君子危うきに近寄らず
――物語は神妙なものである――
小説は不思議だ。
そっと頭の中で物語の状況を想像して、それを文章という形で表現する。その時、作者はこの世のどこよりも神秘的な空間へ入り込み、登場人物と触れ合う。彼らがいきたいところへ手を引かれながらも誘導していく。それはとても居心地が良くて、日々の苦しみや悲しみ、怒り、すべてを昇華へと導く。そして一つの物語が完成する。その刹那、達成感と少しの切なさが胸を静かに温める。
その感覚が水城は何よりも好きだ。
誰もいない放課後の教室、井岡水城は一冊のノートを広げた。
切れ長の目がとても印象的だが、そのせいで端正な顔が少し不機嫌に見えることが多く、誤解されやすい。その上、うなじが隠れるほど伸びている髪が不良っぽさを演出しているらしく、人をあまり寄り付かせない。それが水城の特徴である。
「あっ? 何でオマエ、そんなにつんけんしてんだよ。可愛くねぇな」
ノートに鉛筆を走らながら水城は呟いた。
今、書いている小説は春の季節に合わせ、卒業式を題材としている。水城自身もありきたりな題材だとは思っているものの、この時期が来ると書きたくなってしまい、ここ数年間の恒例の儀となっている。
小説――物語――というのは同じ題材でも変化する。その時に感じていたもの、趣味、好きなフレーズ、過ごし方、好きな音楽、取り巻く環境……、その他にもたくさんのことが関わり、そして違うものが生まれる。
この卒業式ネタを毎年書き始めてから、水城はそれをさらに強く思うようになった。現に、ここ数年間の卒業式を題材とした小説はジャンルがすべて同じであっても内容がまったく違う。
ちなみに今書いている小説は、片思い中の主人公が好きな女子へ告白し、そこから始まる遠距離恋愛。会いたい気持ちがあっても会えず、二人はすれ違っていく。嫌いではない、むしろ互いに愛であふれているはずなのに上手く伝わらない。恋愛特有の感情。それは周囲を巻き込んで大きな事件となるが、愛し合う二人は苦悩しつつも乗り越えていく。その結果、二人は今まで以上の絆で結ばれるという恋愛物語である。
春の風が教室を駆け回る中、水城が止まることなく手を動かしていると、ふとその肩を誰かが叩いた。その瞬間、たるみなく張っていた糸が音を立てて切れ、研ぎ澄まされていた感覚が解ける。
水城は神秘的な空間から無理やり引き戻されてしまった。
「井岡君、今日も頑張ってるのね」
邪魔されたという感情を顔面いっぱいに表しながら水城が振り返ると、そこには顧問の日野薫がいつも通りの笑顔で立っていた。その笑顔に悪気はなく、水城の気持ちなど察している様子もない。
「……別に頑張ってるつもりねぇよ」
水城がぶっきら棒に答えると、日野はむっとした表情を浮かべる。
「井岡君、いつも言ってるでしょ? 先生には敬語が基本よ!」
「アンタ、先生らしくねぇし。てか、気にもしてないだろ、童顔だし」
クールに言い放つと、日野は「童顔は関係ないでしょ」と焦りながら口にした。その仕草がまた子供っぽくて、水城は思わず溜め息をつく。するとそれが気に食わなかったのか、日野はクラスの女子と変わらないような不満を並べ出す。
教師のくせに思考レベルが女子高校生とは些か問題あるのではないかと水城は思うも、これ以上言えばさらに口論になり、今よりも面倒なことになる。何より小説を書く時間が減る。よってここは自らが折れて、彼女の意見を尊重し、敬語で対応することが最良だ。
「分かりました。それで何の用っスか、先生」
気だるげに、でもそれなりに適当な敬語で水城が問いかけると、日野もよろしいと言わんばかりの顔つきで頷いた。
「そうよ、井岡君。大変なことになったの!」
「……大変なこと?」
水城が繰り返すように疑問口調をぶつけると、日野もまた真剣な顔で頷く。
「あのね、文芸部が廃部になるかもしれないのよ」
怒り顔から深刻に変わる日野の百面相を見つめて、水城は大きく息を吐き出した。
