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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

2人の関係

作者: 和泉あらた



          1


「もう、電車は見飽きたかな?」

 まるで泣き出しそうな、もしくは笑うのを堪えているような顔をしながら、彼が私に聞いてくる。機嫌を伺うように、甘えるように、下からのぞきこむようにして、忙しく瞬きをさせながら。

 彼と一緒に過ごすうちに私までもが同じ表情をしている時間が多くなってきたかもしれない。厚い前髪で隠れているはずの眉を寄せて、それでも口角は上がったまま、短い爪に施した派手なネイルを見せつけるように頬に手を当て、首をあざといほどかしげて答える。

「そんなことはないよ」

 自分で予想していたよりも、高くて甘い声が出る。唇の形はアヒル口になっているかもしれない。目はうるんでいるかもしれない。自分でもあきれるほどのブリッコぶりも、彼が好きだから。

「ほんとに? ここにくる途中で、今日の夜にでも飛び込みそうな人見つけたんだよねえ」

 照れているように髪をとかしたり、上唇をもてあそんだりしながらしゃべるのは昔からの私のクセ。これは彼に移ったらしい。その様子があまりにもかわいくて、思わず私は満面の笑みになる。大きく開いた口を両手で押さえて見つめていたら、困ったような顔をして顔を背けてしまった。

 しばらく辺りを慎重に見回していたけれど、ふいにこちらを見て目で何か合図する。さっきまでとは別人のように自信に満ちた男の目。ドキッとするけど、あまり好きではない、私しか知らない彼の裏の顔。

「そういえば、服毒自殺を見たいって言ってたよね?」

「服毒?」

「あいつ、何かを飲んで苦しんで死んで行く」

 平日の丸の内のカフェはお昼を過ぎてもサラリーマンでにぎわっている。店の奥でお昼よりも前からもう二時間、私服で陣取っている私たちだが皆忙しそうで思ったよりも浮いた感じはしていない。だからこそ、彼が目で合図した『あいつ』はなかなかわからなかった。 

 入り口に近い小さな丸テーブルで窮屈そうにランチを食べているグループの中にいる男だろうか、『あいつ』というのは。私が目をつけたのは、細身で背が高く、若い普通のサラリーマンだった。いや、普通というよりも自殺なんてもったいないと思う、ちょっといい男。隣に座っている少し太めの女性は彼のことを好きなのだろう。しきりにボディタッチをしながら話しかけている。

「かなり思い詰めていてね。かなり苦しんでいるから、睡眠薬なんてもんじゃない。劇薬っていうのかな」

「劇薬……って?」

 私は眉をしかめて、彼に顔を近づけて聞いた。

「さあ? 僕にはラベルの文字までは読めないなあ」

 彼は少し、こわかった顔を緩めて答える。

 私は考える。自分にとって一番の至福の時かもしれない。劇薬……って? かなり苦し

むって? 

 以前にも、有名な樹海で服毒自殺をする人を見たことがある。でもそれは、鬱病を患い、処方されていた薬を大量に飲んだに過ぎなかった。だからその人は、苦しむことなく眠るように死んで行ったのだ。

 その日の夜、私はあまり興奮できなくて、彼をがっかりさせてしまったのを覚えている。今度は本当に理想的な服毒自殺を見る事が出来るのだろうか。

 いや、そんな簡単に行くわけはない。服毒自殺をはかる人は、自宅などでこっそり行う事が多い。電車への飛び込み自殺のように、待ち伏せをしていれば見れるというものではなかった。

 考えを巡らしてしばらくボーッとしていた私を見て、彼は微笑みながら説明してくれる。

「鏡がたくさんある、控室みたいな部屋の中だ。『あいつ』はラフな服を着ている。ポケットに隠し持った瓶を思いきって一気に飲み干す」

 彼は脳内にチラつく映像から状況を推理し、話してくれる。彼に見えているのはあくまで『あいつ』の自殺の場面の断片的な映像に過ぎないといって言ったのだが、まるで実況中継しているかのようで私を興奮させる。

「『あいつ』はわざと苦しんで死ぬ薬品を選んでいる。そしてそれを飲んだらどうなるかも、わかっているんだ。誰かに見せつけようとしているのかもしれない。薬品を持つ手が震えているよ。だから僕にはラベルの文字が読めないんだ」

 そこまで話して一息つく。本来口下手な彼は考えながら話をつなぐけれど、脳内にチラつく映像を言葉にしている時はいつもより冗舌だった。それはベッドの中で愛を語る時の彼に非常に良く似ていた。

「酷い苦しみ方をしている。飲みこんだ瞬間に吐き出してはいるけれど、嘔吐物には血だけじゃなくて身体の中のものも混じっている。それから、右手を喉の奥まで無理やり突っ込んで、もがき苦しみながら死んで行くよ。僕には見るのが耐えられないくらいの映像だけれど、きっと……」

――そう。私は見てみたい。人の死に直面することで、私は性的な興奮を得られるのだ。

 彼は人の死ぬ直前の映像が頭に浮かぶことがあるのだという。自殺でも、事故でも。唐突に、脳裏に浮かぶのだという。

 苦しみながら死に行く人をみられるなんて、かなり魅力的な話だけれど、どうやったらその控室みたいな場所に入る事ができるだろう。カフェを出る『あいつ』を追えば、場所は特定できるはずだった。でも中に入るのは、容易なこととは思えない。

 再度なにげなく、『あいつ』を見る。首から入館証のようなものを提げている。恐らく入り口でかざすか、通すかして扉をあけるようなカードに見えた。

 あれをどうにかして手に入れればいいのか。それとも誰かの後ろについて入るか。いずれにしてもむちゃな考えだった。

 それに『あいつ』がもし自殺を思いとどまってしまえば、危険をおかして施設に侵入する意味がない。彼の能力は百パーセントとは言えず、今までに何度も肩透かしをくらったことがあった。

