一話
「んー?」
風が吹き抜ける草原で、首を傾げる少年の姿があった。
黒いジャケットに黒いズボンと黒いブーツ、取り敢えず黒で統一しておけば無難だという思惑が分かってしまう服装に、散髪屋で適当に短く整えた黒髪と目付きの悪いつり目がこの少年の人相を近寄りがたいものにしている。
「何でだ?」
少年、松茸 占地はもう一度首を傾げた。
見渡す限りの草原。見える範囲にあるのはポツポツと生えた木々くらいで、それすらもこの草原の見晴らしを邪魔する事はない。
占地にはこの草原に見覚えがあった。あったからこそ、今ここにいる事が理解出来ないのだ。
「寝て起きたらゲームの中?」
何処の携帯小説だよ。一人で呟いて、心の中でツッコミを入れる。
この草原は、間違いなく占地が発売からプレイし続けているVRMMOゲーム『world communication』の、それも初心者用フィールドである。フィールド名はもう覚えていないが、超多目的ゲームを謳うこのゲーム内で、初プレイ時に絶対通過しなければならない、チュートリアル的な場所だったはずだ。
「寝惚けてinしたのかな。それともただの夢……どっちにしろどんだけ依存してんだって話しだな」
一日17時間以上、睡眠時間すら削ってプレイする廃プレイヤーである占地に思い付くのは、それでも無難な推測だけだ。
本人にしてみれば、そら小説や漫画みたいにゲーム内に転生とかを望んでいない訳ではないが、だが占地は知っている。
現実は、どうしようもないから現実なのだ。
「取り敢えずログアウトするかな」
せっかくだからこのままプレイし続けてもいいのだが、今日は昼からイベントがあるのだ。少しは睡眠をとっておきたい。
何時もどおり空中ディスプレイにメニュー画面を開いて一番下にあるログアウトを選択しようとして、占地の指が止まった。
正確には、止まるしかなかった。
「ログアウト不能?」
指さす形になったログアウトボタンは黒ずんで、その隣に現在不可能との文字が浮かんでいる。
今までこんなことはなかった。ログアウト不能なんて、ネットですら話題になっていない。というか、もしこれがバグだとするなら、強制停止が掛かっているくらいに致命的なバグである。
故に、考えられるのはもう一つの可能性。
「なら夢か……」
自覚がある夢のことを何て言うんだったか、そんなしょうもない事を考えながら占地は納得する。してしまった。
もしここで、もう一つの可能性……最初に切り捨てた可能性を考慮していたなら、またこの直後に違った選択が出来たかもしれない。
「キャアアア――――!!」
「っ!?」
突然の悲鳴に、占地は咄嗟に辺りを見渡し、そして言葉を失った。
視界に入ったのは占地の真後ろ、現実では存在しないだろう化け物に追い掛けられている女性だった。白く長い髪を振り乱し、足をもつれさせながらも必死に走るその女性は、その紫色の瞳に涙を溜めて化け物から逃げている。
だが、占地が目を見張ったのは女性ではなく化け物の方。 万人が想像するマグロを三メートルまで巨大化させて、胸ビレから人間の脚を生やして、背ビレからコウモリの羽を広げるあの化け物は――――
「何、で……マガグロがこのフィールドに出てんだよ?」
――――当時の占地を苦しめた、中級ダンジョンのボスのくせにそのステータスは上級中盤クラスと言わしめる、レアボスモンスターだった。
いや、待て。ここはあくまでも夢の中だ。なら、占地の記憶内でトラウマ的なマガグロが出てきてもおかしくはない。
「そっ、そこの人っ、たっ助けて――――」
マガグロに追い掛けられている女性が占地を視界に捉え、走る速度を上げた。
「いやいやいや、無理無理……っ!!」
しかし、占地は女性の助けを求める声に耳を貸さず、女性が走る速度を上げるのと同時に反転、全力で女性とマガグロから逃げる。
「っ、助けてっ、下さっ、い……」
逃げたした占地に、しかし女性はそれでも息切れした声で助けを求めて追い縋る。
あの女性がMPKでない保証もないし、何よりこんな初心者フィールドで、見た目からして凶悪で気持ち悪いマガグロを相手にするのは、それこそ完全ネトゲー初心者くらいなものだろう。それに占地はあのマガグロにトラウマを植え付けられているのだ。当時よりLVもステータスも上がってる今でさえ完璧な準備をしても戦いたくないモンスターである。
そして何より、占地にはそのマガグロを越える恐怖心から逃走を選択する。
――――そう、この選択が失敗だったのだ。
マガグロに追われた女性から逃げること五分ほど、こまめに後ろを確認すれば女性は何回も躓きながらも、なんとかマガグロから逃げていた。
マガグロ自体のステータスは高いが、移動速度はそれほど早くない。それでも中級レアボスモンスターから逃げられているのは、一重に女性が速度重視系の装備と、何かしらの補整ないし補助を受けているからだろう。