部活動は学校生活をより豊かにするための一つの選択肢。しかしながら学校の予算という都合により、あまり活発的でない部活は廃部という形に追い込まれていく。ただ純粋に、それを求めて入った部活。でも全ては〝予算〟の一言でなくなったりする。それがまた生徒数の少ない田舎なら珍しくもないこと。
ちょうど一年前のこの時期だ。部員数一人、何の功績もない、活動場所もないということで、新聞部と囲碁部の廃部が決定した。
そして水城が所属している文芸部もまた、彼以外の部員がいない。水城が入った当時はそれなりに人数もいたが、一人、二人……と辞めていき、気付けば水城一人となっていた。その上、最近は部員数が少ないという理由で活動場所をなくされてしまい、仕方なくクラス全員が帰宅した後の教室で部活動を行なっている。
まあ紙とペンがあれば小説は書ける。だから活動場所はどこでもいいし、部員がたった一人というのも気にもならない。元より群れとなって動く性分でない水城にとっては一人だろうが、何人だろうが関係ない。
確か、部長会の時に新聞部の部長もそんなことを言っていた。その結果、廃部となった。つまり今の文芸部は廃部してしまった部に、瓜二つといっても過言ではない状況。それ故、現にそれを宣告されてもおかしくない。何となく水城も廃部になるのだろうとは思っていた。だから驚きもない。
そもそも、水城は物語を書くことが好きで文芸部へ入っただけ。同士を探すためなどといった理由はない。どちらかと言えば、一人で書いている方が物語は進む。だから廃部になっても困りはしない。まあ〝淋しいよね?〟と問われれば、雀の涙ほどの同意はするかもしれないが。いや、しないか。
水城は手にしている鉛筆を指先で器用に回した。
何かを考えている時、水城は指先で鉛筆を回す癖がある。何度も直そうと思っているものの、そう簡単にはいかず、ついついやってしまう。
指先で鉛筆を何度か回すと、ふと日野が目で追っていることに水城は気付いた。まるで猫が猫じゃらしを追うような視線だ。それが何故か気恥ずかしくて、水城はさっと机上に鉛筆を置いた。だがその後も彼女の視線は鉛筆にあって、水城は仕方なく口を開ける。
「じゃあ今月には廃部になるのか?」
水城が問いかけると、やっと日野の目が鉛筆から外れて、その瞳に水城が映った。
「実は文芸部の他にも、放送部、美術部、漫画研究部、軽音部。この四つの部も文芸部と同じく廃部危機なのよ」
「……おい、そのうち文化部なくなるぞ」
とは言っても、この学校は運動部が好成績を上げていて、どちらかと言えば文化部より運動部の方が人気だ。部活目的で入る生徒の大半は運動部を希望するだろう。それをふまえて、文化部に属する部は廃部となっても何の不思議もない。もし廃部にならない文化部があるとすれば、文化部で一番の人気を誇る吹奏楽部だけだろう。
今日何度目になるか、水城が溜め息をつこうとした時、それを遮るように日野が明るい声で「でも!」と言葉を切り出す。
「すぐに廃部とはならないのよ。来年度の春、新入部員が入った部は廃部免除! だからアピールして新入部員を入れればいいのよ!」
「アピールって……」
アピールするということは誰かに入部してほしいと声をかけるということ。それは水城が最も苦手とする類のもの。容姿によってうるさく騒ぐ女子は自分目当てで何人か入ってきたことがあったが、結局は続かない。そしてそれ以外の者はあまり寄り付かない。
どちらにせよ、やはり水城には無理な仕事だ。それなら廃部になってくれた方がありがたい。
水城があからさまに嫌そうな顔をするが、日野はそれを気にする様子もなく話を続ける。
「実はアピールが苦手な井岡君のために、先生が事前に策を考えてきたのよ!」
「嫌な予感しかしねぇよ」
「もう、そんなこと言わずに聞きなさい」
びしっと人差し指を立てる日野。こういう時の彼女は突拍子もないことばかりを言う。彼女の性格を考えれば、それは目に見えて分かっていること。だが聞かなければ、またうるさく言うので、やる気がなくても聞いてやるのが一番である。
水城は頬杖をついて、日野の言葉へと耳を傾けた。
「……はいはい。で、何だよ。その策っていうのは」
