舟塚十萬神
桜都の西には「内海」と呼ばれる巨大な湖があり、南には内海を源流とする和邇河が流れ、東は葦原の大湿原に面していた。
この大湿原を水田にするための堤防工事は、貯水池の造営と共に、十八世帝の時代から延々と続いていたが、その中でも最大規模のものが堤灘だった。和邇河の増水と南からの進軍を防ぐために、二重の土手が河に沿って築かれている。周囲には水田と河川港湾しかないのだが、牙陀王の住む身毒八幡周辺は、遊閑地として葦草が生い茂り、鴨と鯰しかいないと言われていた。
三千世界に冠たる巨大都市を造営するには、物資の運輸が容易な水上交通を重視しなければならない。かつて大盆地にあった梅都は、防衛には適していたが交通には不便で、都市規模が発展しづらいという問題を抱えていた。桜都はそれを踏まえて「水を動かし、水で守る」都市として栄えたのだった。和邇河は運河としても活用されていて、五つの河川港湾には日々輸送船が停泊していた。
河川港湾から桜都へ行くには、「舟塚十萬神」という巨大な陵墓の前を通らなければならない。一見、山と見間違えるほどの大きさだが、円墳と方墳を組み合わせた形状をしていて、表面には兵士や軍馬を模した埴輪が立ち並んでいる。十八世帝が桜都鎮護のために造営したもので、舟塚十萬神の名の由来は、陵墓を築くための石が不足していることを嘆いた帝が、十万もの神に助力を願ったことにあるらしい。語り巫女によると、十八世帝の祈願は海から巨石を積んだ舟が流れ着くという出来事で成就したというが、その背景には、乱を鎮め、天津ヶ原諸国に帝威を轟かせた十八世帝の絶大な権力を読み取ることができた。
もちろん、身毒八幡に行くにも舟塚を経由しなければならない。
蓮華院の参道から歩いて、もう昼前になっていた。
「身毒八幡に誘き寄せるのはいいとして、牙陀王は納得しているのか?」
半裂の言葉に、僕は肩を竦めた。
「話してもいない」
「可哀想な奴だなぁ」
「構わないさ。摩利のためだと言えば、一も二もなく引き受けるはずだ」
牙陀王の底の浅さを僕は十分理解していたので、そこは心配していなかった。
「やれやれ。あいつの唖然とした顔が目に浮かぶぜ」
宰貫堂半裂は牙陀王に同情する素振りをしながら、実際には口の両端を吊り上げていた。北面武士と寺社野伏は仲が悪く、視線が合えば流血は避けられないと言われるほどだ。牙陀王との仲はそれほど悪くはなかったはずだが、半裂が北面武士に馴染んでいる証拠のような気がした。
堤灘への道を歩いているのは、僕と摩利、そして宰貫堂半裂の三人だ。倶利伽藍門の蠱毒師は、桜都の中では蜜売りとしても親しまれているが、元来、他者の目に入ることを好む性分ではなかった。堤灘までは人目を避けて移動したいと僕に言って、別行動を取っていた。虫姫には好む道があるのだろうと思い、あえて黙認したのだが、それを半裂に笑われてしまった。
「花蜘蛛の奴は、どうも馴染めないな。徒党を組んで敵と当たるってことを知らないのか」
「野伏は基本的に一人を好むからね。仕方ないよ」
「お前は昔から花蜘蛛に優しいな」
「僕は皆に優しいよ。もちろん半裂にもね」
思惑のありそうな視線を向けた半裂に、僕は笑顔を返した。
「けっ、何だそりゃ」
半裂は頬を膨らませて顔を逸らす。牙陀王も底が浅いが、半裂もそれに負けず劣らずだ。摩利は不思議そうに僕と半裂を見ていたが、何かを悟ったのか、楽しそうに手と手を握る。
「おいおい」
「道丸様は半裂と仲が良いんですね」
腰ほどの高さしかない女児に絡まれて、半裂は困惑していた。だが、僕と仲が良いと言われるのは、余程心外だったようだ。巳槌家の長子である僕を、北面武士の子である半裂は何かと競い合う対象として見ていた。今も見方は変わらないのだろうか。
「誰がこんな奴と!」
と、従者にあるまじきことを言う。
僕は微笑んだ。
「良く分かっているじゃないか摩利」
「おい、道丸」
「昔は半裂と良く遊んだんだ。この舟塚に登って、頂上で戦遊びをしたり、相撲を取ったりして。あの時から半裂は負けず嫌いだったけれども、この僕には一度も勝てなくて。ついた綽名が……」
「おい!」
半裂が僕を睨み付ける。
「どうした?」
