廿 雨音の如
晴明が術を唱えるのをやめて、一刻と半分。
外は暗くなっており、月が顔を出している。その空には雲一つない。
「晴明様、夕餉となります」
「あぁ、今行くよ……それにしたって大きな術じゃないか、これは」
「術……ですか」
晴明は乾いた笑みを漏らした。座っている彼の正面に、炎雷は持ってきた漆塗りの美しい食事膳をおく。その上には所狭しと、金で縁どられた赤の漆器に上品に京野菜が並んでいた。上等な器、上等の食材、それら全て晴明の陰陽術による功績から生まれる物たちである。
その晴明に疲れた表情させるとは、術者の仕業であれば危機は都だけのものではない。日の本だ。
炎雷は、静かに晴明の脇に腰を下ろす。
「晴明様は術者の仕業だとお考えですか」
「仏のなさることであれば……私に出来ることはないだろう? せめて術者であれば、今日のように食い止めることはできる」
「術者――――私には、今回そんな気がいたしません」
「ほぅ、じゃあ天の罰か、それとも試練か」
「違います。天候を思いのままに長時間操るなど人間の成し得る技ではありません。かと言って、晴明様が対等に術を飛ばし合えるもの――――――――私の考えでは妖でございます」
晴明は玄米を口にしながら、うんうんと耳を傾ける。
「……それだけじゃまだ足りない、もっと根拠を出して私を満足させなよ」
「はい、それからもし術者だった場合です。術者――――人間の陰陽道に長けた者であれば、都随一と呼ばれる晴明様を知るわけがございません。それと、帝が晴明様をたいそう気に入っておられるのも周囲は知っております。もしその術者が反乱を起こしたとなれば、一番に駆り出されるのは貴方様。貴方様以上の術者を、この炎雷、北から南までもを巡っても聞いたことはありません。知っていて反乱を起こすのはあまりにも無謀かと」
炎雷が、言葉を噛み締めるように目を伏せながら言った。晴明は静かに箸を置くと、炎雷の座る方へ向き直って瞳を鋭くし、声を発する。
「――――安倍炎雷。安倍晴明の弟子として、妖しき力を持つ万物、全て調べてきなさい」
炎雷が頭を垂らす。晴明は、一息ついて言った。
「そして、都――――帝に害をなすものを、即刻滅しなさい」
「――――御意に」
女の口端は、静かに上がっていた。
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「……と、まぁ考えることは一緒なのね」
「なるほど、あんだけかっこよく決まったのに晴明さんも同じようなことしてたってわけか」
某日、未の刻。炎雷は、晴明の屋敷から出た。
すると、何の因果か、向かいの道満の屋敷からも氷嵐が出てきた。お互い、少し顔をしかめ合ったが、なにも師匠のごとく嫌いあっているわけでもないので、出かける理由を話していた。
「蘆屋の旦那は、お勤めちゃんとやるの?」
「……まぁ、それなりに。お前のとこは」
「……書類以外なら、まぁ、それなりに」
「どこも同じようなもんだな」
はぁ、と二人共重い空気を腹から出す。日頃の鬱憤がその空気に混じっているようにも錯覚し、ふ、と目の前の男を炎雷は見た。赤い瞳の瞳孔を少し広げて、穴があくほど見つめた。
こうしている間にも、頭上のお天道様はぎらぎら地面を照りつけて、雨の一滴も地上には分けてくれないようである。雨が降らないせいで、作物以外にも影響が出始めていた。都の道路も、いくら整備されているといったとはしても所詮は土が固められただけ。日照り続きで乾いた風が地面を撫でれば砂埃が絶えない。
「あんま見んなよ……俺になんか付いてんのか?」
「蘆屋の弟子、今回ばかりは手を組むべきだろうな」
「……お互いの保護者が許さないだろ」
「――――――――――――秘密にしようか」
にやり、と笑った彼女の顔には、明らかに意識された色気が乗っていた。嫌味でもないが、素直な心でなくて、どこか魔力的。そしてなにより野性的で、どこらの姫や遊女といった女とは違う、と氷嵐は悟った。秘密。都合のいい言葉だと思う。晴明に忠誠を誓う彼女が、小さな反逆を起こすわけである。
優越感が、ないわけでも、ない。
「さぁ、雨を降らしに参りましょう」
「雨降れば 井堰を越ゆる 水分けて 安く諸
下り立ち植ゑし 群苗 その稲よ 真穂に栄えぬ」
すべての文字を語る声は透き通る、雨音の如し。
『雨降れば 井堰を越ゆる 水分けて 安く諸
下り立ち植ゑし 群苗 その稲よ 真穂に栄えぬ』
本居宣長 作/雨降歌
四十七音のいろは唄となっている和歌です。




