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野伏館

 庭の池を眺めながら、氏雲道緑蓮国しうんどうりょくれんこく歌弓かきゅうを鳴らす。不思議な音色だろう、と僕は摩利に言った。歌弓は三本の弓を束ねた形をして、弦ごとに鳴る音が異なる。琵琶や胡弓の最も古い形の楽器で、緑蓮国の人々は一日の終わりに歌弓を鳴らして、魔除けと太陽への感謝を示すのだ。

 湯浴みを終えた摩利は藍染めの麻服と頭巾に着替えて、僕の隣にいる。藍染めの麻服は桜都ではあまり見られないが、天津ヶ原諸国のどこにでもある装束で、摩利にも馴染んでいた。野衣といい、歩きやすいように縫われた衣服は、実は僕が何年も前に着ていたものでもある。とうに捨てたものと思っていたのだが、家人の一人が衣棚に保管していたのを引っ張り出したようだ。

「申し訳ありません。命を助けてもらった上に、衣服まで」

「弱い者、貧しい者を助けるのは仁の道に沿った行いだ。だから気にすることはない」

「ですが……」

 摩利は戸惑うように僕を見詰めると、何も言えずに俯いた。牙陀王は身毒八幡しんとくはちまん葦社あしやしろに帰ったので、庭先は不思議なほどに静かだった。歌弓の音が水面の月に彩りを与えているようだ。氏雲道は霧深い森と山々の広がる土地で、緑蓮国は湖上に住む舟家人ふないえびとの国だった。舟家人は屋根のある筏で寝起きし、漁で生計を立てている。魚は鹿や穀物などと物々交換し、陸地に上がることはほとんどないと言われていた。浮島うきしまの都府で、桜都の貴族が詩歌に興じるように、緑蓮国の人々は弓の音を楽しむ。

 海を渡ってから、あまり良いとは言えない日々を過ごしてきた摩利も、野伏館では落ち着くことができたようだ。大袋に攫われたり、地下を潜る外道の業師に襲われたりもしたが、ここは桜都でも別格の中の別格だった。どのような威を持ってしても、野伏を平伏させることはできないのだから。

 歌弓を鳴らしながら僕は考える。大袋らは野伏館にいる摩利を、それでも攫おうとするだろうか。覚悟だけは決めておいたほうがよいだろう。ここで摩利と語らう前、父上の下で筆役ふでやくを務める壬角典幡みつのてんまんに、地中を動く外道の輩について尋ねてみた。典幡は僕よりも十年上で、筆役の仕事に喜びを見出している。筆の手入れをしながら、彼は僕の質問にも丁寧に答えてくれた。

「それは百目鬼どめきでしょう」

「百目鬼?」

りょうに穴を掘り、王の墓を荒らし、葬儀の宝を奪うことを生業としている者たちです。竪穴に住み、外からは他の田人たひとと変わりありませんが、家から穴を掘るのです。今日、道丸様が出会われた者は、そうした百目鬼の中でも特に熟練した者なのでは」

「彼らは摩利を諦めてくれるだろうか」

「護国僧侶らは摩利様の行き先がここであるとは知らないでしょう。百目鬼や大袋らが、野伏の長に刃を向けるとは考えにくいですが、警戒はすべきでしょうね」

 僕は典幡との遣り取りを摩利に話した。

 元々がまつろわぬ民である。野伏が王権に属することのほうが異例なのだ。帝から諸国の野伏を統べる権限を与えられたと言っても、巳槌の名が効くのは左丞道さじょうどう右水道うすいどうなどの桜都に近い地域までで、『萬州鑑まんしゅうかがみ』の集成作業の際も、一番の助けになったのは権威よりも金と言葉だった。権威を嫌う者が、権威を認めるはずもなく、であるならば六道使などは張り子の虎だ。

 この件に関して、父上は力を貸してくれないだろう。行為には責任がつきまとい、僕がしたことであれば僕が始末をつけなければならないからだ。摩利を守り、不安がらせない方法を考えねばならなかった。

 さて、どうしたものか。

 髪の色で危害が及ぶのは不憫としか言いようがない。金色の髪は稲穂の神民の証だが、他に僕らと変わるところは何もないように見える。摩利は僕らがどういった存在であるのか、未だ掴み切れていないようだった。怖ず怖ずと、僕を見た。