 二人で小さな声で相談するが、いい考えは浮かばない。

 だから、私は決意する。

「あきらめて、電車の飛込自殺にしようよ」

 きっと彼も待っていたと思われる言葉を告げる。

――あなたが悪いわけでもないのに、ごめんね。そういう気持ちをたくさんこめて。

 難しい顔をしていた彼の顔がすっと緩む。

「そうしたら、どっかで時間を潰して、夜の八時に中央線だ」

「じゃあ、上野の美術館に行こうよ」

「うん、今何がやってたっけかな?」

 気持ちを切り替えて、普通のデートを楽しむ恋人に戻るだけ。

 彼に面と向かっては言えないけれど、電車の飛び込み自殺はすでに見飽きてはいた。

 それでも何も見られないよりはずっといい。

 私たちが今日の夜、ベッドの中の時間を楽しく過ごすためには必要なことだった。 


          2


 悠壱の不思議な能力に気づいたのは、付き合って一年近くたつころだった。

 土曜日の夜、私のマンションで悠壱と二人でテレビを見ていた時のこと。

 なんとなくチャンネルを変えながら、一瞬映ったニュース番組に悠壱は強い反応を示した。若いながらにニュース番組を任された美人女性アナウンサーが、真面目な顔で悲惨な火災事故ニュースを読んでいる。そのニュース自体はもう何日も前から報道されているし、今更食い入るように見つめるような続報も見当たらなかった。

 あまりにも真剣な悠壱に思わず私はからかうような口調で「あれ?悠壱さんって、こういうのタイプだったっけ?」などといってしまった。もちろん否定の言葉と優しいキスをもらうための、ちょっとしたヤキモチ演出のつもりで。

 しかし帰ってきた言葉は驚くものだった。

「このアナウンサー、明日高い所から飛び降りるよ、自殺」いつも優しい悠壱から今まで聞いたこともないような捨て去るような台詞。

 悠壱はもともとそんな悪趣味な冗談を言うタイプではないし、相手がテレビの中の芸能人であっても悪口や陰口はあまり好きではない。友達とテレビを見ながら悪口やスキャンダルの話をネタに盛り上がるのがストレス解消となる私にとっては、悠壱と見るテレビは少し退屈だったけれどそんな人間性が大好きだった。

 だからこそ冗談で返したり、否定の言葉を使ったりすることもできなかったのだ。

「ああ、ゴメンゴメン」

 あぜんとしている私をみて、悠壱はいつもの少し泣き出しそうな複雑な笑顔になって頭をかく。

「いや、かわいそうになって思って。何が原因かは理解できないのだけれど」

 もう完全に自殺すると決め込めた言い方に私は強く違和感を覚えたが、結局また言葉が出てこない。

 長い沈黙のあと、私がやっと発した言葉は結局悠壱のいうことを肯定したかのようなものだった。

「どこで? どうやって? 何時ころ? どうして?」

いままで頭の中で考えていたことを矢継ぎ早に質問すると、悠壱は考える時間もなく即答した。

「場所は渋谷。テレビ局近くの十七階だてのビル屋上から大勢のやじ馬や警察のいる前で、明日の生放送の直前十七時ごろ、遺書を残して飛び降りる。どうしてかはわからない」

 私が質問したときと同じくらいの速さで答えると「信じてくれなくて構わないよ、明日になればわかることだし」と悲しそうな、でも口元は笑顔で言って、チュッと小さくキスをした。

 その日の夜、私は悠壱の求めに応じられなかった。悠壱が気持ち悪い? そういう訳ではない。ただ私の頭の中は次の日の予定をたてるためにめまぐるしく動いていた。

 私と悠壱は西武線の各駅しか停まらないマイナーな駅から、さらにバスで十五分の所にある美術館で働いていた。正社員の悠壱は美術館の定休日である毎週月曜日しか休みがない。あとは毎月最終日曜日、掃除と銘打った館長の家族サービスデイに連休となるだけ。アルバイトの私は毎週日月を休みでもらっている。

 まだ月の半ばの今週は明日の日曜が休みなのは私だけ。二人は大抵土曜の夜を一緒に過ごし、悠壱は次の日私の家から出勤していく。そして、その夜また戻ってくるのだ。

 今日の夜求めを拒んでも、明日もしくは明後日の夜があるからと「余計なことをいってしまった」と反省する悠壱に囁いてその日は帰した。

 普段なら日曜は予定がなければ実家に戻るのだが、明日は渋谷に行ってみようそう決めた。


 翌日たっぷりと睡眠をとったあと、午前中近くの喫茶店でトーストとゆで卵の安いモーニングを食べながら、携帯で渋谷のテレビ局周辺の地図を探した。果たして十七階だてのビルはすぐに見つかるのだろうか?

 一旦家に戻って蒲団を干したり洗濯物をしたり、昼食を豪華に作ってみたりしても時間は進まない。悠壱は今日私が実家に戻らないことを知ると、また夜にはくるといって出かけていった。渋谷を十八時に出るとしたら、家に戻るのは十八時半ころだろうか?悠壱の帰りは早くても十九時になるはずだ。どこかで待ち合わせて食べにいってもいいけれど、昨日の夜の償いをしなくてはいけない。長い夜を優雅に自宅で過ごすために、とりあえず出来る範囲で夕飯の下準備をしたころ、時間はやっと十五時になった。

 開通したばかりの副都心線のお陰で最寄り駅から渋谷までは直通でいける。

 心配していた十七階建てのビルはすぐに見つかった。案内板で階数の確認が出来たからだ。絶対にこのビルだという確信もなかったけれど、他にそれらしい建物は見つからなかった。

 時間を潰すために、いったん駅方面に戻る。喫茶店はどこも混んでいた。

 悠壱に隠れて吸っている煙草に火をつける。完全に同棲ができない理由の一つだ。それに一人暮らしを始めた理由の一つでもある。

 突如外が騒がしくなった。慌てて時計を見るとまだ十六時半を過ぎたところ。私は焦る気持ちを抑えながら、もう一本だけゆっくり煙草を吸うと外に出た。

 外は思っていた以上の人だかりが出来ていた。目の前にいた女性が悲鳴を上げながら、空を指差す。

 それはまさに髪の長い女性が宙を待っている瞬間だった。スカートが風を受けて膨らんでいる。とても気持ち良さそうに。“ドスン”という地響きのような音が遠くから聞こえ、そこから人が悲鳴を上げて散ってゆく。私だけが反対に進んでいた。まるでスローモーションのようだった。

 結局その場にはたどりつけなかったが、先頭近くにいたサラリーマンの顔についた茶色い奇妙な物体を確認すると、私は踵を返して人の流れとともに駅に向かった。悠壱のいったことは本当だったのだ。

