蟻文橋から野伏館
かつて、刀の中将に恋した姫君が蟻に恋文を持たせて遣わせたという故事が、この蟻文橋の由来だった。文を背負った蟻の列は、橋の手前で立ち往生していたが、運良く中将が通り掛かったことで恋慕の情は実ったという。そのようなことが有り得るのかと思うけれども、高貴な身分の者が虫や鳥を使いに出すという話は意外に多く、昔には普通のことだったのかもしれない。小さな橋にも雅が感じられるのが、都ならではだけれども、今は無粋な血の剣戟の場であった。
外道の業師は手に隠し持つ槍を振り絞った。節くれ立った手槍には絡繰りが仕組まれていて、恐ろしげに歪む穂先が伸びる。土から出ても、それなりの対応が出来るということか。槍は機先を制する武器であり、突きに八策ありと言われ、殺傷力は弓に準じる。対する僕の鉄雹は、肉を穿ち眼を貫くことを目的とした暗器だ。虚に乗じて敵を撃つ技は、野伏が修得するべき第一のものであり、それは僕も奴も同じだった。
黒布の男は殺気を募らせていた。
「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す」
「僕を殺す前に、名乗ったらどうだ?」
「殺す、殺す、殺す、殺す、殺す……」
「道丸、名乗らないのなら、俺が名付けてやる。こいつは蟻だ。黒蟻、土蟻、殺人蟻……」
「殺人蟻がいいな。外道に相応しい禍々しさだ」
「じゃあ、殺人蟻。こいつは殺人蟻」
牙陀王も小刀を手に構える。もっともこいつの場合、頼れるのは逃げ足の速さだけなのだが。
「殺す」
「そりゃ無理だ」
僕らの距離は歩数にすれば十歩、槍で突くには遠すぎるが、鉄雹の有効射程は槍よりも短い。手首と指の力で撃つ鉄雹は、当てるだけならここからでも可能だが、斃すのなら三歩以内に近寄る必要があった。達人ならともかく、僕の技量ではそれが限界だろう。
一般的に「槍に攻め手なし」と言われる。機先を制し、かつ命中率の高い攻撃に、兵器の王という称号も与えられていた。だが、槍との戦いにも定石はある。槍の届かない遠距離で戦うか、槍の使い難い至近距離で戦うか。至近距離で戦う場合は、槍をかいくぐる必要があった。しかし、殺人蟻の持つ槍には長短両用の絡繰りがある。
そこで、僕は間合いの利ではなく数の利を以て戦うことにした。
「牙陀王」
「なんだ、道丸」
「お前、あいつを噛め」
僕の言葉に、牙陀王が猛烈に抗議する。
「やなこった。道丸、お前、俺に死ねっていうのか? 摩利ちゃんと仲良くなってないのに。俺に死ねっていうのか?」
「二度も言わなくていい。俺が囮になるから、お前噛め」
「ああ、ならいいぜ。不味そうだけどな!」
僕は鼻で笑うと、男との距離を一歩縮めた。
「殺す殺す殺す」
槍の間合いは眼で見る以上に広い。五歩の距離なら穂先が届くと思った方がよいだろう。
「殺す、殺す」
男は身体を伏せたまま、槍を握る腕に力を籠めている。その呟きによって、僕との間合いを計っているのだろう。気を緩めると殺傷力の高い刺突が来るのは容易に想像できた。
咽を鉄尖で貫かれるのを。
四肢が強ばろうとするが、呼吸で留め、殺人蟻の目を睨む。
「あの……さ」
と、言いながら、僕は握りしめた鉄雹を男に撃った。
不意を突いたつもりだったけれども、槍が跳ね上がり鉄雹が撃ち落とされる。しかし、僕は一気に距離を縮めていた。殺人蟻が気炎を上げて槍で薙ぎ払おうとしたが、突きではなく、構えを崩したところでの攻撃だ。
柄を掴み、僕は叫んだ。
「牙陀王!」
「任せろ!」
狼のように跳ねて、牙陀王が外道の槍使いに襲いかかった。
首筋に牙を撃ち、今度は男の口から叫び声が漏れて、地面の上を二三転する。それでも槍を手放そうとしなかったのは、褒めても良いが、如何せん殺人蟻にとって状況が悪すぎた。牙陀王の身体を押し返し、怒りに目を充血させた男に、渾身の蹴りを見舞う。
衝撃が背中に突き抜けた。
全身に伝わる、確かな手応え。
槍が折れ、男は川に落ちた。
「ざまみろ!」
牙陀王は血に汚れた白い歯を剥き出しにして笑い、男が落ちた辺りに小石を投げ入れる。穏やかな流れの川に男が藻掻きながら浮かび上がり、怨嗟の声を上げながら流されていった。
「見かけ倒しで弱かったな! 道丸、あいつ不味かったぞ」
「まあまあ、僕らにすれば上出来だった」
汗を拭い、溜息を吐く。
策通りにことが進んだからだ。武を以て敵に相対するのは本意でないけれども、結果が良ければ全て良しか。
摩利は目を閉じて縮こまっていた。僕が「終わったよ」と言うと、泣きそうな顔で座り込む。こうして観ると、普通の女の子と変わりなく、血生臭い戦いに巻き込まれたことが気の毒に思えてきた。
牙陀王に摩利を背負わせる。
「恐かったか?」
「……はい」
「安心しろって。この身毒八幡の牙陀王がついているんだからよ」南無阿弥陀仏の釈尊門よりもアテにならない言葉だ。「俺たちは無敵だぜ。なあ道丸」
「僕は無敵かもしれないけれど、お前は違うかな」
「ははは、冗談きついぜ道丸!」
牙陀王の笑い声に、摩利も頬を弛めた。二人は年も近いし、あいつは拘りのない性格だから、仲良くなるのも早いかもしれない。
とにかく、外道も追い払ったし、家に帰れば一息付けるだろう。
もう日も傾きつつあった。六道使としての見聞を広めたくて大市に行ったわけだが、思いもしない経験をした。父上は稲穂の神民を観て何と言うだろう。言い訳を考えるのは気が重いけれども、どんな顔をするかは想像するだけで面白かった。
「牙陀王、楽しかったか?」
「焼き栗が上手かった」
お前の頭は食べ物だけなのか?