「道丸様はどういった方なのですか?」

「巳槌家の長子だよ。六道使と言って、諸国を旅し、色々なことを書き記すのが仕事なんだ。とは言っても、天津ヶ原の四方を巡り歩いたのは祖父の代までで、今では優雅な都暮らしだけれども」

 歌弓を脇に置き、僕は自嘲気味に首を竦めた。だが、摩利は六道使のことに興味を持ったようだ。貴賤に拠らず人は土地に縛られることが多いから、僕らのような存在が珍しいのだろうか。

 違った。

「……それでは、ヤクシトネは御存知でしょうか」

「ヤクシトネ?」

 路地聖ろじひじりの聖地の名を摩利が言うとは思わなかったから、僕は聞き返した。四辻で念仏する路地聖は、十二年に一度、ヤクシトネと呼ばれる場所で祭りを行う。彼らは天津ヶ原諸国の道があるところならどこにでもいて、雲を溶かしたと称する薬油を売り歩き、仏を讃える経を読んだ。

 なぜヤクシトネのことを摩利が知っているのか、僕は尋ねてみたが、押し黙ったまま答えはなかった。解らない、というのが真実を射た答えだろう。ヤクシトネの場所は長らく謎とされていたが、巳槌竹持みつちたけもちの残した覚え書きによると、左丞道嘉糸国(かしこく)兎車岬うぐるまみさきという場所にあるという。だが、嘉糸国の兎車岬にあるといっても、どういう場所かは見当もつかないし、本当にそこにあるとも限らない。路地聖の聖地は路地聖のみが知り、他者が容易に入れるわけがないのだから。

「ヤクシトネに行きたいのかい?」

「解りません。そこに、何か大切な用件があるような……そのような気がして」

「無理はしないほうがいい」

 少しずつだが、摩利本人の口から話が聞けたのは良いことだった。海を渡って以来、人らしい生活は送ってこなかっただろうから無理は禁物だ。摩利は自らの思考を言葉にできないことに苛立ち、またそれを押し隠しているようでもあった。また、彼女にとって僕が本当に「味方」であるかの判断もできていないのかもしれない。

 今日はもう休むといい。僕はそう言うと灯籠の火を消して、摩利を部屋に入れた。

 用意させておいた寝具に摩利を横にすると、明日も牙陀王が来るからうるさくなると微笑んだ。僕などより奴のほうが裏表のない性格をしているから、よほど安心できるだろうと思って。摩利が感謝の言葉を呟くのを聞いた後、隣の自室へと戻ることにした。

 緑蓮国の歌弓を棚に戻して、机の前に座る。机に広げた灰紙はいしに蜂がいた。

花蜘蛛はなぐも、いるのか?」

「私はこちらに。道丸様」

 部屋の隅、蝋燭の明かりが届くか届かないかの位置に、一人の女が佇んでいる。頭巾と風羽織かぜはおりが一体になった独特の衣を着て、身体の線を見えなくしているが、頭巾からわずかに見える口元には女の紅が引かれていた。花蜘蛛が野伏館に来るのは珍しいが、虫の知らせでもあったのだろうか。僕は部屋の中央に花蜘蛛を招いた。

 花蜘蛛は桜都の東、蜂の倶利伽藍門くりからもんを守衛する蠱毒師こどくしの娘だ。蠱毒とは壺に虫を詰めて共食いをさせ、呪殺や流行病をなす虫神を作り出す術のことを言う。しかし、それは桜都の人々がいかにも好みそうな迷信だ。実際は、蠱毒師とは虫の理を学び、虫と共に生きることを選んだ者たちだった。花蜘蛛の一族は古来から養蜂を生業としていたが、桜都の守りに蜂が使えると考えた万機卿ばんきけいが、倶利伽藍門の守人として彼らを雇い入れたのだ。

 倶利伽藍門は巨大な蜂の巣として聳え建ち、蠱毒師はそこで守人と蜂蜜の採取の二つの仕事に従事している。蠱毒師が門を守るようになって五十年近く経つが、今では倶利伽藍の蜂蜜は貴賤を問わず楽しむことができる薬味として珍重されていた。蜂蜜は塗り薬としても、飲み薬としても効果がある万能薬で、震旦国からの商人も買い求めるほどだった。