例えば、始めてから一週間は固定コミュニティである『初心者』の、逃走補助や時間制限付きの全パラメター微上昇スキルなど。そうやって冷静に分析して、その分析を自分で鼻で笑う。
「何を夢の中で……」
夢の中でそこまで考える意味もない。ならば、女性を助けたらどうだと思考が過る。どうせ夢の中なんだし、と思うがけれど占地だって抗えない恐怖心から逃げているのだ。助けられるなら、既にマガグロに突撃をかましている。
「もうっ、スタミナがっ……!」
後ろの女性から、多分に絶望の色が強い声が聞こえた。
どうやらスタミナが尽きて来たようだ。"鷹の目"スキルを使って表情も確認すれば、その表情は声に違わず絶望で青ざめている。と、占地はその女性の顔に違和感を感じた。
妙にリアルと言うか、確かに見慣れた『world communication』のユーザーアバターなのだが、見慣れたゲーム内補正された顔ではなく、まるで現実に他人の顔を見た時のような、そういえば女性の更に後ろ、その巨体を揺らしながら走るマガグロもリアル過ぎて――――
「キャッ!?」
占地の思考を打ち切ったのは、女性の短い悲鳴だ。
とうとうスタミナ切れたのか、それともここまで運が良かっただけなのか、もつれた足が少し出っぱた岩に引っ掛かり、その場で倒れてしまったのだ。
その姿を見て占地も足を止めた。視界右下に映るスタミナゲージはまだ余裕があるが、突然の全力疾走で息が上がっている。
別に女性がマガグロに攻撃される場面を見ようとして足を止めた訳ではなく、マガグロが女性を攻撃している間に転移用のアイテムで取り敢えず、安全な町か国に逃げるつもりだったのだが、そのアイテムを取り出そうとして、占地は動きを止めた。
否、正確には有り得ない、起こり得ない事に驚いて動けないのだ。
マガグロは今にもスタミナ切れで倒れて起き上がれない女性に追い付いて、その華奢な体に攻撃を仕掛けようとしているが、それでも動けない。
違和感。占地が動きを止めた理由。
待て、どうして俺は、〝息が上がっている〟?
『world communication』ではスタミナゲージは有っても運動して疲労感や息切れは起こらない。それはVR系統の全ゲームに共通する事であり、痛覚と同等にある程度でセーフティを掛かけて脳に行くはずの情報をカットしているからだ。
理由としては、確かゲーム内で行った激しい運動の疲労感が現実の体に影響し、お年寄りが心臓麻痺で死亡しただったと思うが、ともかく、ゲーム内で一定以上疲労が蓄積する事は無い。絶対に、無い。
そもそも、あの女性だって必死に逃げすぎだ。確かにデスペナルティーはあるが、『初心者』に入ってる間はそんなもの有って無いようなものだ。それに、女性も息切れしながら走っていたではないか。更にあの青ざめた表情、このゲームには顔色が変化する使用は無かったはすだ。あんな表情のグラフィック、いつ実装された? 占地は毎日17時間以上このゲームをプレイしている。最新アップデートがあれば、真っ先に内容を暗記しているのだ。記憶間違いないなど有り得ない。
「待てよ、そうだ、これは夢じゃないか……な、何をそんなに慌てる必要が……」
小さく呟いて自分を納得させようとするも、だが嫌な予感は消えてくれない。それどころか時間が経つにつれ、その予感は益々大きく、無視出来ないものになって行く。
そうこうしている間にも、とうとうマガグロは女性の元にたどり着いた。その大きな口を開けて、倒れて動けない女性を丸飲みにしようとしている。あの攻撃は占地も知っている。何度も味わい、その度に苦汁を舐めさせらめた、口の中に頭部が入った時点で判定が入る即死攻撃である。
あの攻撃は中級以上行くとボスモンスターが時々持っているデフォルト攻撃であり、特定の場所に当たり判定を持っているボスモンスターに、特定部位がその当たり判定に触れると即死という、デフォ死とプレイヤーから呼ばれる、元々はゲームバランスを整えるために実装された鬼畜攻撃である。
占地は動画サイトにアップされた第三者視点のマガグロのデフォ死画像を見た事がある。あれは頭部が口に入ったら即死扱いになるので、その時点でアバターは消失。滅多にないがNPCが攻撃を受けても同じ扱いで、所持品や装備、Gを確率でドロップして最終セーブした場所に強制転送される。
「待て」
なら、なぜ上半身だけ起こせた女性は"頭部が口に入って"いながら、アバターが消失していない?
「待て……待て、待て待て!」
叫ぶも、もう遅い。
マガグロの口は占地からしたら酷くゆっくりと感じる速度で、しかし今から走っても間に合わない確実な速さで閉じて行き――――
――――見慣れたゲームの世界に、見馴れない朱色が散らばった。