僕はその肩を押すと、戯けたように笑い声を上げて、身毒八幡の寺社野伏は唄を歌いだした。
州国制度によって八十六の都府が天津ヶ原の津々浦々に置かれることになったが、単に「都」といえば帝の住まう桜都を指す。桜都は第十八世帝によって内海の畔に造営されたが、それまでは西の大盆地に梅都があった。遷都はおそらく、第十八世帝の時代に起きた三道三十二州国の反乱に伴うものだろう。水辺は逃げるのに便利だからだ。
桜都の由来は、史書に拠れば「泰樹」という大桜にある。帝の住まいを「泰樹の内裏」というが、第十八世帝が内海に巡幸した際に泰樹と出会い、「ここを終の住処とし、長く愛でん」と言ったことから造営が始まったらしい。
三道三十二州国の反乱は「三封関の戦い」によって終わり、桜都は新しい国作りの拠点として規模と内容を兼ね揃えるようになった。政治の中枢である内裏には十六の院が設けられ、貴族の邸宅、常設市と左右の大市、都府楼台、寺社仏閣が軒を連ねた。巳槌の野伏館は貴族の住まう蔓門内にはなく、庶民が住まう蔓門外にある。蔓門は臣と民を隔てる境界線だ。蔓草に覆われた石の門内に邸宅を構えることができなかったのは、巳槌の微妙な立場が反映しているといえた。
震旦国の京城を模した桜都は、中央の桜大路を軸に碁盤のように道が走っている。蔓門外でのことを管轄するのは都府楼台だ。都府楼台は警邏を通じて治安を護り、祈祷を以て穢れを祓うが、民に関する諸事に目を光らすことこそが真の職務であった。常設市で商いをする者は都府楼台の割符が必要であるし、居を構えようと思えば都府楼台で土地を借り受ける手続きをしなければならない。
都府楼台と巳槌家の仲は険悪で、野伏などに彼らが好意を持つはずもないのだが、位置的にも甘彌丘に建つ楼台に対して、巳槌の野伏館は花大路の近くにあった。野伏館というと何やら恐ろしげに聞こえるけれども、他の邸宅と変わりはなく、都でもここがそうであると知る者は少ない。
僕らは野伏館の敷居を跨ぐと、まず父上に会った。父上は部屋で書き物をしていたらしく、無粋な足音に不機嫌さを隠そうともしない。巳槌道丸、牙陀王、そして摩利の三人を平等に睨むと、僕に報告を求めた。
僕は大市でのことを嘘と脚色を交えて語った。
「それで……その結果が横の幼子というわけか」父上は摩利を一瞥した。「見聞を広めよとは言ったが、問題を起こせとも、遊べと言った覚えはないぞ」
「降り掛かる火の粉を払っただけでございます。それに、あめつちの全てに、遊びは含まれていないと言うのですか?」
「小賢しげな……」
父上は苦虫を噛み潰した表情で僕を睨んだ。父上は野伏の長として、巳槌の家名を第一に考える。だから、大市で騒ぎを起こしたなどという話に、怒りを露にしたのだった。気まずい沈黙が部屋を包み、摩利の表情が暗く沈む。だが、その時、牙陀王が親子の格式ばった言葉の遣り取りに辟易したのか、欠伸をしたまま寝転がってみせた。
「あぁあ、道丸も巳槌の旦那も良いじゃんか。悪いことはしてないんだしさ」
「牙陀王!」
僕は牙陀王を叱咤したが、意に介さないまま悪態をついて、今度は天井の梁に飛び上がった。
「道丸! 寺社野伏の俺が言うのもあれだが、大市は護国僧侶の祭りなんだぜ。だから大袋から摩利ちゃんを救いだしたのも! 訳の分からん外道と戦ったのも! ぜんぶこりゃ神仏のお導きがあったからだと考えれ!」
「都合の良いときだけ神仏を出すのだな」
父上の言葉に、牙陀王はぶら下がったまま笑い声を上げた。
「野伏は、窮する者には優しいしな」
「だからどうというのだ」
「別に。立派な野伏なら、可哀想な摩利ちゃんを捨て置くようなことはしないだろうな、と思っただけだい」
