東の大市:参
国家の頂点に据えられるべきものについては諸説あり、大神であり仏尊であり帝王でありと意見の統一が図られることはないであろうが、国家の基礎については「農耕」こそがそれであると明言できるだろう。食なければ人成り立たず、人成り立たなければ衆なく、衆なければ国成り立たず、と震旦国の書にもある。農耕とは、天津ヶ原諸国では稲作のことを指し、稲は五穀の一位として国家の成立以前から民に親しまれていた。
天津ヶ原の一年は稲作を中心に移ろう。暦の順調な運行を祈祷する新春の北申祭から、田植えを土地と人の婚礼に見立てる初夏の使渡根祭、害虫や天災などから田畑を守るために穢れを祓う夏の地霊祭、収穫を土地神に感謝する秋の礼禮祭など、季節の折々に行われる祭は稲の豊穣を祈るためのものだった。語り巫女によれば、祈りの起源は田畑に芽を出させるための儀礼にある。天津ヶ原の民と稲作は切っても切り離せない関係にあるし、都住まいの者や僕らのような野伏であっても、農耕を祖とする風習の影響からは無関係でなかった。
巳槌家の祖、骨丸は萬州鑑を書くにあたって旅先の神話伝承を数多く集めたが、稲作の由来については特に興味を抱いていたようだ。文化風習を記した補筆編には、五穀についての細々を集めた巻があり、そこに稲作についても記されていた。
「稲穂の神民」とは、稲を天津ヶ原にもたらしたとされる人々の呼び名だ。彼らは空と土との合わさる場所から訪れ、金色の髪と雪のような肌を持ち、種籾と砂金一袋とを交換して土地土地を渡り歩いたという。真偽のほどは不明であるが、流浪の民は野伏の祖であるとも言えた。稲穂の神民については、多少の差違はあるものの南泰道の先から北烏道の果てまで伝承が広まっていて、骨丸自身は稲は天津ヶ原に自生していたという考えだったが、「髪の色はともかく、農耕の知恵の多くが彼方よりの賜物であるのは否定できない」と書いている。
僕は少女の髪を触ってみた。
「……本物だ」
「そりゃそうだ道丸。生えているんだから」
さもありなんという表情で頷く牙陀王だが、僕の言いたいことの一寸でも理解している風ではなかった。こいつにとっては金色の髪も、ただの物珍しさだけなのだ。しかし古来から、稲穂の神民は巨大な富をもたらすが、恐ろしい災いも招き入れると信じられていた。迷信俗説に誑かされるのは愚かなことだが、事実に瞼を閉じるのも右に同じである。
とりあえす伝説の民に出会ったといっても、僕としては学問的な興味しかないわけだが、かといって捨て置くわけにもいかない。なにしろ女の子は護国僧侶の元にいて大袋に攫われようとしたところを、僕らに助け出されたのだから。幸いにも巳槌は道ならぬ野伏を束ねる家だ。こういうことに対する処置は父上に任せるのが得策だった。
僕が思考している最中、牙陀王は汚れた顔を少女に近づけて、さらに怯えさせていた。
「なあ、名前、名前を教えろ」
「……」
牙陀王を警戒しているのか、少女は固く口を閉ざしたままだ。牙陀王の餓鬼らしいところは相手の心を思い計ることがないからだが、まあ年齢も近いことだし、世話させてみるのも面白いか。寺社野伏は女人に触れるのを禁じられている。それなのに、こいつはお構いなしに頬や髪に手を伸ばしていた。
「名前って。俺も名前教えるからさ。俺は牙陀王」
「がだおう?」
「おうよ。そっちが道丸ってんだ。比較にならんくらい俺の方が格好いいだろ? なにせ天竺国の古王の名だからな」
「勝手に比べるな」
牙陀王はからから笑った。
「だからさ、教えろよ名前」
「……摩利」
女の子が呟く。僕は外の喧噪に紛れて名前を聞き取ることができなかったけれど、牙陀王の耳は五十歩先の兎の動きも聞き分けるほどだ。自称身毒八幡の寺社野伏は満面の笑みを浮かべて、少女の名前を何度も繰り返した。
「摩利支天の摩利か。道丸、こいつは徳の高い良い名だな!」
「それよりも、どうするんだ?」
「どうするって?」
瞬きを繰り返す牙陀王の頭を叩く。
「護国僧侶と得体の知れない外道どもから、この娘を奪い……いや、助けたんだ。助けたからには、責任とる必要があるだろう。しかし、そのためには事情を聞く必要がある」僕は摩利を見詰めた。「君は、何者なんだ?」
「……分かりません」
「分からないってよ、道丸。意外と自分のことは自分じゃ分からないもんなのさ」