 その日の夜はいつも以上に興奮状態が続く私を悠壱は思う存分楽しんだ。

 気づいたのはその時だった。幼少のころに培われ、奥底に眠っていた私の生来の性癖に。

それからの私は、人の死に直面することでしか性的な興奮を得られなくなってしまったのだった。


          3


 今日も二人でデートという名の獲物探しの旅に出る。

 埼玉方面のアウトレットモールで春服をたくさん買ってもらう予定だ。それから油断するといつも同じ服を着てくる悠壱をなんとかしなければならない。

「そのタートルネック、毛玉つき放題じゃない。なんとかしようと思わないの?」

「いや、まだ全然着られるし、せっかく那奈ちゃんからもらったのだし」

「どうせ、他に着る服がないからでしょ」

「そんなことはないよ。ちゃんと気に入って着てるんだよ」

「よく着てくれるってレベルなら嬉しいけど、そう毎日毎日着られたら嫌がらせにも思えてくる」

「毎日じゃないよ! ちゃんと洗っているから大丈夫だよ、それに他の服も着ているでしょ」

 珍しく悠壱がムキになった言い方をする。他の服といっても私の頭に浮かぶのは一つしかなかった。

「あ、あれはどうしたの? グレーのパーカー。あんま最近見てないけど」

「あれは那奈ちゃんが、大学生みたいって言うからさ〜」

「あのお母さんに買ってもらったやつか」

「だから違うって言ったでしょ。五年くらいまえに自分で買ったって……」

「また着てきてよ。あのダサさがいいんじゃない」

「もう那奈ちゃんの趣味はわからないよ」

 悠壱は、むくれた言い方をしながらも頬は上がっている。結局のところ、どんな言い方をされたにせよ、私に良しとされたことが嬉しかったようだ。

「ああ、そう言えば、前から言っていた進吾くんの絵を引き取れることにやっとなったよ」

 少し真面目なトーンになるが嬉しさは隠しきれてない。

「え〜ほんとに! おめでとう! 悠壱さんずっとがんばっていたものね」素直に私も喜ぶ。

 悠壱はまっすぐ前を向いたまま、小さく「ありがとう」と言った。

 

 進吾くんの絵というのは、悠壱がいつものように千葉の病院に絵画発表会を手伝いにいった時に一目惚れしたものだ。進吾くんは入院から五年もの間、隔離病棟から出てこられず毎日をただ壁の一点を見つめながら生活していたが、去年の春に晴れて相部屋へ移ることが出来そこで仲間に教えられ絵を書くようになったのだという。

 私も一度写真でみたことがあるのだが、繊細なタッチと乱暴なタッチが合わさっている何とも不思議な絵だった。悠壱はすぐさま絵を美術館に飾りたいと進吾くんの両親に申し出たが、見せものにされたくはないと拒まれ続けていたのだ。商談を始めてから一年もかかっていた。

「結局さ、最後の決めては進吾くんの意欲だったよ」

 悠壱が感慨深そうに目を細める。

「両親は僕に隠していたけど、あのあともずっと進吾くんは絵を書きつづけていてね。ご両親……特にお母さんが進吾くんの絵を嫌って隠していたんだ」

確かに自分の息子が書いたなんて否定したくなる気持ちもわかるのだ。それほど個性的な絵だった。

「でも今まで病棟で一日中何もしなかった進吾くんが夢中で絵を書く様子をみて考えを改めてくれたみたいだ。ご両親にとっても進吾くんにとっても絵はただの通過点に過ぎないってことを散々言われたけどね」

「そっか」

 あいづちを打ったあと、いろいろ言い出そうになりながら私は言葉を飲み込んだ。

 これからが悠壱にとっては大変だ。進吾くんのお母さんが言った通り、これからあの絵は見せ物になる。悠壱はあの絵を商売道具として仕上げなければならない。美術館に並ぶ他の絵と同様に、本人たちが触れて欲しくないところを全面に押し出す必要もある。

「まあ、進吾くんは五年も隔離病棟にいたから……その部屋の写真とかを添えるぐらいだろうけどね」

 今は少し笑顔を見せるようになったという進吾くんだが、笑顔の写真はいらない。あの絵を見ようとする人や評価をする人には、笑顔の写真よりもどうしようもない未来の見えない隔離病棟の写真の方に心引かれるだろうから。

「ただ……」

 悠壱が、意味深な間を持って話し続ける。

「悲しいけれど、絵を書き続けることで進吾くんは……近い将来きっと……」

 そこまで言って口を閉ざす。

 近い将来進吾くんはどうなるのだろう? もしかしたら、悠壱には、進吾くんの死も見えているのだろうか。だがそれを聞く勇気は出なかった。


 悠壱と私の働く美術館は少し特殊な画を扱っていた。画自体も特殊だけれど、それよりも作者自体が特殊だった。

 この美術館を作った館長は幼いころに母親の調理中のミスによる火事で、家族を失っていた。そして家族ばかりか遊びにきていた隣家の子供も巻き込まれ、悲しみとともに世間からの批判も浴びることになった。普段陽気であまり過去を多くは語らない館長だけれど、恐らく想像を遥かに越える壮絶な人生を送ってきたのだろう。

 その後館長は精神に支障をきたし、幼少時代のほとんどを精神病院で過ごすことになった。そこで同じような様々な病状の人たちが描く、個性的な画に触れ、精神病患者を専門に取り扱う美術館を作ったのだった。

 私はなぜここで悠壱が働くことになったのか詳しくは知らないのだが、人の死が見えてしまう悠壱がたどりついてもおかしくはない職場だった。そして人の死への興味を持つ私がたどりついた職場だった。


 悠壱の第一印象は大人しくて優しそうなイメージ。そして第二印象はとにかく精神年齢が幼い。それから第三印象はやっぱり大人しくて優しいだった

もう三十代後半だと言うのに、見た目や話し方がとても若くて大学生ぐらいの年齢に見えた。二十六の私が思わず年下のように扱ってしまうことがあるくらいだ。

悠壱本人も年相応に見られないのに悩んでいて、たびたび自虐的な笑い話にしていた。でもそれが精神病者やその家族を相手にした営業に向いているのかもしれなかった。

 私は美術館の受付と事務を担当するアルバイトとしてやる。少し前まで丸ノ内でOLをしていた私には物足りないところもあったけれど、田舎の雰囲気でゆったりとした空間は、バリバリ働いて疲れた心を癒す場だと考えていた。

 悠壱は新しい画を見つけるために各地の精神病院を回ったり、新しい作家を発掘するために精神病患者に画を教えるための企画をしたりと飛び回っている。館長はテレビや雑誌の取材に追われ、講演で各地を飛び回っていたため、日中私が美術館に一人になることも多かった。様々な気が狂うような個性的な画に囲まれた空間で、一日を過ごすのはなかなか大変で、私のように長く続くアルバイトはいなかったらしく、かわいがってもらった。