「廃部寸前の他の部と合同で、最高のゲームを制作します、そしてそれを仮入部でプレイさせます、するとゲーム好きな子が入部するかもしれません!」
「入らねぇよ!」
「私なら入るわよ」
「それはアンタがゲーム好きだからだろ!」
何なのだ、この教師は。水城はそう言いたくなる口を言葉がもれる寸前で止めて、こちらを見下ろしている日野を睨みつけた。
ゲームは楽しいかもしれない。彼女のようなゲームオタクは釣られて入ってくることもあるかもしれない。しかし現在の季節は明日で終業式を迎える三月。これからゲームを作るとして、制作期間は二週間ほど。そんな簡単に作品ができるはずない。そう水城は考える。しかも素人が短期間で、入部を促すゲームをいとも簡単に作ってしまってはプロが黙ってないだろう。
「無理に決まってんだろ」
呆れ顔で水城が返すと、日野は首を傾げた。
「え? 五人いれば何とかなるわよ。それに他の部の部長さんたちはかなりノリ気よ?」
「あのな。素人がそんな簡単にゲーム作れるわけねぇだろ、しかもこんな短期間で!」
「でも楽しそうでしょ?」
そういう意味ではない。水城は叱咤してやろうと思ったが、それを止めるように日野が水城の額に指を立てた。
「とにかく! できることはやる。難しくても、それに飛び込んでいく! 虎穴に入らずんば誤字を得ずっていうでしょ」
「アンタが誤字を得て、どうすんだよ。それを言うなら〝虎穴に入らずんば虎子を得ず〟だろ」
水城が訂正すると日野はやや頬を染める。
「仕方ないでしょ! 英語教師なんだから、国語は苦手なのよ!」
「教師ならそこは頑張ってどうにかしろよ」
「もう! 先生をバカにしないの」
二十歳すぎれば大人になると世間では決まっているが、彼女のような人物を見ると、大人になりきれていない大人がたくさんいることを嫌でも悟ってしまう。
これ以上、付き合っていられない。こんな面倒なやり取りをするくらいなら、一刻も早く帰宅して、小説を書く方が良い。
水城は日野に聞こえるように大きな溜め息を吐き捨てると、机に広げていたノートを閉じ、丁寧に鞄の中へとしまった。
「ちょっと! 話の途中で帰り支度とは何事ですか」
「君子危うきに近寄らず。オレはもう帰る」
水城は立ち上がって、教室を出て行こうと動くが、日野に腕をがっちりと掴まれ、足を前に進めることが困難となる。どうしようかと考えた答えの先に、このまま振り払って帰るという選択肢が浮かぶが、彼女は一応、女。あまり乱暴なことはできない。
先程とは逆に、今度は水城が日野を見下ろすと、真剣な上目遣いが彼をとらえた。
「井岡君。了解するまで絶対に離さないからね!」
すかさず水城が日野を睨みつけるが、今年度で二年の付き合いとなる彼女はそんなことで恐れることもなく、腕を掴んでいる。すでに彼が女性に乱暴を働くことはないというのは見抜かれているらしい。
「オレはやらねぇ。てか、廃部になってもいいし」
素性の知れない部長たちとゲーム制作というわけの分からないことをする気はない。
「良くないわよ。淋しくないの? 井岡君の大好きな部活がなくなっちゃうのよ」
「オレ、小説を書くのが好きなだけだから。正直、文芸部とか……」
「イヤよ! そんなこと言っちゃイヤぁ!」
芝居かかった口調で言う日野。真面目なのか、それともふざけているのか、いまいち分からない。
「……離せよ」
「絶対に離さない! するって言うまで離さないからね」
面倒ではある。しかし頑固な性格である日野は了承するまで離さないのは水城もよく知っている。以前も「離さない」と言われ、家までくっついてきたことがあった。離さないとは少し違うが、その他にもいろいろあって、玄関先で大泣きされて困ったことはまだ記憶に新しい。
水城は髪を掻き上げながら、優しく日野の手を引き離そうとする。
「ああ、もう! 分かった。やればいいんだろ、やれば! だから離せよ」
「うん! じゃあ明日の放課後、ここで打ち合わせ。約束よ?」
子供みたいな笑顔で言う日野へ、水城がそっぽを向いて了解を返すと、やっと腕が解放されて自由となった。でも面倒くさいという言葉が今度は肩に乗りかかり、今日一番の溜め息を水城に与えたのだった。