牙陀王の戯言は無視するとして、少女の返事は半分予期していたことではあるが、落胆した。だが、問題はどれだけ「分からない」のかだ。目を覗くと少女は自らのことを辿々しく喋り始めた。
「海を、渡ったことは覚えています」
「海だってよ。異国人だ」
「観れば分かるさ。稲穂の神民というのは、海津系だからな」
天津ヶ原諸国は海津系と天孫系の二大氏族によって形成されている。つまり天から降りし大神の子孫と、海を渡りし異邦の民とだ。天孫系の民は、実際には人が空から降ってくるわけがないので、数も頭打ちといったところだが、海津系の民は貿易の伸展と共に著しく増加していた。
なるほど、海を渡ったというのなら納得できることもある。
「それからは……何も覚えていません。私は、気が付いたときには大きな館に囚われていました。館に住む人たちは私に直接姿を見せようとはせず、食べ物と水を与えてくれました。それから、私のことを『あまこ』と」
「あまこ?」
「天の子、それで『あまこ』なんだろう。この色の髪から連想するのは誰だって稲穂の神民なのだから、護国僧侶がそう言うのも不思議じゃないだろうさ」
震旦国より遠方の国々には、肌の色も髪の色も違う民が住むという。神話上の出来事も元を辿れば日常の些事へと行き着く、そういうことを巳槌竹持は書き残していた。しかし、野伏は地を這うから怪力乱神に対して引いた見方をするのであるが、護国僧侶や外法師なぞはそうもいかないのであろう。
稲穂の神民は津々浦々を渡り歩き、価値あるものとの交換によって、その土地に稲穂をもたらし、次ぎに山椒をもたらす。しかし、相手が交換に応じないとなれば、祟りをなす神を呼び寄せ疫病を流行らせるという。虚実を論じるのも馬鹿らしいことであるが、その力を恐れ匿おうとする者もいれば、その力に惹かれ利用しようとする者もいるだろう。
……考えても埒がないか。
「牙陀王、お前、顔を見られたか?」
「……見られていないと思うけれどな」
「じゃあ、外に出るとしよう」
いつまでも狭苦しい所に身を潜めるのは性に合わない。摩利は外に出るなどとんでもないという表情で、立つのを渋ったが、牙陀王に言って抱きかかえさせた。この少女を巡ってどんな蛇が沸いて出るかは知らないけれども、稲穂の神民はまつろわぬ者の長たる巳槌が守るべきであるし、成り行き上とはいえ僕に迷いはなかった。
とりあえず大市は護国僧侶の膝元だから、ここから出なければならないだろう。その点についてはあまり心配知っていなかった。笠を被せて牙陀王に背負わせると、大市見物に来たそこらの兄妹と区別がつかないからだ。ただ、経ボケの護国僧侶は騙せても、外道の輩に通用するかは自信がない。
「あの土に潜ってた奴、あれは何なんだ?」
「……僕に訊くなよ。ああいうのが、君の仲間なのか?」
摩利は首を横に振った。じゃあ敵だ。
「敵だとすると厄介だな」
野伏には多種多様な生業の者が含まれているが、人外の技や呪を使う輩を特に「外道」と言う。身近なところでいえば倶利伽藍門の蠱毒師がそうであろう。巳槌は野伏を束ねる立場にあるが、広い天津ヶ原には朝廷に従わず、その存在すらも知られていない外道の輩もいるのだ。
華拍子の子傘を出ると、恵御名上人の念仏説法に満足した顔の人々で賑わいは増していた。見聞を広めようと大市に来たわけだが、稲穂の神民という珍しいものを前にすると、恵御名上人の威光も薄れるというものだった。「ありがたや、ありがたや」という呟きが耳に届くが、そうも言ってられない状況だから思わず舌打ちしてしまう。
牙陀王は気味悪そうに地面を見ていた。
「道丸、奴は往来の真ん中で襲いかかってくると思うか?」
「そうだな。そうかもしれないな。いいじゃないか、牙陀王、お前がいるし」
「おう、俺に任せろ! ……って、どういうことだよ!!」
どんなに切羽詰まっていても牙陀王がいると気分が楽になる。そんなに切羽詰まっていなければ、楽しさは二割り増しだった。
奴の存在意義というのはその程度のもの、というわけでもあるのだが。
恵御名上人の念仏説法はつつがなく終わったらしく、華拍子の廓から出た僕らは満足げな観衆の顔を幾つも見ることになった。あいつら、遠くから声も聞こえなかっただろうに、満足げな顔しやがって、と牙陀王が愚痴る。こいつは流行や珍奇なものに目がないから、強がっていても心残りなのだろう。
