野伏館:弐
饕餮とは、西の彼方の震旦国で、千年もの昔に信仰されていた鬼神の名だ。
野伏館を襲撃しようとした痴れ者は、僕と花蜘蛛の二人に睨まれても動じるところがないようだった。それを無知と観るか自信と観るかは、僕の未熟な眼力では判断しかねた。だが、疋丞という男から漂う気配には並とは言えない悪寒が伴う。
蜂たちが臭いに怯えている、と花蜘蛛が囁いた。腐油の臭いに似ている。祭祀服の男は短躯で、痩せ衰えていたが眼光は鋭く、老人のようだが若々しさも感じられた。この男も、殺人蟻と同様に外道の業を身に着けているはずだ。声の届く距離で睨み合いながら、男の正体を探るのが上策だと僕は思った。饕餮神楽などという業は、巳槌家にいて耳にしたこともないし、萬州鑑にも記載されていない。
「饕餮神楽とは、古の神を奉じる者か?」
「ほう、さすがは六道使の家の者、饕餮を知るか」
僕は微笑んだ。
「いずれにしても、貴様らの策は潰えた。夜陰に紛れ、摩利を奪おうとしたのだろうが、野伏を束ねる巳槌家は貴様らが考えるほど容易くはないぞ」
「そのようだ」
疋丞は自らの分の悪さを、簡単に認めてしまった。
気味が悪いと思いつつも、疋丞の思惑が次第に明らかになりつつある。僕は剣を握りしめていたが、どうやら疋丞のほうには戦う気がないようだ。急襲が失敗に終わったので、退く機会を伺っている。確かに、このまま野伏館に拘るのは得策ではないと男も気付いているのだ。
「退くのなら退け。貴様ら外道師とは日を改めてけりをつけるとしよう」
「ほう、それで良いのか」
「構わない。こそこそと動き回られるよりも、余程良い。堤灘に身毒八幡という社がある。そこに摩利を匿うから、準備を整えて来るがいい。六道使の長子として相手してやろう」
「その言葉に、詐りはないな」
「ない」
「そうか、それならば結構」
疋丞は喉の奥から笑い声を漏らすと、そのまま闇に消えた。
野伏館の周囲を、再び夜の平静さが覆う。
花蜘蛛は蜂が怯えているのを感じて、容易ならざる敵だと察知していたから、疋丞の姿が消えて緊張の糸が解けたようだ。僕は消えた疋丞の異形を思い浮かべ、焦燥感に駆られていた。饕餮神楽とはどのような技なのか、容易に明かすことのない分別も持ち合わせている。難敵が現れたな、と握りしめた剣を見詰めた。
「花蜘蛛、どう思う?」
「余計な血が流れずに済み、ようございました」
頭巾から覗く口元が、微かに笑みを浮かべている。戦わずに退けれたなら、それは大勝利であると震旦国の兵法書にも書かれていた。勝ち負けにさほどの意味はなくとも、今は勝ったと判じていいだろう。では次はどうか。震旦国の兵法書には自己と相手を知ることが肝要とも書かれている。
僕は、疋丞らのことを何も知らないのだ。
「そうではなく、身毒八幡へ誘き寄せるという策だよ」
「敵が粗暴なだけの盗賊風情なら、恐れることはないでしょう。ですが、あのような外道を相手とするならば、こちらも備えはしておくべきかと」
「備えか。地の利はこちらにあるだろうが、人の和をどうするかだな」
僕と牙陀王、そして花蜘蛛の三人で摩利を守りきれるか否かは、数の問題に帰結する。疋丞らが葦社にどれくらいの数で来るのかが、最も勝敗を分けることになるのだ。僕は六道使の長子としての過信していたのかもしれない。疋丞一人で攻めてはこないだろう。三人ならば互角の戦いが、十人ならば負けは必至だった。
足下に倒れている殺人蟻は、蜂に刺されて喋れる状態ではない。蜂は便利だが融通が利かないのが難点だな、と花蜘蛛に言うと、蜂に手加減をする道理はありませんから、と笑われた。殺人蟻は縄で縛り、路地に放置しておけば、誰かが衛士に伝えるだろう。疋丞と交わした約束を反故にしてはと考えたが、摩利を危険に曝し続けることになる。
「それは異なことを」
「花蜘蛛?」
「女児一人、見捨てても巳槌の家に傷は付きますまい」
「巳槌の家にはね。でも道丸の名には傷が付く。女児一人助けられない男が、どうして父上から家督を継ぎ、六道使を名乗れるだろうか。花蜘蛛はそういう僕を見たいのか?」
「……いいえ。過ぎたことを言いました」
「いいんだ。それよりも半裂を仲間にしよう」
北面武士の宰貫堂半裂の力を借りれば四人。
