兇手
ありま、すん。
兇手。
古くから特殊かつ極一部である、故殺を生業とする人間の事。
企業の重鎮や政治家など主に金銭や情勢等に関わる者を殺めるが、内閣府暗殺の事件から、オフィスや街中を行く著名人だけでなく一般家庭にまで重警備を薦められている昨今、一般人が政治家を殺害しようとするものは極僅かなっている。
だからこそ現代ではプロの兇手や殺し屋、刺客を送り込んで確実に目標を抹殺しようとする依頼も少なくはない。
二〇五九年四月五日未明。
東の藍色に染まった空に明星の光が浮かび、つい先ほど橙に焼け始めた頃。
都会のビル群の上で、心の闇を払うような彩りを見むきもせずに、黒尽くめの青年と思わしき男が肌寒く吹き荒れるビル風の中、音もなく立っている。体つきは若い。
しかし、彼の視線の先に捉える齢60を迎えたであろう老人を見つめる表情は堅く、多くの人間を見てきた達観した雰囲気も垣間見える。
まるで獲物を上空から狙う鷹のような目をした少年は、先日依頼された任務を果たすための頭に叩き込んだ計画を再確認している。
すると、空を突き刺す無駄に高い建設中ビルのエントランスに、数多くの取り巻きを連れたグレーのスーツを着た男が影を表した。
外で待ち停っている車に乗るのであろう。
タワークレーンが不規則なリズムで蕩揺している。
時間通りだが──。頭の中のリマインダーにチェックを刻み、懐から特殊な機能を施した携帯電話を取り出し、通話のキーを押して耳に掛けた。
予想の範疇を越える警護人の数、実に10。
(対象の人物させ殺れば依頼は完了だ。わざわざハイリスクを選択する必要はないか。)
ワンタッチで番号を入力、刹那の間を挟んでから、中年と思しき声が聞こえてきた。
「こんな時間にどうしたかね。」
青年の持つ携帯電話は使われている他者の番号を利用、かつその番号で通話することができるよう改良を施したモノだ。
「初めましてですね。日比谷議員。」
「…一体、君は誰かね。この番号は同じ党内の者しかしらないはずだが?」
彼が得意とするのは、対象者が警護と離れて一人になったところを潜入し、緊張が解けたと同時に闇討ち。
死を悟る時間を与えぬまま葬ることで、遺体回収から証拠隠滅までスムーズに行える事を良く知っていた。
だが、今回に限ってそうは行かないらしい。
いま現在は10人の守護人と防弾のガラス、装甲を持つ特殊な車。
いくらアナライザー(分解する者)と謳われる彼と言えど、プロのボディーガード10人相手は不可能ではないにしろ、二つの意味で骨が折れる事態は免れられないだろう。
故に選択肢は1つ。
「自己紹介する程悠長な時間を過ごしていられない。お前の命を狙おうと企てている者がいる。」
事件ではなく、事故を起せばいい。
「誰だか知らんが何を言ってるんだい君は。私のボディーガードはプロ中のプロ。近接では衆寡敵せず。銃で狙撃しようにもこの区域のビル風で撃つのは無知のすることよ。」
不可能──。と言いたげな様子を覗かせる、さぞ余裕ある表情を見て取れる。
予想の範疇内。
「…あなた程のお方なら心配する必要は無いようだ。時間を取らせてしまってすまなかったな。」
返事を待たず、通話から意識を遠ざける。
と同時に、ビル出口の鮮やかなレッドカーペットに十と一の衆が迎えの車に向かって歩を進め、一が鉄の中へ入ってゆく。
(ターゲット以外に引導を渡すのは流儀ではないが──。)
タクシーのように扉が閉まった、その時。
轟音。
鉄と鉄とが衝突し、辺りの空気を大きく揺れ動く。
戦争の火蓋が落とされたかのような爆音と破裂音が静寂の代わりに響き渡り、そして同じように静寂が訪れた。
屋上に設置された鋼鉄の塊が、十五、六階の高さから落下し、議員の乗る車に直撃したのだ。防弾ガラスは粉々に砕け、ホイールは原型をとどめない程ひしゃげ、見るもも無残で歪を語っている。
屋上に青年の姿は既になく、レッドカーペットを延長するかの如く五人分の鮮血が飛び、朝の陽光に生々しく彩られ照らされていた。