兆候
ミレーユの顔が目前まで迫り、俺は「もう逃げられない」と半ば諦めながらも抵抗した。
両腕は押さえられていて動かせないが……しかし、頭だけは動く。
俺は顔を横に向け、最悪の事態を回避しようとしたが。
「無駄よ。もう逃げられないって、わかってるでしょう?」
顔を横に向けたせいで、ミレーユが喋ると吐息が耳にかかってしまった。
耐えろ……耐えるんだ!
俺が必死に自分にそう言い聞かせて耐えているのを見透かしてか、ミレーユは俺の顔を覗き込むようにして頭を移動させてきた。
またも正面から至近距離で見つめ合う形となり、俺は咄嗟に顔を正反対の方へ向けた。
「コトネと契約した時、どうやって契約したの?」
急に、何故かコトネとの事をミレーユは尋ねてきた。
何で今そんな事を?
いや、それはひとまず置いておくとして、質問のやり取りで時間を稼げるかもしれないし、この流れに乗るべきだ。
時間を稼いでいる間に、今の状況を何とか出来る手段を考えるしかない!
そう判断し、俺は質問に答える事にした。
「コトネとの契約の時は、俺の手の甲にくちづけをしてもらって……」
って、今の状況でこの回答はマズいのでは?
俺は咄嗟に回答するのを途中で止めたが、完全に遅かった。
「くちづけ……ですって? 私以外の女の子としたのね?」
自分の顔をミレーユがいる方とは正反対に向けているせいで彼女の表情は見えないが、俺の後頭部に殺気を込めた視線が突き刺さっている事は何となくわかった。
時間を稼ぐどころか、噴火一歩手前の状況になっている。
今更もう遅いとは思いながらも、俺は言い訳をする事にした。
「く、くちづけって言ったって手の甲にしてもらっただけだぞ! そ、それに……お前の方こそ、俺と契約した時はどうやったんだよ!? まさかとは思うけど、瀕死状態で意識のほとんどなかった俺に変な事とかしてないだろうな!?」
「くちづけはしたわよ。あの時は貴方があんな状態だったから、時間がなかったの。だから、何種類かある契約方法の中で一番早く契約出来る方法をとらせてもらったわ。」
確かに、以前閻魔様から「一番手っ取り早い契約方法がくちづけである」とは聞いている。
無駄に時間がかかる契約方法をとったせいで俺が死んでいたら元も子もないのだから、こればっかりはミレーユを責める事は出来な……いや、待てよ。
「だったら、俺にヒーリングをかけてから契約すれば良かったじゃないか。どうして契約の方を先にしたんだよ?」
「人間と契約していない悪魔は、人間界で悪魔の能力を行使できないのよ。」
「どういう事だ?」
「人間界と地獄は、別の次元にある異世界同士の関係にあるわ。あちらの世界での法則が、こちらの世界とは異なっているのよ。そこで、この世界に住んでいる人間と契約する必要が出て来るの。そうね……わかりやすく例えるなら、契約者はいわゆる『通訳』みたいなものよ。」
「通訳?」
「ええ。例えば貴方が言葉もわからない外国に行ったとして、そこでは日本の言葉や風習なんかは通用しないでしょう? でも現地の事に精通している通訳を雇えば、通訳を介して日本の言葉を使う事が出来るわ。それと同じで、悪魔は契約した人間を介して力をこの世界で使えるように変換し、能力を行使するの。契約した時に契約者の情報が悪魔の方へ流れてきたり、契約者が能力を使えるようになるのは契約によるペアリングの副産物なのよ。」
「なるほどな……。」
これまで「どうして悪魔は人間と契約する必要があるんだろう?」と疑問を持った事はあったが、ちゃんと理由があったんだな。
俺は素直に感心していたが、それも長くは続かなかった。
「話がかなり逸れてしまったけれど、とにかく貴方は既に私とくちづけを交わしているの。なのに、他の女の子からもくちづけされているだなんて……。これは、立派な浮気よ!」
「何で浮気になるんだよ!? 俺はお前と恋人同士になった覚えはないし、第一お前だってコトネと同じように手の甲にしかくちづけしてないだろ!」
「……手の甲じゃないわよ?」
「えっ?」
「契約の時のくちづけは、相手の体の何処にしても成立するの。くちづけする方もされる方も比較的抵抗が少ないと思われる手の甲にするのが一般的とされてはいるけどね。」
「ちょ、ちょっと待て。じゃあ、お前は……」
手の甲以外って、まさか!?