四人なら何とかなるかもしれない。陣容を考えれば、少なくとも六人で摩利を守りたかったが、一騎当千を喧伝する北面武士の働きに期待しよう。
桜都の北に陣を敷き、大貴族の護衛や辺境勢力の討伐、時には盗賊になって糊口を凌ぐ者を「北面武士」という。天津ヶ原諸国の軍制では、徴兵によって組織された正規軍を基盤として、私兵は認められていない。だが、面倒な手続きを踏む必要がある正規軍を動かすよりも、金で動く武装集団を用いようとする者は少なくなかった。特に、北烏道や紫雲道の国守の多くが、土地の治安を守るために北面武士を活用しているという。
そういう事情もあって、北面武士は桜都の北に本営を築くことを許されていた。北面武士とは俗称で、宮中では正規軍ではないということで「外軍」と呼ばれているが、北面武士そのものは貴族や皇族を護衛することから「近衛」と称するのを好む。北面武士の長には、震旦国の武官位である「牙門将軍」の地位が与えられ、これは筋目の明らかではない者を貴族が忌諱したためだという。
宰貫堂半裂は、僕と同じ年の北面武士だ。
北面武士が自らを武士と名乗るためには、冬山に籠もる熊を殺さなければならない。半裂は昨年に、その荒行を達成して、正式に武士として認められていた。剣と弓の技に長けていなければ、熊を殺すことなどできないから、その強さは折り紙付きだ。
六道使として津々浦々を巡り歩かなければならないので、僕も武術の心得はあるけれども、本職の者には及ばない。半裂とは市井で剣術遊びをしていたときからの友人だった。先月まで北烏道馬企国にいたが、大市に出る商隊の護衛で桜都に戻っているらしい。
「半裂はどこにいるだろうか?」
「夜は本営に、昼は蓮華院の参道にいます」
「なんだ、花蜘蛛はもう会っていたのか」
「道丸様は友人には情が薄いようですね」
花蜘蛛に言われ、僕は何も言い返せずに頭を撫でた。
明日の朝早くに半裂に会いに行こう。僕はそう花蜘蛛に言うと部屋に戻ることにした。夜道は危険だから泊まるといいと誘う。彼女は虫姫が巣に帰らなければ倶利伽藍門の衆徒が惑います、と言い、恭しく申し出を辞退した。花蜘蛛は湧き、渡るものと自らを心得ているのだ。
蜂の蠱毒師を襲う者がいるとは思えないので、僕は頷くと、倶利伽藍門の方へと帰っていく花蜘蛛を見送った。そして僕は野伏館に入り、自分の部屋に戻る。
摩利は眠ったままだ。
寝具を敷き、僕も一時は横になったが、すぐに立ち上がった。
普段であれば僕も就寝するところだが、今夜は疋丞のこともあって眠る気になれないのだ。
剣を振るうのは六道使の本分ではないと、祖父の竹持はかつて僕に言った。四方四海を旅する中で、骨丸も祖父も幾度となく危機に見舞われたが、極力戦いを避けてきたという。武勇で物事を解決しようとすれば、命を失うことも覚悟しなければならないからだ。
勝っても益はなく、負ければ全てを失う。
そのような博打は愚か者がすることだと父は言う。今回は、武勇に訴えるだけの事情がある。本当にそうだろうか、と僕は自問自答してみた。摩利を守るという口実で、僕はただ武勇伝や英雄譚の主になりたいだけではないか。違う、と否定した。非は誰が見ても大袋や殺人蟻、そして疋丞にある。僕は摩利を助けたから、最後まで守らねばならない。
僕は考えすぎているのだろうか。
起きていれば思考は止め処なく続きそうだったから、僕は灯りを消すと、無理にでも眠ろうとした。上がりのない双六で右往左往しているような感覚が嫌だった。案ずるより産むが易しと言うではないか、と自分に言い聞かせているのは、不安でならないからだ。知恵と勇気を持て道丸、と右手を見詰めながら呟く。
しかし、一度覚えた不安を拭うことは出来ず、僕は眠れないまま朝を迎えてしまった。雀の鳴き声が聞こえてきて、仕方なく起き上がる。夜はまだ明けきれてなく、薄明かりの空気が桜都を静かな時間に留めていた。心が張り詰めていたからか、不思議と眠気はない。僕は衣服を整えると、摩利を泊めた部屋に入った。
摩利は起きていた。
「あっ」
「……館から出ようとしていたのか?」
慌てた表情の摩利を見て、僕は直感した。
「道丸様に、ご迷惑はかけられません。私がいなくなれば、それで騒ぎは落ち着きます」
「理には適っているけれども、僕ももう係わりすぎた。今更後には引けないんだ」
「どういうことですか?」
