エレナ・ブルーム
朱音を襲っていた放火魔の女が、俺に向かってナイフで切りかかってきた。
俺は朱音ほど運動神経が良くないので、まともに交戦すればあっさりやられてしまっただろう。
だが、それは俺一人で相手をした場合の事だ。
俺に向かってナイフを突き出してきた放火魔の腕が、突然横から掴まれ攻撃が止まった。
放火魔がハッとした顔で横を振り返る。
「そこまでですわよ!」
放火魔の腕を横から掴んだ者の正体は、ミレーユと同じ悪魔であるエレナだった。
エレナの赤い瞳を見て彼女が悪魔である事を悟った放火魔が、初めて焦った表情を見せた。
「ぐっ……!」
うめき声と共に腕を振りほどこうとするが、ゴーストに身体能力で勝る悪魔にはやはり敵わないようだ。
腕を振りほどけないと判断した放火魔が、空いている左手を上着のポケットに突っ込んだ。
そこから取り出したのは……ナイフじゃ、ない!?
あれは、パチンコ玉?
銀色に光る小さな玉を幾つかジャラジャラと音を立てながら取り出した放火魔は、それらをまとめてエレナ目がけて投げつけた。
「危ない!」
俺がそう叫んだが、回避が間に合わなかったようだ。
複数のパチンコ玉がエレナを貫いた。
「エレナ!」
俺は急いでエレナの元へ駆け寄ろうとしたのだが。
「え……?」
目の前で撃たれたエレナの姿が徐々に透明になり、やがて完全に消えてしまった。
この光景、前にも見た事があるぞ!
俺がそう思った瞬間。
「何ッ!?」
驚きの声を上げたのは放火魔だった。
ふと俺が放火魔の方を見ると、エレナがいつの間にか放火魔を後ろから羽交い絞めにしていたのだ。
これは、一体……?
俺と同じ疑問を抱いたのであろう放火魔が、エレナに問いかけた。
「アンタ、どうして!?」
「ふふっ、どうしても知りたいというのなら教えて差し上げてもかまわなくてよ? でもその前に、幾つか聞かせてもらいますわ。」
「……。」
「貴方の能力……やはり投擲できるのはナイフだけではなかったのですわね? 『特定の物を高速かつ直線的に投擲できる能力』で合っているかしら? さっきのパチンコ玉も、まともに当たっていたら危険だと思われるほどのスピードが出ていましたし。だとすれば貴方の能力の最大の弱点は、両腕を今みたいに封じられたら何も出来なくなる、というところでしょう?」
「……だったら何よ。」
放火魔の女が恨めしげに目線を後ろにいるエレナの方へ向けながら呟いた。
しかしそれに動じる様子もなく、エレナは穏やかな笑みを浮かべながら話を続ける。
「貴方に能力を与えた悪魔が今何処にいるのか、ご存じなのかしら? 知っているのなら、教えて頂きたいのだけれど。」
「知らないわ。」
「あら、そう。では、何故貴方はその悪魔と契約したのかしら?」
「……あの人が言っていたのよ。『もうすぐ、地獄と人間界における魂の流れに大きな変革が訪れる。その時、生き残れるのは善人ではなく悪人だけ。だったら、自分のしたい事をすればいい。欲望のまま、生きた者が報われるようになるのだ。』ってね。」
その言葉を聞いてエレナが眉を顰めた。
今の話……ミレーユが俺と最初に出会った時に言っていた「地獄のキャパシティが近いうちに限界を迎えて悪人だけが蘇る」という事を指しているのだろうか?
だとすれば、この放火魔に力を与えた悪魔の目的は、悪が支配する世界を作り上げる事?
俺が頭の中でそんな事を考えていると、そこで放火魔が再び口を開いた。
「わたしが悪魔について知っている事はこれで全部よ。今度はわたしから質問させてもらうけど、どうしてアンタ達はわたしの邪魔をするの? あの人が言っていた事が本当なのなら、あの人と同じ悪魔であるアンタにわたしの邪魔をする理由なんてないはずよ!」
「確かに、貴方が契約した者と同じく、わたくしも悪魔ですわ。でも、わたくし達の目的はその悪魔とは違います。地獄と人間界における魂の流れを、正常に維持し続けられるようにする事がわたくし達悪魔の本来の目的でしてよ。世界をその悪魔の言う通りになどさせるつもりはありませんわ!」
エレナがさっきまで浮かべていた微笑みを消して、真剣な表情でそう宣言した。
普段のまるでお嬢様のようなふわふわした雰囲気ではなく、凛々しく決意に満ちているエレナに、俺は思わず目を奪われた。
「そんな……じゃあ、わたしのしてきた事は一体……」
エレナの宣言を聞いて、放火魔の女は力が抜けたように地面に崩れ落ちる。
それと同時に、ミレーユが呼んだパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
大変だったけど……これで一件落着、かな?