「そうよ。私が契約の時にしたくちづけは、手の甲じゃなくて唇にしたの。だから、その……普通にキスした、という事ね。」
台詞の最後の方は少し照れているような感じで、ミレーユはそう言ったが……おいおい、何やってくれてんだよ!?
「ひ、人が意識のない時に、何て事を! 俺、一応そういうの初めてだったんだぞ!」
「大丈夫よ。私も初めてだったから。」
「そういう問題じゃない!」と心の中で突っ込みながらも、俺の頭の中は混乱したままだった。
しかしそれに構わず、ミレーユは俺の頭に手を触れて撫で始めた。
「そういう事だから、もうとっくに貴方は私のものになっているのよ。諦めて観念しなさい?」
そう言って、ミレーユは俺の頭を両手で強引に自分の方へと振り向かせた。
そして再び、ミレーユの顔が俺の顔に迫る。
くっ……!
「もう駄目だ」と思った俺は、キュッと瞼を閉じた。
だが、ミレーユの唇が触れる寸前で、俺はある事に気が付いた。
ミレーユは俺の顔を強引に自分の方へ向かせるために、両手を使っている。
つまり。
さっきまで押さえられていた俺の両腕は、今は自由なのだ。
この状況から脱出できる、最後のチャンスだ!
そう思い、俺は両腕に精一杯力を込めた。
しかし、ミレーユが俺の胴体の上に馬乗りになっている状態のため、なかなか起き上がれない。
―――くっ……俺は、俺は……っ!
「うおおっ!!」
雄叫びを上げて自分に喝を入れ、何とか起き上がろうと両腕にもう一度全力を込める。
すると、そこで今まで感じた事のない高揚感……まるで、何処からか力が溢れてくるような感覚が俺の全身を駆け巡った。
不思議な感覚を感じた直後、俺はミレーユを押しのけて一気に上半身を起き上がらせた。
―――バフッ!
起き上がった直後、ベッドの布団に何かが倒れるような音がした。
俺は閉じたままだった瞼をゆっくりと持ち上げ、音のした方へと視線を向ける。
「ど、どうして……!?」
俺が目を向けた先には、俺が起き上がった事で後ろに倒れたミレーユがいた。
布団の上に尻餅をついた状態で、驚いている表情でこちらを見ている。
俺は、助かったのか?
しかし、さっきの感覚は一体何だったんだ?
呆然としたまま、ミレーユと顔を見合わせていると
―――ドン、ドン!