「疋丞という男が摩利を奪いに来た」
僕の言葉に、摩利の顔が強ばる。流転の果てに野伏館に来て、そこも安心できる場ではないと改めて気付かされたのだろう。摩利には疋丞という名前に覚えはないようだったが、護国僧侶の元から連れ去ろうとした大袋の一味であるとは、容易に想像できたらしい。
怖い、と摩利は呟いた。
「でも、だったら、もう私がここにいるのは……」
「そうだね。僕にしても、野伏館が危険に曝されるのは回避したい。だから……」
「だから?」
「一緒に牙陀王の社に行ってもらう。そこで、摩利に手出しをする輩を一網打尽にする」
疋丞たちと葦社で戦う。それが賢明なのか愚策なのかを一晩中考えていたけれども、館を出ていこうとしていた摩利に、僕は決意を固めた。やはり弱い者が我が身を捨てようとするのを、見捨てるわけにはいかなかった。君子であれば争いを避けるだろうが、僕は野伏だ。野伏には野伏の作法で、弱い者を守らせてもらう。
だから、僕を信頼してほしい、と摩利に言った。
「なぜ、そこまで優しくしてくださるのですか?」
「巳槌の家の長子は、一度決めた事柄を曲げたりはしないんだ。摩利を守ると言ったなら、必ず守る。どのようなことがあっても」
「信じろと」
「そうだ。信じてほしい」
僕は微笑むと、愛用の剣を握りしめた。
香坂の黒金を精錬した剣は、切れ味鋭く、突いても薙いでも持ち主を裏切ることはない。巳槌家が香坂の黒金作りであった頃、震旦国の鍛冶職人に作らせた鋼鉄剣だ。これを本格的に振るうのは、今回が初めてになる。それでも、誰にも後れを取るつもりはなかった。
摩利は頷くと、僕に従ってくれると約束した。そうと決まれば、牙陀王の葦社へは早く辿り着いたほうが良い。北面武士の宰貫堂半裂とも会わなければならないし、葦社で疋丞らと戦う算段も練らなければならない。考えれば考えるほど、今日一日は暇が感じられることはなさそうだった。
「よろしくお願いします。道丸様」
「ああ、命ある限り。それじゃあ、行こうか」
僕と摩利は準備を整えると、野伏館を出ようとした。
すると、門に僕らを待ち構える人影があった。家中の者が眼を醒ますには、まだ早すぎる時刻だ。細身の身体に面長の顔、切れ長の目でこちらを流し見ているのは、僕も良く知る人物だった。
壬生典幡だ。
「道丸様」
「典幡じゃないか」
畏まって会釈をする典幡に、僕は気軽に声を掛けた。今から外道相手に一戦交えると知られれば、つまり父上の耳にも届くわけで、それだけは何としても避けたい。壬生典幡は父上の筆役を長年勤め、僕の兄代わりでもあった。だから、野伏館内での勘の鋭さは誰よりも勝るし、僕の思考を読めるように把握している。
「朝早くにどちらへ?」
無駄かも知れないと思いつつも、僕は嘘を吐いた。
「堤灘で船遊びをしようと思ってね」
「そうですか」
「牙陀王や花蜘蛛、それに半裂も誘おうと思うんだ。こういうのは、人が多ければ多いほどいいだろ?」
「なるほど。それでは私の助けはいらなさそうですね」
典幡は物知り顔で微笑むと、門の柱へと身を寄せた。きっと昨夜の花蜘蛛との会話も、疋丞との出来事も、すべて筒抜けになっていたのだろう。それでも、門を通すという彼の思惑が、僕には分からなかった。典幡なら有無を言わせず僕を倉へ閉じ込めることもできたからだ。
どうして、と問い掛けようとした僕に、典幡は首を横に振った。
「道丸様、あなたは何者ですか?」
「僕は……巳槌家の長子だ」
「それが分かっているのなら、私が門を遮る道理はありますまい」
「通っても構わないんだね」
「どうぞ。手助けはできませんし、お父上には報告もいたしますが」
「手厳しいな。でも、それが典幡の仕事だからね。今回のことは、僕だけで何とかするよ」
「当然でしょう。では、私はもう一眠りすることにします。昨夜は何かと騒々しく、なかなか寝付けなかったものですから」
僕と典幡は笑みを交わすと、それぞれ内と外に別れていった。
半裂の住まう蓮華院の参道は、西の大広場の近くだ。野伏館からはそう遠くないし、倶利伽藍門からも近いので、花蜘蛛とも待ち合わせていた。摩利の手を握り、戦う気持ちを蓄える。僕、宰貫堂半裂、花蜘蛛、牙陀王の四人で摩利を守る。その決意が揺らぐことは、もはやないと考えても良いはずだ。