」
質問が切り替わる。
水城は頷いた。
「小説とシナリオは全然違うだろ。物語ってところは同じだけど、書き方とか重要点とか全然違う」
「例えば?」
「例え? あー、そうだな……」
説明するのは面倒臭い。水城は一瞬、そう思ったが話をしたことで、何か良い案が浮かぶ可能性もある。水城は静かに口を開く。
「シナリオは映像で表現できること以外は書かない。それと違って小説は映像では表せない比喩とか感情とか表せる。たまにすげぇ長い比喩表現書いてる小説とかあるだろ。でもあれってシナリオでは書けねぇんだよ。シナリオに三、四行以上の比喩表現が書いてあったら見づれぇし」
「そうなんだ」
すげない火也の返事。まあ普段、物語を書くことに興味がない人から見れば、そんな理屈めくことはどうでもいいのだろう。水城もどうでもいいことに興味はないし、説明されても火也と同じように素っ気ない返事しかできない。だから火也の発言に不満を抱きはするも同感できる。
これ以上の深い説明をやめようと水城は火也から目をそむけた。
良い案は浮かばなかった。むしろ、やや不愉快になった気もする。まあそれはもういい、忘れてしまおう。今は物語を作ることに精を尽くさなければならない。必要ない思いは制作の邪魔になる。水城の場合、特に苛立ちや不愉快さは物語制作を大きく突き放す原因となる。
製作期間の日数も残すところ一週間ほど。今日だって、あと十時間もすれば終わってしまう。これ以上、余計なことに気を取られたくはない。そうでなければ懸命に頑張ってくれている火也へ迷惑がかかる。
それ以上に、水城のプライドが許さない。昨日貫いた意地のためにも絶対に書ききらなければならないのだ。実は昨日、火也が一緒に物語を考えようかと提案をしてくれたのだが、水城はそれをものの一秒で断った。理由なんて一つしかない。
――オレの物語に口を出されたくない。
物語に対しての執着心ゆえの言葉か、それともただの意地っ張りなのか。それは自分でも分からないが、それだけは強い思いとしてあった。
気に食わないのだ。誰かが物語に口をはさむということは自分の物語が劣っていると言われているような気がして。
水城は鉛筆を手にすると、また数分前と同じようにノートと睨み合った。それを見て火也もまた作業へと戻る。そして静かな空間がまた水城たちを包む。
その時、部屋の窓から外を凝視していた日野が大声を上げた。
うるさい。溜めようとした集中力が彼女の声によって空気中へと逃げ出す。水城は慌てて集めようと急ぐが、一度散ってしまったものを取り戻すには時間がかかる。多少冷たいと言われても彼女は外へと投げ捨てておくべきだった。
騒ぎ立てる日野が腕を掴んでこようとする前に水城は目を伏せた。すると日野は水城の腕ではなく火也の手を掴んで窓辺へと連れて行く。火也には悪いが助かった。水城はもう一度物語の中へと入りこもうと試す。
「本当だ!」
今度は火也が大きな声を出した。だんだん、薄れていく集中。水城は咳払いをして彼らに鬱陶しいと投げかけるが、火也は気遣う様子もなく水城の腕を掴んで窓辺まで強制的に歩かせる。
「見て、水城君。あそこ!」
鈍いのだろうか。水城はそう思いつつも火也が指し示す方向を見た。不快を隠しきれていない目が映したのは水城の家の正面に建っている家。どういう人が住んでいるかは知らないが、別に珍しいものでもない。互いに正面を向けて建っている家なんて至る所にある。
「別に珍しくも何もねぇだろ」
「違うよ、あそこ見てよ!」
火也が強く引っ張って腕が痛い。水城はさっさとこの状態から逃れようと、嫌々ながらも火也が言う方向を注意深く見る。
「……人?」
駐車場の辺りで何かをしている人物を水城の視界が捉える。その人物は黒いレインコートのようなものを纏っており、記憶の中にある一つの人影と重なった。
「黒木?」
水城は火也へ訊く。
「水城君、何で教えてくれなかったの? 水城君家の前の家がヒカルん家だって」
そう言われても困る。近所に誰が住んでいようが水城にはどうでもいいこと。近所付き合いは大事と言う人もいるが、それは親の役割だと思うし、高校生の自分が先頭に立ってやることではないと水城は思っている。
「ヒカルんも呼んでこようよ、水城君」
「一人で行けばいいだろ。オレは行かねぇ」
水城が断りを入れるとその間に日野が顔を出した。
「小柳君、私が行くわ」
「うん! じゃあ日野ちゃん、行こう」
二人でアイコンタクトを取るとバタバタと荒立たしげに足音を立てて、部屋を出て行った。しばらくすると窓からはっきりと見える位置に火也と日野の姿があり、その二人の間にはヒカルが立たされていた。
一緒に作業をするように呼びかけるのだろうか。したくないと言った人間に強いるのは迷惑な話だ。水城は物語を書くのが好きだし、日野には逆らえない部分もあって参加したが、それがない他者には休日を邪魔するものでしかない。
「面倒くせぇ……」
水城は冷たく言い捨てて机の前へと腰を下ろした。
再び物語の世界へと戻る。
集中するのだ。見えないはずの景色を目の前に浮かべ、その中でそっと登場人物を遊ばせる。次に何をするか、何を言うか。一つずつ確認するように、登場人物と触れ合う。すべての言動を拒否せずにありったけの包容力で、登場人物を許してやる。命令通りに動かそうとしなくていい。
きっと簡単なことだ、登場人物と心を通わせるのは。ただ作者がそれを拒むように、複雑に考えるのが悪い。
すべてをより自然に――。水城は精神をノートの中へと忍ばせた。今度こそ、この書けないという苛立ちから抜け出すために。