 閉鎖された空間で私が悠壱にひかれるのは早く、悠壱に初デートに誘ってもらった時は飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。何より一番喜んだのは館長で、ずっと人を好きになることがなかった悠壱の積極的な行動に驚くとともに、休みを融通つけたりするようになったのだった。

 私にもだれにでも優しいイメージの悠壱が、自分にだけ特別な感情を抱いたのだと知り、優越感に浸ることができた。

 普段はいじられキャラで大人しい悠壱としっかりもので今時の女の子の私、でも夜には立場がガラリと変わった。悠壱はベッドに入ると別人のように積極的で強く、私も別人のように大人しく悠壱の望むがまま身を任した。

 そんな関係性が心地よかった。


          4


 アウトレットモールは平日のお昼ということもあってか、若いお母さん同士と小さな子供という組合せが非常に多かった。悠壱は事あるごとに、なぜか小さな子供に絡まれ、いちいち悠壱も期待に応えてテレビで流行りのお笑い芸人のギャグを披露してみせたりするからデートらしいデートではなくなってしまう。

「本当に悠壱さんって子供にすかれるんだね」

 あまり構ってもらえなくて、皮肉たっぷりに言ったのに悠壱は気付かないようだ。

「もう本当にまいったよ〜、休みの日も子供の相手なんて〜」と全くまいったようすもなく言って退ける。

「人気ものは大変ですね!」

 わかりやすくすねてみせると、さすがに悠壱も気付いたようだった。

「ごめんごめん、那奈ちゃん怒らないでよ〜。ほら前から欲しいって言っていた財布とあとバッグも買ってあげるからさ」

 顔をのぞき込むようにいって機嫌をとってくる。けれど私の嫌みはとまらない。

「そうやってすぐお金で解決しようとする」

「そんな〜違うでしょ。前から約束していたじゃないかぁ。それにお金の使い道なんて僕にはないんだし」

 そうなのだ。悠壱はものにはあまり執着心がない。食にもなくて、私がレストランなどを見つけておかずに悠壱に任せてしまうと、牛丼屋などですまされてしまうことになる。

「あるとしたら私への身体への執着くらいか」

 私がボソッと言うと、悠壱はいやらしい顔でニヤリと笑って歩きながら人前だというのに、私の尻を軽くなでた。

「ちょっと悠壱さん!」 

 怒ってみせるが本当は嬉しい。やっとデートらしくなってきた。それに悠壱も普通の男だと実感する。

 焦って怒って、『小さな子供を相手するのと、私のデートの相手、どっちが大事なのよ』とか意味不明なことを叫ばなくて良かったと。

 それから私が前から欲しかった好きなブランドのバッグと財布と服を買った後、悠壱の服を品定めして大量に購入した。自分の意思とは無関係に着せ替え人形状態にされていた悠壱はだいぶお疲れのようだった。

 やはり主婦が多いのか十五時を過ぎると途端に人が減ってくってくる。おご昼ごろは座るところもなかったフードコートで遅い昼食を取りながら、今日の成果を再確認する。

「助かったよ。明日これ着ていくね」

「ちょっとそれ春物だよ? まだ早いよ」 

 悠壱が気に入ったのは普段の仕事着である薄茶のジャケットの下に着るために購入した、水色のストライプのシャツとおそろいのブルーのネクタイ。ワンポイントで入ったイルカの刺繍がかわいらしい。

「大丈夫だよ、せっかくだし。ほら季節の変わり目にいち早く衣替えするのって、なんだかおしゃれな人って感じがするんでしょ? 那奈ちゃんもあのワンピース着てきなよ」

「花柄の? あれもしかしたら着ないかもしれない」

 悠壱が気に入ったワンピースは花柄のピンクのワンピースで、黒や茶の服を好む私にとっては結構な冒険心のいるものだった。悠壱はこんないわゆる女の子趣味なものを、私に着せたいらしい。

「いいよ、似合うと思うよ。ほら那奈ちゃん普段おてんばだから、女の子っぽい服きたら面白いと思うんだけどね」

 悠壱はそういうことを本気で嫌味なくさらっといって退ける。でも館長や悠壱本人に言わせると、こういうことを言うのは私だけのようなのだ。興味の無い女性には意外と冷たいらしい。

「なんか、今すぐ見たくなっちゃったなあ」

 悠壱が目を細めて言った。あまりすることのない珍しい表情だ。

 確かにここで着なきゃ、次いつ着られるのかもわからなかった。それから悠壱に隠れて吸っている煙草を吸う絶好のチャンスでもある。

 今日一日べったりと一緒に居たから、そんな時間はなかったのだ。

「食べ物やさんの近くのトイレだとちょっと嫌だから、少し離れた所にいってくる

ね」

 煙草を吸う分、遅くなる言い訳も忘れずにつける。

「大丈夫。時間はまだあるから」

 何も知らないはずの悠壱は、ゆったりと手を振っていた。

 ゆっくりと二本の煙草を吸い、ついていた値札をなんとか剥がしてから、花柄のワ

ンピースに着替えた。

――ああ、やっぱりだ。

 思わずため息が漏れる。そうなのだ。よくやってしまうのだ、昔から。

 アウトレットモールであったり、旅行先でテンションが上がっていたりすると、普段着ないような服を勢いで買ってしまうことが度々起こる。周りの服も派手だったりするから、それに気がつかなかったりするのだ。

 最初に思った通り、日常生活では少し派手な気がした。

 それでも手持ちの地味な色のカーディガンを重ね、買ったばかりのシュシュで髪をまとめると、幾分かマシになった。

 もっともそれは私の美的感覚であるので、彼氏の悠壱からしたらいつもよりもかわいらしく見えるかもしれない。

 元いた席に悠壱は居なかった。当然かもしれない、かなり待たせてしまっていたからだ。電話をしようと携帯に手を伸ばした時に、「那奈ちゃん」と声をかけられる。振り向くと、両手に二人分の荷物を持った悠壱がいた。