牙陀王の物言いは、無茶苦茶ではあるが父上の心を少し動かしたようだ。僕はというと、目を丸くしたまま、舌先三寸から出る弁にただ驚いていた。まさか牙陀王が兎を狩るだけでなく、言葉で父上を撃つとは思わなかったから。
「まあ、いいだろう。兎の礼だ」
家人に命令して、摩利の部屋を用意させると、父上は不機嫌な顔をもっと不機嫌にさせて奥へと引っ込んでいった。
梁から下りた牙陀王は、自慢げな表情で微笑んでいた。自分の手柄と言いたげな表情に、感謝したい気持ちと殴りたい気持ちの両方を覚えてしまう。牙陀王は結果が良ければ全て良いのかもしれないが、父親との関係が続く僕の事情も考えてもらいたい。そんなことを言っても無駄か。僕は溜息を吐いた。父親との関係で言えば、僕が六道使を目差すと決意したときに、十分「不肖の子」になっていたからだ。
僕は家人を呼んだ。摩利の部屋は僕の隣に用意しているということだった。僕は摩利に湯浴みをするように言うと、牙陀王を連れて自分の部屋へと行った。
「お前も湯を浴びたらどうだ?」
「臭いが消えるのが嫌なんだよな。それに風呂に入るのは人だけだぜ」
「そうとも言えんさ。北烏道の雪山に住む猿は、温泉に浸かって寒さを凌ぐ」
「じゃあ、おいらは猿以下だ」
牙陀王は機嫌良さそうに笑うと、板張りの床にそのまま腰掛けた。敷物嫌いで風呂嫌いで礼儀知らずな奴だ。礼儀知らずな牙陀王が飲み物を所望したので、僕は部屋の隅にある鼎へと歩いた。鼎は青銅製で震旦国の古式文様が施されている。鼎の盆の部分には砂と炭を敷き詰めて、鉄釜を乗せていた。火種を使い、炭を焼くことで水を湧かすのだ。
棚から漆筒の薬を取ると、鉄釜に少量入れる。震旦国では薬湯を飲むことが流行しているようで、その風習は寺院を中心に天津ヶ原でも広まりつつあった。薬に使う震旦茶葉は高価なので、桜都では薬草や香草を煎じたものを代用していた。薬師院と寺院が共同して集成した「草論」という書物には、薬湯の効能と飲用方法が記されている。
何だ、と訊かれ、蕎麦だと答えた。
「ああ、蕎麦湯か。蕎麦は良いな」
「だろ?」
柄杓で湯を掬うと、湯飲みに注いで牙陀王に振る舞う。湯気を嗅ぎ、舌先で熱さを確かめながら啜った。僕は敷物の上に座ると、書箱を整え安紙を広げた。大市での出来事や諸物を簡潔に書いて、後日の清書に備える。六道使っていうのは目も指も器用じゃないと駄目なんだな、と言う牙陀王に、これからの世は物書きくらいできないと栄達できないと忠告する。
栄達する必要があるのか、という顔をした牙陀王は蕎麦湯を飲み干して熱い息を吐いた。諸国制度が完成した今、文書の有用性はかつてないほどに増している。書を嗜むのは貴族の遊びと思われていた時代から、より一般的な情報の伝達法として、これからは読み書き算術が弓馬の道よりも重んじられるだろう。
六道にある千万の事柄を記しても、読む者がいなければ用を為さない。人が海を渡るのは海の先に陸地があるのを知るからだ、と父上は常々語っていた。天津ヶ原諸国の姿を明らかにしなくて、どうして桜都に住む者が政務を行うことができるのか。
寺社野伏も経文くらい読めないと、神仏に申し訳が立たないのでは?
「それはそれ、あれはあれだ」
牙陀王の様子に僕は微笑んだ。摩利が湯浴みを終えれば、これからのことを考えなければならないが、実はそれほど心配していない。衣食住が整っていれば、問題は糸が解けるように解決するものだ、と僕は思った。牙陀王が自分で湯飲みに薬湯を注ぐ。熱い湯に舌を痺れさせながら、摩利のことはどうするんだと訊かれた。
「守る」
それが僕の答えだ。