「俺が昔の『泣き半裂』のままだと思うなよ」
「思ってないよ。北面武士殿」
僕と摩利の微笑みに、半裂は憮然とするしかないようだった。
舟塚は東西五町、南北五町の途方もない大きさの陵墓で、その周囲には堀が巡らされている。道は舟塚を西に迂回しているが、その周囲にも幾つかの陵墓が見えた。河川港湾と桜都を往来する人は百や二百程度のものではなく、それら全てが舟塚と埴輪軍団の偉容に唖然としているかのようだ。外国の国使などに、天津ヶ原諸国の威を示すためでもあるのだろう。
僕と半裂は桜都で生まれ育っているため、舟塚も慣れ親しんだ場所だった。半裂は北烏道から舟で桜都に帰ったので、舟塚を見て戻ってきたという実感を得たという。摩利はというと、桜都の全てが物珍しかったため、舟塚もまた驚くしかないという様子だった。
「なぜ土人形が置かれているのですか?」
「土人形は埴輪と言って、土師院の工人が制作したものだ。震旦国の葬送儀礼を参考にしたためだとか、呪いのためだとか、飾りのためだとか言われているけれども、本当のところは良く分かっていない。夜になると動き出すなんて話もある。それはどうかと思うね」
「六道使でも知らないことがあるのか?」
「世の中は知らないことばかりだよ。なぁ、半裂、摩利の件が片付いたら、僕に北烏道のことを教えて貰えないだろうか。書物を読み通すよりも、話を聴いたほうが正確だと思うんだ」
「ま、まあ俺は構わないが」
「感謝するよ」
書物にあることの真偽を確かめるには、自分で確認するか、他人の話を聴くかのどちらかしかない。天津ヶ原諸国の諸事は、西と南は良く知られているものの、北と東は謎に包まれている部分も多かった。宰貫堂は北面武士として北烏道馬企国に赴任していたわけで、萬州鑑に記載されていないことや、当地での出来事などを知っているに違いない。
そう思い、僕は半裂を仲間にしたことの利を確かめた。
堤灘が近くなると葦草が多くなり、風にも潮の香りが含まれるようになった。堤防が築かれても土が塩を吐き出さない限りは、稲穂を植えることはできない。こうして葦草を生やしたまま遊閑地にしているのは、今のままでは利用できない土地から塩を抜くためでもあるのだ。大湿原は東の彼方まで続き、和邇河のすぐ近くで到着した。
何艘もの舟が見えるけれども、それらが集まる河川港湾とは逆の方向に身毒八幡はある。
「牙陀王はいるのか?」
「昼までは寝てるはずだけど」
僕は肩を竦めたが、その時、名前を呼ぶ声に気付いた。
「道丸様! 道丸様!」
振り向いてみると、見知った女が両手を上げて僕らを追い掛けていた。
あれは東の大市で出会った、華拍子の忽那瀬科菊だ。
科菊は旅姿だったが、一人のようだ。大市が終われば、華拍子らは御伽小屋を畳み、桜都から西へ東へと旅に出るわけだが、単身でというのはありえない。剣を携え、花の精と噂されても、女であることに変わりはないのだから、盗賊らから身を護るために集団を形成する。だから科菊が一人だけで現れたのは、僕の目からでも相当に奇異だった。
僕らの前で立ち止まった科菊は、息を切らしていた。
「あの……科菊?」
「はい、はい。道丸様」
「他の華拍子はどうしたんだ。一人で歩いたりして」
「あ、華拍子辞めました。私には向いていなかったみたい」
笑顔で答える科菊に、僕は正直驚いていいのか呆れるべきか戸惑った。
忽那瀬の貝採女の子が華拍子に憧れ故郷を出たが、その水にも馴染めず脱落したということだろうか。科菊は凛々しい少女だったが、華拍子にとって最も重要な媚才が欠けていたらしく、剣法ばかりという牙陀王の言葉もすぐに思い出された。一人で旅をするか、故郷に帰るか迷っていたときに、偶然僕らを見掛けて呼び止めたようだ。
半裂が露骨に怪しむような視線を向けた。
「何者だ? こいつは」
「忽那瀬科菊。華拍子で牙陀王の友達だよ」
「道丸様の友達でもあります」
科菊は歯を見せて笑った。
確かに淑やかな振る舞いは、科菊に身に付かなかったようだ。花は花園だけでなく、野辺にも咲くものではあるけれども。だが、容貌も体格も魁偉な宰貫堂に怖じ気づきもしないのは、科菊の持つ素質の一つでもあった。北面武士は盗賊と変わりがないと思う者もいるし、弓矢や金棒を携えた大男は避けようとするのが普通だからだ。