俺はいつの間にか隣に立っていた朱音に声をかけた。
「来るのが遅くなってゴメンな。かなりボロボロになってるけど、大丈夫か?」
「あ、あたしの方こそ、ゴメン。和也君が心配してくれてたのに碌に話も聞かないで勝手な事しちゃって。怪我の方はそんなに大した事ないから大丈夫。」
「一つ一つの怪我自体は確かに大した事なさそうだけど、あちこちに傷があるぞ? このままにしとくわけにもいかないし、後でミレーユのヒーリングでまとめて治してもらえるように俺の方から頼んでみ……」
「頼んでみるよ」と言いかけて、ある事に気付いた俺は無意識に言葉を止めてしまった。
さっきも話した通り、朱音は体のあちこちに切り傷が出来ている。
当然ながら着ていた学校の制服もところどころ破れているわけで。
まあ、つまりどういう事かというと。
服の破れている部分から、ブラジャーの一部が丸見えになっていたのだ。
色は白なのか……じゃなくて!
マズいぞこれは!
焦った俺はすぐさま顔を背けたのだが、明らかに不自然な態度を取った事に朱音が気付かないはずがない。
「和也君? 一体どうしたの?」
「え、あ、えっとだな……な、何でもないぞ?」
「?」
それから暫く朱音に訝しげな目を向けられたが、どうにか気付かれる事なくやり過ごす事が出来た。
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やがて現場に到着した警察に放火魔は逮捕され、俺達は事情聴取のためパトカーで警察署に連れて行かれる事になった。
数時間ほどで聴取を終え、俺と朱音、エレナの三人は解放された。
「やれやれ、今回も大変だったな。」
「全くです! もう23時近いですし、マスターや御両親に叱られてしまいますわ……。」
しゅんとしたエレナを見て、俺は思わず苦笑してしまった。
数時間前に放火魔と対峙した時とはえらいギャップだ。
と、そこで一つ聞いておきたい事があった俺は今のうちにそれを尋ねる事にした。
「さっきエレナが使ってた能力って、もしかして『テレポート』か?」
「さすがにあの状況を見ればバレてしまいますわよね……。ええ、その通りですわ。」
「やっぱり、そうだったのか。」
実は朱音の元へ向かう途中、二度目のミレーユからの電話でエレナと初めて出会った場所に行くよう指示されたのだ。
丁度病院から朱音の家へ向かう経路付近にある場所だったため、到着までさほど時間はかからなかった。
俺が指定された場所に到着すると、そこでエレナが待っていたのだ。
それから俺達は二人で朱音を探して走り回り、間一髪で間に合ったというわけなのだが。
エレナがうちに来てミレーユから事情を聞いたのが一度目の電話の後だとすると、時間の計算が合わないのだ。
幾ら悪魔の身体能力が高いといっても、そんな僅かな時間で来れる距離だとは思えない。
放火魔のパチンコ玉の発射をよけていつの間にか後ろに回り込んでいた事、エレナと最初に出会った時に目の前で消えた事。
それらはエレナの能力がテレポートだと考えれば説明がつく。
「でも、それって結構強力な能力じゃないの? 使用制限とか厳しそうだけど。」
エレナと今まで話した事がなかった朱音が恐る恐るといった感じで会話に入ってくる。
朱音の言う通り、テレポートが弱い能力であるはずがない。
だとすれば、厳しい使用制限が課せられていても何ら不思議ではないだろう。
「もちろん、制限はありますわよ? わたくしのテレポートは連続して使用する事が出来ませんの。一度能力を行使すると、移動した距離の長さに比例して一定時間のインターバルが設けられるのですわ。また、自分自身しか移動できない・テレポート後も移動前の残像が残り、約3秒ほどで完全に透明になって消えるという特徴もあります。その性質上、本来の長距離移動の用途よりも短い距離を頻繁に移動する事が多い戦闘向きの能力なのですわ。もっとも、この能力自体には攻撃能力は一切ありませんから、最終的には自分の身体能力を駆使して戦わなければなりませんけどね。」
「へぇ……。」
「なるほど、便利な能力だな」と俺は思わず感心してしまった。
「攻撃能力を持たない」=「戦闘で使えない」という事ではないんだな。
戦闘でもそれ以外でも使える、汎用性の高い能力だといえるだろう。
そんな事を考えていると、不意にエレナが立ち止まって俺と朱音の方を向き、
「では、そろそろわたくしは失礼させて頂きますわ。」
「ああ、今回は助かったよ。ありがとう。マスターとやらにもよろしく伝えておいてくれ。」
「ありがとう、エレナさん。」
俺と朱音がそれぞれエレナに対して礼を言うと、
「いえ、わたくしは自分の為すべき事をしただけですわ。それに『一ノ瀬さんがマスターによろしくと言っていた』と報告すれば、きっとマスターも喜ばれますから。」
「……前から気になっていたんだが、そのマスターとやらは、もしかしてエレナが俺達と出会う前から俺の事を知っているのか?」
「ふふっ、それはわたくしの口からは言えませんわ。では、これにて失礼致します。」
上品にお辞儀をしたエレナの姿は、徐々に透明になり完全に消えてしまった。
エレナの特殊能力の一つについて教えてもらう事は出来たが、マスターとやらの正体は結局わからずじまいか……。
まあ、今のところは味方っぽいし、現時点では無理に調べる必要性もないだろう。
そこで俺は朱音の方へ向き直り
「じゃあ、俺達も帰るか。」
「うん!」
そう返事した朱音と共に、俺は自宅へ帰る事にしたのだった。