 桜都周辺の野伏で、年齢の近い者とは全て馴染みがあるのだが、花蜘蛛とは特に親しい。牙陀王、花蜘蛛、北面武士の宰貫堂半裂さいかんどうはんざき、この三人とは気心が知れていて、何にせよ相談することができる。

「巳槌の長子様が見慣れぬ稚児を連れて帰ったと、虫々が噂しあっていました。道丸様が護国僧侶のような趣味をお持ちでなければ、何かお困りごとがあるかと思い、夜に紛れて耳を傾けていたのです」

「僕が護国僧侶のような趣味を持っていたらどうしたんだい?」

「その時は、胸の秘密にしておきました」

 女の声は低く掠れている。

 微笑む花蜘蛛に薬湯を振る舞い、僕は東の大市での出来事を話した。恵御名上人えみなしょうにん埃及節えじぷとぶしを見るために華拍子の裏道から忍び込み、そこで摩利を攫おうとしていた大袋と出会ったこと。土の中を動く怪人物との戦い。そして、摩利を野伏館に匿ったことなどを。花蜘蛛の頭巾は目元が完全に隠れているので表情を読み取れない。目の位置には小さな穴が幾つも穿たれていて、そこから見るようになっているのだが、これは蜂から目を守るための工夫なのだ。

 蜂が好む灰粉を全身に塗り、衣装も独特なので蠱毒師は異形のものと見られがちだ。それは野伏であれば多かれ少なかれ誰もが感じる視線だった。六道使とて例外ではなく、野伏の世界と民草の世界は橋で繋がるだけの浮島のようなものなのだ。父上が宮中での栄達を望むのも、野伏を世に認めてもらいたいという願いがあるからだろう。

「摩利を匿うのは容易い。だが、それでは問題の解決にはならない」

「虫を殺すのでしたら、巣を叩け、と言われています」

「悪くない方法だ。しかし、巣の場所が解らない」

「であるならば、篝火に入る虫のように、ここへ誘い出せば宜しいかと。外道の輩も蛆や蛾ではありますまい。腐肉から湧くのでなければ、一つ二つと潰していけば終わりましょう」

 薬湯を注いだ湯飲みに手を当てて、花蜘蛛が舌で嘗めるようにして飲む。

 彼女の案は妥当なものと思えたが、野伏館に誘い入れるのは躊躇われた。摩利の安全は守られるだろうが、父上の怒りは頂点に達するだろう。火でも掛けられたりしたら六道使の立場も危うくなる。僕もそこまで無茶はしたくないし、戦うのであれば万全の策を立ててからにしたかった。

 万全とまではいかなくても、他者に危険が及ぶのは避けたい。花蜘蛛は、なぜ僕が摩利のことを気にしているのか、それが怪訝そうだった。摩利は旅人だ、と僕は答える。旅先の地で食べ物もなく行き倒れた者がいるならば、助けようと考えるのは野伏の務めだった。六道使は骨丸も竹持も、そうした土地の優しさに助けられたのだ。

 蝋燭の火が揺れる。

「道丸様は花蜘蛛を女と見ていないのですか?」

「虫姫が、僕をからかうのは悪い癖だと思うよ。そんな気持ちないくせに」

 その姿形が花蜘蛛の全てと思っていたから、僕は問い掛けに対する答えを逸らした。蠱毒師は蠱毒師として生きて死ぬ定めにあり、男や女としての自己はないものとされる。蠱毒師は辻々に捨てられた赤子を拾い育て、その際に男であれば男根を、女であれば産道を毒で灼くという。震旦国の宦官のようなものだが、まつろわぬ民には「産まず産まれず、拾い拾われ」という習俗を守る者が多い。

 花蜘蛛は耳聡く、知恵が回る。僕に対する言葉にも毒が含まれているのは、おぞましい虫の宿り身と自認しているからだろうか。

「誘い出すなら牙陀王の葦社がいいな」

「牙陀王が聞けば何と言うやら」

「摩利のためだ。喜んで助けになってくれる……たぶん」

 僕は微笑むと、花蜘蛛に目配せをした。

「気付いていたか?」

「虫が騒ぐので」

 花蜘蛛の指先に止まる羽虫がくるくると忙しなく蠢いている。常ではない気配が漂うのは、野伏館の外からのようだ。摩利を狙う外道の輩だろうか。音も立てずに棚の剣を掴むと、木戸を盾にして闇を伺う。今はまだ、ここが野伏館と知って攻め倦ねている、そういう気配が如実に感じられた。