半裂の鎧で武装した身体が、科菊が近寄るのを支えきれずに、半歩ほど退いた。昔から半裂は女と相対する術を知らないが、それは今も変わらない様子だった。六道使の役目で旅をなさっているのですか、と科菊が僕に問い掛ける。六道使の家の人間と、北面武士が連れ立っていれば、誰だってそう思うのだろうが、僕は首を横に振った。
正直に話しても困ることはない。
「今から、牙陀王の葦社で戦をする」
「戦をというのは、もしかして昨日のことで何か?」
「そうなんだけれど、科菊のせいじゃないよ。恵御名上人の埃及節を見ようとして、あの裏から入ったあと、ここにいる摩利が大袋に攫われようとしているところに出会してしまったんだ。摩利は良からぬ輩に狙われているようで、守るのもいいけれど面倒だから、葦社で決着をつけることにした」
「さすが野伏を束ねる御方」
科菊は感心したように何度も頷く。
「面白そうですね。正義を守り、悪を叩くのは私も望むところです。ぜひ、手伝わせてください」
「おいおい、戦場に女の出る幕はない」
半裂が口をへの字に曲げて、居丈高に言い放った。小煩い女と思っているのか、半裂は科菊を早く追い払ってしまいたいみたいだ。華拍子などは男の装束を身に纏い、男に媚びを売るだけの存在だと見ているのだ。
僕は科菊が剣法を得意としているとは牙陀王との会話で知っていたけれども、実際にどの程度のものなのか知りたいと考えた。四人で摩利を守るよりも、五人で摩利を守ったほうが良いのは確かだが、果たして科菊の剣法は役に立つのだろうか。
ちょっと半裂で試してみようと案じ、僕は声を上げて笑った。
「敵は一縄筋ではない者ばかり。一緒にいても危ないばかりだよ」
「剣には自信があります」
科菊はそう言い返し、牛角の鞘に収めた剣に手を当てた。摩利の頭を撫でて、巧妙に引き下がると、半裂が大股で前に進み出る。
そして鼻で笑った。
「その細腕で剣には自信があるだと?」
「とても自信があります」
「片腹痛いじゃないか。北面武士の俺を前に、剣には自信があるってよ。華拍子って言うのは、人を笑わせるのも仕事の内なんだな」
「ええ、ええ。もちろん、あなたよりも強いですよ」
「俺よりも強いか、これは傑作」
二人が二人とも笑う。
「ふぅん!」
次の瞬間、宰貫堂半裂の金棒が科菊の顔面めがけて打ち込まれた。軽く捻るというよりも、殺すことを目的とした一撃に、僕は半裂の獣性を甘く見ていたと後悔する間もなかった。
死んだ、と思ったのか摩利が目を逸らす。だが、半裂の金棒は骨肉を粉砕せずに、地面を深く抉った。科菊の身体が一歩の動きでそれを避けたのだ。さらに手に携えた青銅剣で鎧の継ぎ目を狙う。牛角の鞘に収まっていなければ、剣は半裂の身体を刺し貫いていた。右肩に剣先が当たり、半裂は驚きとも痛みともつかない声を漏らす。
一呼吸の間に攻撃が入れ替わり、勝敗は決した。
「とても鋭い一撃でした。私も本気で受けてしまいましたわ」
「ぐぐ……貴様……」
誰の目から見ても宰貫堂半裂が負けたのは明らかだった。
「どうですか? 道丸様」
「がっかりしたよ、半裂」
「煩い。北面武士は女を殴ったりはしねぇんだ」
不機嫌に半裂が呟くが、心なしか力がない。女に一本取られたことが、余程に衝撃だったのだろう。
科菊の剣が、これほど鋭いとは思わなかった。僕も剣については一通りの心得があるが、科菊の剣は天稟に基づいたもののようだ。これならば疋丞などを相手にしても、十二分に働ける。僕は慰めるように半裂の肩を叩くと、科菊のほうを向いた。
「科菊の剣法、確かめさせてもらった」
「そうでしょうね。気付いていました」
試されることには慣れているという表情で、科菊は剣を戻しながら答えた。
「力になってはもらえないだろうか」
「初めから、そのつもりです」
華拍子の作法で僕の右手の薬指を嘗める。これで摩利を守るのは五人になった。僕、牙陀王、花蜘蛛、宰貫堂半裂、忽那瀬科菊。百戦百勝は望むべくもないが、陣容が整ったと感じさせるには十分だった。これならば疋丞が奸計を巡らせても自分たちの戦いを演じることができる。僕は不安にもまさる光明を見付けたような気がした。