 ゆっくりと私の全身を見回すと「うん、いいねえ」と言って微笑む。私はそれで大満足だった。

 幸せなごく普通のカップルのデートだった。だが、突如悠壱が険しい顔になる。視線は私の後ろにある時計にあった。時間がきたのだ。

「那奈ちゃん、いこうか」

 そう促されてコートを羽織りフードコートの外に出る。帰る時間がきたのではない。今日のメインイベントが始まる時間なのだ。

 外は大きな湖沿いに公園になっていて、母親の買物が終わるのを待ち遊ぶ子供たちや、湖を眺められるよう設置されたベンチにたたずむカップルの姿が見える。

 その後ろを通り抜け、湖際に競り出すように作られたアウトレットモールよりも遥かに高い駐車場の建物の近くに向かう。

「寒いけど、ちょっとだけ我慢してね」

 腰かけるように促されたのは、駐車場脇の湖のすぐ近く木の生い茂る中に設置された、木の切り株に見立てたベンチだった。

 悠壱の頭に見える映像はけしてきれいな情報ではないという。二週間前、悠壱がある駅である親子を見かけた時、湖際にある大きな駐車場から湖に車ごと飛び出る映像が見えたのだという。頭に浮かぶ不鮮明な映像から探し出したのがここのアウトレットモールだった。日付と時刻は海に沈んでゆく車の中の表示でわかっていた。私も手伝いインターネットの情報から、ここではないかと推測したのだった。

 二人の間に沈黙が訪れ始めた。言葉はいらない甘い雰囲気というのではない。緊張からくる沈黙だ。悠壱はきっと祈っている。無事に頭に浮かんだ映像通りのことが起きてくれることを。もし何も起きなければ私をガッカリさせてしまうからだ。

 何かが起きるまで、終わる事のない沈黙だった。私は、もしもの時のために、なかなかあきらめないであろう悠壱に、駆ける言葉を考え始めた。

 その時だった。

 まるですぐ近くで花火が打ち上げられたような轟音が聞こえたかと思うと、二人の目の前を白のワンボックスカーが湖に飛び込んで行くのが見えた。悠壱が興奮しながら私の肩をたたき、立ち上がる。

 湖側に身を乗り出して少し首をひねって振り替えるように駐車場の側面をみると、駐車場の三階の壁が綺麗な車形の穴をぽっかりあけている。その向こうに今その上から降りてきたらしい車が見えた。

 再び視線を車が落ちた湖に戻す。水面に車は見えなかったが、落ちたところより少し離れたところから煙が上がっていて、車の大体の位置は把握できた。息を飲む私の肩を悠壱が強く抱いていた。

 轟音に気付いた人たちが、何事かとアウトレットモールから続々出てくる。湖にかなり近づかないと駐車場にポッカリ空いた穴には気付かない。皆状況を飲み込めてないようだった。

 車が沈んでしばらく経ってから、水面上でもがく髪の長い女性が現れた。岸がどちらかわからないのだろうか、手をバタバタさせながら同じところをグルグル回っている。二人の背後から悲鳴と「人だ!」という叫び声が聞こえた。私の横をガタイのよい青年が走り抜け果敢にも湖に飛び込んでいった。

 いつの間にか二人の周りには人だかりができている。耳のずっと遠くで消防車のサイレンが聞こえている。

 女性は必死でもがきながら分厚いコートを脱ごうとするような仕草を見せた。確かにあれでは、沈んでしまう。顔は青白く何かを吐き出しているようだった。水でも大量に飲んでしまったのだろうか。

 青年はまだたどりついていない。私の足元に彼が飛び込む前に脱いだジャケットが捨ててあるのに気付く。私は早く彼があの女性のもとにたどりついてほしいような、ほしくないような複雑な気持ちにかられていた。

 あの女性の苦しみや痛みはフェイクのものではない。今現実に今リアルタイムで起きていることなのだ。動物番組で子供の餓えを前にカモシカをかるライオンを応援するかたわら、食いちぎられ暴れるカモシカへの同情も同時に抱くような複雑な胸中だった。

 今にも沈んでしまいそうな女性にやっと勇敢な青年がたどりつくと、一安心といった感嘆の声が周りから聞こえた。でもこれで安心なわけではない。おぼれている人は状況が飲み込めず暴れてしまい、救助者でも細心の注意を払わないと巻き添えをくってしまうと聞く。湖に顔を乗り出した年配の男性が叫ぶ。「じっとしていなさい、今彼が助けてくれる」と。

 けれどそんな心配はいらなかった。女性は異様なほどおとなしく、救助にきた青年に身を任せていた。青年が女性の肩を抱え、少しでも身軽にしようとコートを脱がせた時――水面いっぱいに血が拡がっていくのが見えた。湖の岸沿いに悲鳴がこだました。


 今二人はフードコート内に戻り、無料で配られたホットコーヒーを飲みながら駐車場が再開するのを待っている。砂糖とクリームを二つずつ入れても、吐きそうになってコーヒーは喉を通らなかった。

 結局救急隊員がついたころには、女性は身体の力を失いぐったりしていて青年は前に進めず、なんとか女性の身体を沈まないように抱えているだけだった。やっと岸に上げたときには、だれの目にも明らかにもう助からないのはわかる姿だった。普通の溺死であれば水を大量に飲みお腹が膨れていると聞く。でも女性のお腹は膨れているというよりも、真っ赤でへこんでいて何も中に入っていないようにすら見えた。そして救急車は心なしか、きた時よりも控えめな音もだしゆっくりと去っていた。

 その後入れ替わりにパトカーや消防車が岸を埋めつくし、カメラを抱えたマスコミが乗り込んできて一時期騒然となった。

“杉並No.**-**さん、お車の準備ができました。モール西出口の案内カウンターまでおこしください”

 待ち望んでいたアナウンスが聞こえる。

「いこうか」悠壱は小さな声でいうと私の荷物を持ち、立ち上がった。

「うん」私が声にならない声で答えると「大丈夫?」と優しく声をかけ腰を抱いて足元のおぼつかない私を助けてくれる。事故から二時間がたっていた。未だ湖に沈んだ車の救出作業はほとんど進んでいない。大勢の人でごった返す中で私は思う。

 この中の人のうち、いったいどれだけの人があの車とともに沈んだ男の子を知っているのだろうか、と。

 帰ったら悠壱とベッドに入る前に、今日と明日のニュース番組を録画予約しておこう、と。


 私たちは連れ添って様々な人の死を見てきていた。

 けれど毎回うまく行くわけではない。悠壱の能力は、万全なものとはいえなかった。

 例えば悠壱が死を予知した人物が自殺すんでの所で思いとどまったり、事故に合う予定の道路に出る直前に鳴った携帯電話に出て立ち止まったりすると、もうどうしようもなくなった。