摩利は雑踏を物珍しそうに眺めていた。このように人ばかりの場所に入るのは初めてなのだろう。何があったのか訊きたがる素振りを見せたが、僕にはここがこういう場所であるとしか答えることが出来なかった。鳥屋の客寄せ鸚鵡が「聴きたり、観たり、買いたり」と喋るのを一所懸命に見詰めたり、楽師士の奇怪な仮面装束に驚き、異国の食べ物がもたらす香ばしい匂いに頬を弛める。
楽師士は早乙女の季節になると村々を訪れ、田植えの際に雅楽を奏で舞踊する集団だ。彼らを率いるのは「禮翁」と呼ばれる異形だった。枯れ草に汚れた簑を纏い、得体の知れない牙飾りと入れ墨の走る身体、荒削りの鬼仮面は神霊の眷属であることを示していた。
そぞろ歩けば歩くほど、思いもしないものに巡り会う。
「な、楽しいだろ?」
牙陀王が背中の摩利に言った。
「ええい、畜生め。俺が楽しめないんでどうするんだ。道丸、念仏説法が観られなかったから、ちょっとくらい遊ぼうじゃないか」
「遊ぶって、お前、危機感ないだろ」
「道丸、あれ観ろ! 御輿巡りだ。すげえ煌びやかだな」
……牙陀王の耳は野兎の足音も聞き分けるほどだが、頭は呆けているから、人の話に注意を払おうともしない。僕の心配をよそに、摩利を背負ったまま人混みの先へと行ってしまった。
牡牛に乗った寺稚児が清めた米を観衆に撒いている。米には一粒一粒梵字が書かれていて、邪気を祓い病魔を折伏させると言われていた。牡牛の緩やかな歩みの後に、屈強な僧兵の抱える御輿が続く。丹塗りに金細工の栄える御輿には蓮華院の教典が収められていた。大市は仏の慈悲によるものであり、ここを訪れる者全てに功徳が行き渡るよう配慮されているのだ。
天を舞う花々の色彩が美しい。
牙陀王の背中で摩利が手を伸ばしていた。未知のものに触れようとするのは、人が生来持つ本能だった。それは、好奇心が求めるままに東奔西走する六道使でも、金色の髪を持つ稲穂の神民であろうと、葦社の寺社野伏にしても、同じことだ。僕は二人の側に立ち、花香しき蓮華の御仏が通り過ぎるのを見守った。
どうやら護国僧侶も僕らを完全に見失っているようだ。野伏であれば五感を研ぎ澄ますことで、危機や敵意を察知できる。俗に言う「虫の知らせ」というものを野伏は大事にしていた。
僕は寺社野伏の髪を撫でた。
「帰ろう、牙陀王」
「ああ?」
「帰るんだよ」
五歳の子供が嫌がるような言動の牙陀王を無理矢理引っ張った。旗差しの小径を通り、そこは六道使見習いなら一日中いても飽きないほど物珍しい品々で溢れていたが、帰ることを優先させた。南無阿弥陀仏の釈尊門から人目を避けて脇道に逃れ、都を流れる紅葉川の橋に出る。秋には山を彩る落ち葉によって、川も赤く染まるから紅葉川と名付けられたが、ここなら僕の策も通じそうだ。
間抜けな護国僧侶などは恐れるに足らないが、地面の中から機を伺う視線が僕らを見逃すことはない。大市で僕らを襲わなかったのは、外道の技がみだりに衆目の中で使われることを嫌ったからだろうが、橋の上にいる限り、奴は千載一遇の機会を失ったも同然だった。
「出て来いよ。ここなら誰にも見られることはない。僕たち意外には」
僕は地面を睨んだ。
「道丸、ここで奴を迎え撃つのか?」
「巳槌の家に招き入れるわけにはいかないからな」
「あなたたち……勝つ気でいるの?」
「おいおいおいおい、この方をどなたと思ってるんだ摩利ちゃんよ」
「黙れ!」
牙陀王が得意げに語ろうとする口を押さえ、僕は鉄雹を握った。目の前で地が盛り上がり、人体が土竜のように現れる。
黒い布を頭から爪先まで身に纏い、砂で汚れた肌は灰色。土を掘り、標的を攻撃するための武器は、懐に隠し持つ歪な手槍だ。僕ら三人と対峙する外道の業師は、身体を伏せたまま手槍を構えた。白く濁った眼からは表情を窺い知ることはできなかったけれども、胸中が怒りに渦巻いているのは明らかだった。
嗄れた声が、土を嘗めるように発せられる。
「その、稚児を、渡せ」
「断る」
僕はその要求を却下した。奴の目的は知らないが、ここで葬り去り、後の憂いを断つ。稲穂の神人は助けたが、巳槌の家を諍いに巻き込むつもりはないからだ。摩利を背負った牙陀王が歯を剥き出しにして威嚇する。生半可な敵ではない。しかし、恐ろしげな外道の技も太陽の下では通用しないということを、ここで思い知らせてやる。
僕は鉄雹の狙いを定めた。