 六道使の権威も堕ちたものだ、と僕は呟く。外道の輩とはいえ、館の外で蠢いているのも「野伏」なのだから。振り向くと、花蜘蛛は部屋の中央に座ったままで、薬湯を飲んでいる。彼女の傍らには竹筒が置かれていて、そこから這いだした拳大の蜂に僕は目を見張った。

 花蜘蛛が蜂に囁く。

「貫き、蜂の、牙の針。憎き、熊を、刺したもれ」

 蜂が羽音を鳴らして飛び立った。

 耳障りな音は闇夜に消えて、ほどなくして叫び声が帰ってくる。

 花蜘蛛の蜂が務めを果たしたに違いない。僕らは部屋を出ると、門へと走った。倶利伽藍門で飼われている千万の蜂のなかでも、花蜘蛛が筒から出したのは最も凶暴な蜂だ。徒党を組み鳥を狩り、虎の血を引くと言われる牙蜂がほう。その毒針に刺されれば、人であっても死ぬ危険があった。家人らが寝る時刻を過ぎていたため、僕ら以外に異変に気付いた者はなく、蜂に刺された愚か者もすぐに見付かった。

 路地に倒れていたのは、蟻文橋で河に落としたあの殺人蟻だ。牙蜂に何度も刺されて泡を吹いている。花蜘蛛が竹筒を出すと、牙蜂は躾けられたように戻った。牙蜂は巣に近寄る敵意持つ者を攻撃し、巣と敵の距離が近くなると、今度は防衛のために戻るという習性があるのだ。それを知らなければ、花蜘蛛は蜂と会話ができると思うだろう。僕は用心のために殺人蟻の武器である槍を手に取ると、二つに折って堀に投げ捨てた。

「死にそうな顔をしているな」

「痺れているだけです。十日ほど立てないでしょう」

 花蜘蛛は小声で言った。

 野伏館の外にいたのは殺人蟻だけだろうか。気配は一人だけではないと感じたが、蜂の来襲によって逃げたのかもしれない。桜都も夜になれば静まり返り、物の怪や祟り神が現れても不思議ではない空気に澱む。月明かりは弱々しく、花大路や四神廻廊ししんかいろう十二神将門じゅうにしんしょうもんでもなければ篝火を焚くこともないからだ。闇夜に隠れて何を図ろうとしていたのか、僕は殺人蟻の襟首を掴んだが、花蜘蛛の言葉通り痺れで口を利くことはできないようだった。

 顔を上げ、小路の奥を見詰めた。

 逃げたと思ったが違ったか。視線の先には、黒地に赤の祭祀服を身に纏う男がいた。目を凝らしてみたが、今まで一度も出会ったことはないはずだ。男の衣服は天津ヶ原諸国よりも震旦国の祭祀服に近いようだが、前掛けと帯が複雑に絡んだ衣服と青銅製の帽子を被った姿は、花蜘蛛にも劣らない奇怪さだった。

 暗くて表情までは読み取れない。だが、年齢は僕と花蜘蛛を足し合わせたよりも多いだろう。

「野伏の理を離れた六道使が、稲穂の神民を匿い、何をする?」

 男の言葉が地を這うように吐き出される。

「守るだけだ」

「守る?」

 滲み出た笑い声が、僕を不快にさせた。摩利を攫い何をするのかは、こちらのほうが訊きたいくらいだったからだ。花蜘蛛が警戒するように一歩足を引いた。正体不明の野伏ほど厄介なものはなく、こうして向かい合うだけでも汗が出そうになる。それでも、土壁の内側に籠もるという選択はありえない。争いを避けるのも野伏の知恵ではないか、と僕が言うと、それでは稲穂の神民を渡せ、と男が迫った。

 嫌な臭いがする、と花蜘蛛が囁く。

 話しても無駄であれば力を行使するまでだ。剣を抜き、睨みを利かせる。男は両手を広げると、指から糸で吊した何かを垂れ下げた。黒地に赤の祭祀服の中で無数の何かが蠢いている。そして男は「饕餮神楽とうてつかぐら疋丞ひきじょう」と名乗った。

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