 どこかで待ち伏せをしていたとしても、結局何も起きないことがある。けれどけして悠壱からはその場を動こうとはしない。

 だから私がゆっくり耳元で囁くのだ。「今日は、ありがとう」と、でも「もう帰ろうと」と。

 そう言ってからやっと悠壱は小さな声で私を見ようともせず「ごめん」とだけつぶやいて、やっとその場から離れた。

 きっと悠壱のプライドに関わる部分なのだ、と私は思う。だから変な慰めの言葉もかけられない。二人のどちらかが悪いわけでもないのに、なんて切ない気持ちになるのだろう。

 二人が普通のごく普通のカップルだったらと思うが、それは悠壱も私も絶対に言葉にしない。

 いや一度だけ私が何も起きなかった帰り際の気まずい空気の中で、伝えたことがある。「私は悠壱さんが死体を見える能力を失っても好きだよ」と。

 でも悠壱は認めなかった。「那奈ちゃん嘘は言わないでよ」と悲しそうな顔をした。「那奈ちゃんは、そんな僕だったら好きになってないよ」って。

『そんなことはないよ。だって私は悠壱さんの能力を知る前に好きになったし、知る前に一年も付き合ったじゃない、だから関係ないよ』

 そう伝えたかったが言葉にならなかった。

 私の中には、少しずつ更なる欲望が湧き出てきていた。

 悠壱が見せてくれる死は大抵が車の事故か、飛び込みや飛び降り自殺、首吊り自殺だ。いつしか、もっともっと望んでいる自分がいるのは当然な気がした。

 決して悠壱に伝えることはなかったけれど、きっと気付かれていただろう。


          5


 私が初めて人の死に直面したのは、三歳のころだ。

 暑い夏の日、私は祖母に手を引かれ、近くの公民館に向かった。

 普段イベントなどが行われている大ルームは、簡易上映場となっており、たくさんの子供たちが地べたに座っていた。その多くが小学生で、私ほど小さな子は居なかったように思う。

 まもなく、アニメが放送され始めた。庭の広い田舎の一軒屋が写し出される。主人公は会場内にいる年齢に合わせてなのか、小学生ぐらいの男の子だった。

 のどかな風景の中に突如としてサイレンが鳴り響き、飛行機が襲来し、逃げ回る人々に爆弾を落としていった。焼け焦げ、バラバラになり、すごい形相で苦しんで死んで行く。家族を失い泣き叫ぶ人々の中を、またサイレンが響き渡る。

 そしてある日、空が大きく光り、一瞬にして全てが大きく変わった。

 原爆だった。

 跡形もなく壊れた建物の間を、破れた服を着て、ただれた皮膚を吊り下げながら両手を前にだし、水を求めて歩く人々の群れ。

 主人公の男の子は死体で真っ黒に染まった川に入り、水を飲む。はぐれた母親と乳飲み子の妹を探して、道端に溢れた死体をひとつひとつ確認していく。そして死んだ母親の乳を吸う妹を見つけるのだ。

 祖母が幼き日の私にこの原爆のアニメを見せた本当の意図はなんだろう。恐らくは戦争の悲惨さや、命の尊さなどを伝えたかったのだろう。

 けれど幼い私には、それは無理だった。あまりにも早すぎた。現実とアニメ、今と昔、それらが全てごっちゃになった。

 しばらくの間、私は飛行機が頭上を通るたびに震え頭を抱えて泣いていた。

 まだ物心ついてすぐの、まだ遠い親戚すら亡くしたことのない、まだサンタを信じていた幼い私の心に強烈な傷をつけたのだ。

 

 例えば異性ではなく同性を愛する人がいる。例えば己を傷付けてしまう人がいる。例えば自分に暴力を振るう相手と別れられない人がいる。例えば自分で食事の量を調節できずに太り続けてしまう人がいる。それらは私には理解し難い事だけれど、当時者たちはきっと悩み苦しんでいるのだろう。理解してくれる人を求めているはずだ。

 だから私も誰かに理解を求めたい。人の死に直面することでしか性的興奮を得られないこの身体を満たして欲しい。 


          6


「もう、食べられないかも」

 私が食べ掛けの幕の内弁当を差し出すと、悠壱は困った顔をした。

「もうちょっとがんばってよ、那奈ちゃんやせすぎだよ」

 そう言いながらも受け取ってくれる。

「悠壱さんこそ、アバラ見えているじゃん、私もっとガタイのいい人が好きだな」

「これでも最近ジムに通ってるんだけどねぇ」と頭をかく。ガタイの悠壱など想像できないが、それにしてもやせすぎた。

「僕だって、もうちょっとポッチャリしている方が好きなのに」

「無理、絶対無理」

「そんなぁ」

 悠壱が私にもう少し太って欲しいのはわかっている。いつも裸で抱き合うたび、悠壱がボソッと「もうちょっと太ったら抱き心地よくなるのに」というからだ。

でもそれが本心なのか、極端にやせている私を気づかってのものなのかはわからない。

 私は少し、太った人に偏見を持っていた。悠壱の前で言葉にはけしてしないけれど。だって太るって自分で食べる量を制御できない人ってことだ。これ以上食べたら太るとか、少し食べ過ぎたらしばらく量を減らすとかすればいいだけなのに、それが出来ない人ってことだ。

 でも私にも制御できない欲望がある。それは人の死を見ることでしか、性的な興奮が得られないことである。だからすべてを満たしてくれる悠壱は、必要不可欠な存在だった。

 私が残した幕の内弁当を、半ば無理矢理口に突っ込む悠壱に話しかける。

「人、全然いないね」

「平日の朝のグリーンなんてこんなものだよ」

 よく知ってるだろ、と言った感じで悠壱が答えた。

 今日は悠壱の大阪への出張への同行、と名目の小旅行だ。いつも大阪へ出張でいくたびにどこも観光せずに帰ってくる悠壱に、二人遊んでこいと休暇をくれたのだ。今日は大阪についたら仕事をすました後、テーマパークで一日遊び、京都に移動して明日は観光だ。仕事といっても前からずっと絵を提供してくれている大阪の精神病棟に立ち寄り、状況を聞いて患者とコミュニケーションをとるだけ。私はその間、喫茶店でコーヒーを飲みながらタバコでも吸って待っていればいい。


 その日の夜、楽しかったテーマパークを後にし京都駅へと向かう。

 宿で一段落していると悠壱が言った「今日は寝かせないよ」と。

 似合わないキザな台詞に思わず吹き出してしまう。でもあくまでも悠壱は真剣だった。その様子に私は勘づく。こんな楽しい一日だったというのに、まだサプライズを用意してくれているというのか。