「か、和也さん、大丈夫ですか!? 今入りますね!」
俺の部屋のドアを力強くノックしてから、部屋にコトネが入ってきた。
「あれ? な、何があったんですか?」
「えっとだな……いや、大した事じゃないんだ。俺は見ての通り大丈夫だよ。」
「は、はぁ……。」
どうやらコトネは、さっきのドタバタに気付いて「何かあったのか」と心配して来てくれたようだ。
不思議そうな表情で俺とミレーユの顔を見回すコトネに毒気を抜かれたのか、ミレーユは「ふう」とため息をつき
「今日のところはこのくらいにしておいてあげるわ。でも、次はないから覚悟しておいてね。」
と捨て台詞を残して、俺の部屋から出て行った。
何とか、切り抜けたみたいだな。
俺はドアの近くに突っ立ったままのコトネの方を見て
「心配してくれて、ありがとうな。」
「い、いえ、一応パートナーですから……。」
……そうだよな、パートナーとはこうあるべきだよな。
年下のコトネの方がよっぽどしっかりしてるじゃないか。
何処ぞのアホ悪魔とは大違いだ。
「今日はもう遅いから、早く部屋に戻って寝た方がいいよ。俺も今から眠ろうと思ってたところだから。」
「そ、そうですね。で、では和也さん、お、お休みなさい。」
「ああ、お休み。」
お互いに挨拶を交わした後、コトネは自分の部屋へと戻っていった。
彼女が部屋から出て行くのを見届けてから、俺は消灯した。
――――――――――――――――――
―――翌日の土曜日。
朝のうちに何とかコトネの買い物を済ませ(当然ながらミレーユも付いてきた)、家へ帰って昼食を終えたところで携帯に着信が入った。
携帯を確認してみると、電話は朱音からのものだった。
「もしもし。」
「あ、和也君。今、電話大丈夫?」
「ああ、大丈夫だけど。」
「そう、良かった。実は今日、お昼から暇だからそっちに遊びに行きたいなと思ってるんだけど、どうかな?」
「うちに? 俺は構わないけど。」
「ホント!? あ、それと……コトネちゃん、だっけ? 彼女も家にいるのかな? 昨日の課外活動の時に何があったのかまだ詳しく聞いてないし、きちんとお話してみたいんだけど。」
「ちょっと本人に予定を聞いてくるから、少し待っててくれ。」
そう言って、俺はすぐさまリビングにいたコトネに予定を確認し、その後通話を再開した。
「予定を確認したけど、午後からは特に出かける用事はないそうだ。」
「そっか。じゃあ、今からそっちに向かうね。」
「わかった。また後でな。」
「うん、またね。」
こうして、午後からうちに朱音が遊びに来る事が決まった。
ミレーユと違って朱音はコトネを威嚇したりするような真似はしないし、常識人なのでコトネも接しやすいはずだ。
俺もコトネも、昨日の件のせいでミレーユと微妙に気まずい状態だし、いい気分転換になるかもしれない。
―――ピンポーン!
電話があってから30分ほどで、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい!」
俺は玄関の方へ向かい、扉を開けた。
扉を開けると、何故か苦笑気味の表情をしている朱音が立っていた。
「どうしたんだ?」
「え、えっと……約束通りに遊びに来たんだけどね。その、何ていうか……。」
「?」
珍しく何かを言い淀んでいる様子の朱音を見て俺が首を傾げると、ドアの陰から別の人影が出てきた。
その人影の正体は……。
「わたくしもご一緒させて頂いてよろしいかしら、一ノ瀬さん?」
「エ、エレナ!? どうして!?」
「マスターから定期的に一ノ瀬さんの様子を見に……いえ、わたくしも遊びに来ただけですわ。」
今咄嗟に誤魔化してたけど、明らかにただ遊びに来ただけじゃないだろ!
言いかけた台詞から推測するに、どうやらエレナがここに来たのはマスターからの命令らしいな。
追及してもどうせ答えてくれないだろうし、今は放っておくか。
「まあ、いいか。とりあえず、2人とも上がってくれ。」
「お邪魔しまーす!」
「失礼致しますわ。」
2人をリビングまで案内し、部屋に招き入れたところでエレナが固まった。
「どうしたんだ、エレナ?」
「……どうして貴方がここにいるんですの?」
「エ、エレナさん?」
固まったエレナの視線の先にいたのは、テーブルにコーヒーのカップを並べているコトネだった。
エレナの問いかけに対して、コトネも驚いたようにエレナの名前を呼んだ。
エレナは驚きつつも少し厳しい表情で、コトネは普通に驚いた表情でお互いを見つめている。
この2人、知り合いなのか?
でも……2人のこの反応は、一体何なんだ?