拾壱 壁の御話
近衞基実の屋敷では、夜な夜な女の声が響く。主人の基実が何事かと寝室で目が覚め、あたりを見回すと、あるのだ。
――――――――背後の壁から伸びる、細く、真っ白な女の手が。
蠢きながら、確かに彼を手招きするのだ。おいで、おいで、と小さな声で呼びながら、腕はだんだんと彼に迫り首に手がかかった。ひんやりとした手の温度に血の気が引いて行くのに比例して、こもる力は強まっていく。彼が恐ろしさの余り意識を手放す寸前に、とどめといわんばかりに女が毎度呟く。
――――――――『私のことを愛してくれないなら、死んで』
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「……ところで炎雷さんと言ったね、僕は基実。よろしくね」
「存じております。基実様は都の女性の中でとても人気ですもの」
「そうなのかい? 知らなかったなぁ! でも、炎雷さんみたいに綺麗な人は、男に引っ張りだこだろう?」
「いえ。私など基実様とお話しできているだけで夢のようです」
近衞邸に訪れた晴明・道満師弟は、依頼主の兄である基実から、不可解な事件の話を聞いていた。ところが当の基実は話が終わると、すぐさま炎雷に目を付けたようで口説きにかかった。
近衞基実は、藤原家の四男で近衞家の初代当初という、そのあたりの公家が放っておかない肩書を持ちながら、加えて美男子という、貴族の女性に絶大な人気を誇る男だ。そんな彼は、二十五という齢となりながらも一人も妻をもったことがない。
しかし、それは全く不思議なことではない。
彼は世に言う、女癖の悪い男――――プレイボーイという類の男なのだ。今まで、彼の話術とルックスに何人の女が泣かされたかは数知れず。止まり木が未だに見つからない、自由な雄鳥なのであった。
両親や家臣が心配する中、楽天家な男を代表するような彼は、今日も陰陽師を落としにかかっている。この色男め。
「炎雷さんの、この星のように輝く銀髪……とても美しい」
「あら、私のような者の髪色より基実様の漆黒の髪のほうがお美しいですよ」
うっとりしたように呟く基実を、見事といえるべき軽やかさで避ける炎雷。水面下の戦いが起こっているのは、周囲の人物たちの知れるものではない。寒気がするような台詞を出すのは、普通の陰陽師として育ってきた炎雷は、目の前のプレイボーイと違って辛いものだ。
「……で、その問題の寝室へはいつになったら案内してくれるんだ?」
ぼそり、と氷嵐が低い声を落とす。胡坐をかきながら不機嫌そうに眉をゆがめている。炎雷が(冗談で)褒めたたえた黒髪よりも、幾分か多く艶を含んだ氷嵐の少し長い前髪が、彼の色素の薄い双眸の前で揺れた。炎雷は、野生的に光る氷嵐の目に少々見入ってしまう。
「……そうですね、基実様。問題は早急に私どもが解決させていただきますので、ご案内を」
氷嵐と目線を合わせつつ、炎雷が口の端をつり上げる。綺麗な三日月型をえがく唇は、普段色気のかけらも見せない炎雷の妙な妖艶さを醸し出す。氷嵐は、面喰ったように目を見開くが次の瞬間には、にやりと笑い先ほどとは打って変わって上機嫌に言う。
「基実様、速さでは私どものほうが勝っておりますので、この者たちは必要ございませんよ」
弟子の言いように、師匠二人は顔を見合わせて手で顔を覆う。肩を震わせながら、口元を歪めて、声をそろえて言う。
「「……やってやろーじゃねぇか」」
「では、参りましょうか。基実様」
微笑んだ師弟はやはり似た者同士。