 二人でタクシーに乗り込むと、あるホテルの名前を告げる。そのホテルで何か起きるのかと思ったが、違った。

 降りてすぐ近くの来週から始まるという夜間ライトアップの作業をしている寺に近づく。

 見るとはるか高いところまでクレーン車が伸び、作業をしている。

「ちょっと待っていて」

 悠壱はそう言い残すと薄暗い中に私を一人にする。周りにはだれもいなくて、心細い。

 十数分してやっと戻ってきた悠壱は自信に満ち溢れていた。不安がる私に対して、「最高のショーを特等席で見せてあげる」と言ってのけたのだから。

 その時、男の人の甲高い悲鳴が聞こえた。悠壱が私の頭を抱え少し移動ししゃがませる。次の瞬間耳をつんざくような轟音が響き、目の前にはクレーン車の先が倒れていたのだった。

 そしてそこにはしっかりとヒモでくくられたさっきまで上で作業をしていた作業員の身体があった。全身を強くうち血だらけで、激しく衝撃している。口から血の混じる泡がカニのようにブクブクと溢れ、潰れた目から目玉が飛び出している。繋がれた部分の腹から上半身が雑巾のように絞られている。手をバタバタするのは衝撃からくるものなのか、意識があって助けを求めているものなのかわからなかった。

「いこうか」悠壱がいつものように言うが、私はそこから動けなかった。

「いこうか」悠壱が焦ったように言うが、私の身体は動かない。悠壱のズボンからはみ出したドライバーが見えた。

 悠壱が私の身体を抱えて引きずるように動き出す。

「大丈夫ですか」事故現場に集まってきた作業員の一人がこっちに向かってくる。私は必死にはみ出したドライバーを悠壱に教えようとするが、声が出てこない。

「大丈夫です」なお、私の身体を引きずる悠壱のズボンから「コトン」と音がし、闇夜に照らされたライトの中にドライバーが現になる。

 作業員の目の色が変わったのがわかった。


          7


 六月の梅雨が中休みに入ったころ、ある幼稚園のバスがピクニックに行く途中にカーブを曲がりきれず転倒した。中に乗っていた園児の一人と引率者の先生が死亡し、運転手や園児十一人が重軽傷を負う大惨事となった。

 事故の原因は、まだ第二種免許を取って何年もたっていなかった運転手が、普段の幼稚園バスとは違う大型のバスに慣れていなかったことと、前日まで降っていた雨で地面が滑りやすかったためといわれた。死んだ女児はちょうど窓をあけて外を眺めていたため、窓から放り出されて身体を強く打って即死した。引率の先生は立って児童に話しかけていたため転倒した瞬間頭を強く打ち、病院に搬送される途中で死亡した。

 ひっきりなしに鳴り続ける電話の対応をしながら、母は青ざめた顔でそのニュースを見ていた。ニュースでは「幼稚園児が」「大型バス」がというようなことを繰り返し伝えていた、画面を見る必要はなかった。気付くと目の前が真っ白になり、座っていたイスから転げ落ちながら母の悲鳴を聞いた。

 それは悠壱がまだ五歳のころだ。いつものように家の前で幼稚園のバスが到着するのを母と手を繋いで待っていた。

 その日は新しく出来た菖蒲園までピクニックに行くことになっていて、バスを待つ間悠壱はいつもよりもはしゃいでいたはずだ。前の日まで雨が降っていたから、地面にはまだ水溜りが残っていて、その中に何度もジャンプして遊び母に怒られたのを記憶している。

 菖蒲の周りは綺麗な川が流れていて、虫や魚がたくさんとれるらしい。この日のために父に買ってもらった虫網と虫かごを左手にもって、お弁当と水筒を入れたリュックを背負い、母と繋いだ右手を振りながら笑っていた。

 けれどその楽しい気分は幼稚園のバスが家についた途端に吹き飛んだ。いつものように先生が降りてきて笑顔で「おはようございます」とあいさつしてくれるが、悠壱はそれに返せなかった。そして突然訪れた映像とともに恐怖で全身がこわばってその場から動けなくなってしまったのだった。初めて悪夢を見たときのような、現実との区別がつかず意味もわからず泣き叫ぶような説明できないような瞬間だった。

 母と先生は不思議な顔をして、半場無理やり悠壱を乗せようとした。

 悠壱はバスに押し込まれながら、なぜだかミキちゃんという友達が目に入った。普段特に仲が良いわけでもなかったミキちゃんの手を引いて閉まりかけたドアから降りようとしていた。

 知らないうちに悠壱はすごい顔で手を引っ張っていたらしい 。ミキちゃんが叫び悠壱は引き離され、母が怒った顔で尋ねてきた。

 「どうしたの?」と聞かれ、「行かない」とハッキリ言った。その声に力があったらしく、ただのワガママではないと思い理由を聞いてきた。でも悠壱には、この初めて体験した恐ろしい映像を表現する方法がわからなかった。

 その後はあまりよく覚えていない。後で聞いた話では、一度バスは幼稚園に向かい、直接家族が送り迎えをしている園児を乗せ、大型のバスに乗り換えていくということだった。

 そこで母は「あとで私が幼稚園まで車で送っていくから先に言ってください」と話したらしい。その間悠壱はなぜか 先生のスカートを掴みしばらくの間離さなかったという。

 母はあんなに楽しみにしていた悠壱の変貌振りに驚いていたし、初めてのことで不安そうだった。悠壱はとりあえず「行かない」と何度もいうしかなくて、母の手を握り他には何も言わなかった。母は「幼稚園からバスが出るのには、まだ時間があるからまだ十分間に合うこと」を説明していたけれど、結局は折れた。

「 今度家族で行こうね」そう話して、幼稚園に電話を入れた。園長先生は「環境が違うから悠壱君も不安だったのだろう」と母を慰めていた。そして予定通りの時刻にバスは菖蒲園に向かい幼稚園を出発したという。

 その後、悠壱は寝てしまった。夕方ころけたたましく鳴り続ける電話の音で目を覚ます。青ざめた顔をした母と繰り返しテレビのニュースから聞こえる単語から、悠壱はすべてを理解した。

 途端に強いめまいに襲われた。倒れる悠壱を母は悲鳴を上げながら抱きかかえた。

 次に記憶にあるのは、病院の中でもない、家のなかでもない。忙しく引っ越し作業をしている時だ。新しいマンションに初めて行く車の中で、親子3人無言だった。

その時ぐらいから母は悠壱のことを今までとは違った目で見るようになった気がする。悠壱が悪かったのだろうか?あのままおとなしくバスに乗って事故に巻き込まれていればよかったのだろうか?そうすれば母はこんな目で悠壱をみたりしないのだろうか?

 悠壱はそれからずっと母の機嫌を伺いながら過ごしていたが、母の悠壱を見る目はかわらなかった。

 そして小学六年の夜に母を殺した。目を徹底的に潰した。もう二度とこんな目で見られたくないからだ。

 だれかこの世に悠壱を理解してくれる人がいるのだろうか? 必要だと思ってくれる人に出会えるのだろうか? もし出会えたならば、すべてを捧げるつもりだった。

 その後更正施設で過ごし、成人してからは精神病院に入院した。就職しながらも続かず転職を繰り返しそのたびに精神病院に戻り続けた。そこで館長とであった。悠壱はすでに三十歳を越えていた。

 館長は悠壱に美術館で働くことをすすめてくれた。精神病患者が描く絵を扱う美術館は、悠壱にはとても合う職場だった。

 そしてある日那奈がやってきた。悠壱は一目で彼女に惚れた。彼女の心の奥底と炎に包まれて死に行く未来が見えたからだ。

 館長も彼女が普通の女性と少し違っているのはわかっていたはずだ。じゃなきゃこんな美術館で働くはずがない。続くはずかない。

 館長は悠壱の過去を黙ってくれることを約束してくれた。悠壱は那名の欲求を満たすために、この能力を授かったのだと思っている。


          8


「那奈ちゃんに、いいもの見せてあげるよ」

 そういって隆さんは大声で笑った。

 付き合って、三年。私はこの人に絶大な信頼を寄せていた。

 一度だって肩透かしをくらうことはなかったのだ。不思議な能力になど頼ることなく、確実に私を興奮に導いてくれた。

「楽しみにしています」

 彼が好む、胸の大きく開いたセクシーなウェディングドレスをみにまとい、私はおしとやかに微笑み返す。

 何を見せてくれるのだろうか。

 この三年間の間に、私たち二人は様々な人の死を見てきた。

 そしてそれらの人の死は、隆さんの思うがままだった。

 一番興奮したのは、生きた人の首に針金を巻付け、先に付けた重りをマンションの階下に落とした時だ。屋上に残った身体に付いた両腕が、まるで自らの頭を探す様に衝撃しながら一緒に落ちていったのを思いだす。あれは、昨年の私の誕生日だった。

 毎年迎える誕生日と違って、結婚式は一度だけ。

 期待しても良いだろうか。

 隆さんは仕事柄、人の深刻な悩みの相談を受けることが多々あった。いつ自殺してもおかしくないと思えるような人からの。

 自殺と断定されれば、捜査は終わる。だから事故にみせかけるより、ずっと楽なのだと、隆さんは言う。そのため念入りに準備をして、危ない橋は渡らない。時折、趣味のように行う放火以外は。

 私は久し振りに思いだした。

 京都のお寺のライトアップ工事をしていたクレーン車に細工を施し、捕まったあの人のことを。

 あの人は……悠壱は三年前のあの夜、過去に工事現場で働いた知識をいかし、クレーン車に細工をしたらしい。私の目の前に倒れるようにと。それでも捜査が進めば全てが明らかになる。

 悠壱は有罪にはならなかった。取り調べの間中『死のプレゼントをしようとした』『僕には人の死が見える』『あいつも死ぬ運命だった』などと繰り返し、精神疾患を指摘され、美術館で働く前にいた精神病院に逆戻りした。

 そして悠壱の幼いころの親殺人も明らかになった。悠壱は小学六年生のころに寝ている母親の両目を潰したあと、何も見えず騒ぐ母親を二階の寝室からつきとばし、上からブラウン菅テレビを落として殺害したとのことだった。

 私が産まれる前の話だ。それから二十歳まで更正施設で過ごし、社会に出るもその人生のほとんどを精神病院で過ごしていたという。

 悠壱本人には聞けていないが、悠壱に死を感知する力があったのは事実だと思う。どう考えても、私が見せてもらった数々の死が、すべて悠壱が直接関与しているとは思えなかったからだ。

 けれどいつからか悠壱は見える数の死と私の欲求に答えようとする気持ちとが合わなくなっていったのだろうか。そして自らの手をつかったのだ。

――いつからだろう? 私はひとつひとつ思いだす。アナウンサーの飛び降り自殺、アウトレットモールでの車の事故、樹海での服毒自殺、電車への飛び降り自殺。あと精神病院で悠壱が絵を教えていた進吾くんが、絵の具を大量に飲んで死亡した事故。どれが本来の死で、どれが悠壱による殺人なのか。 

 頻繁に悠壱に会いにいっていた隆さんに聞くところによると、私にいつも会いたがっているという。でも三年の間、私は一度だって会いにいくことはなかった。

「館長」

 その時、聞き慣れた声が、聞き慣れた名前を呼んだ。

「よく来たね」

 隆さんは、そう言うとスタッフしかいない部屋に招き入れる。

「那奈ちゃん、ひさしぶり。ウェディングドレス……綺麗だよ」

 三年ぶりに見た悠壱の顔は、いましがた思いだしていたあのころと何ら変わっていなかった。少しダサい服も、困った様に笑うあの笑顔も。

 だから私も困った様な顔で笑い返す。

「久しぶりだね」と。

 悠壱は、ポケットから一つの瓶を取り出した。その手は、酷く震えていた。

 私は、この光景に覚えがあった。

 いつだったか、平日の丸ノ内のカフェで聞いた『あいつ』の話によく似ていた。その時の悠壱によると、『あいつ』は鏡がたくさんある控室のような所で、誰かに見せつけるように服毒自殺を図ると言っていた。

 あの時見えた映像は、自分自身のことだったのだろうか。悠壱は、数年先の自分の死まで見えていたのか。いや、そんなはずはない。

 私には、悠壱の持つ瓶にも見覚えがあった。一週間前、隆さんが私に『良いものを手に入れた』と見せてくれたものだった。

 悠壱の瓶を持つ手がさらに震え、思い切ったように口元に運んだ。隆さんが、止めるなというように私の肩をしっかり掴んだ。 

 でもそんな心配など無用だった。

 喉に奥まで手を突っ込み苦しみもがく悠壱を見ながら、私は人生で一番の興奮を覚えるであろう隆さんとの結婚初夜を思っているのだから。


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[良い点] リアルな心情描写がgood! [一言] 発想がすごく面白いと思います!
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