東の大市:弐
ルビを振るのがめんどくさい小説です。僕の趣味に走っている小説なんですが、ルビは厄介やわぁ……
忽那瀬とは歌枕にも詠まれる左丞道庵坐国の白浜の名だった。浅蜊や蛤 《はまぐり》が豊富な土地で、伝承によれば忽那瀬に住む鳥飼主という土地神が、天津ヶ原に貝田を広めたという。貝田とは木枠で区切った砂浜に海水を貯めて、その中で貝を飼育する方法だ。家畜の放牧が始まる何百年もの昔から、忽那瀬ではこの方法で貝を集めていた。
科菊 《しなぎく》は忽那瀬の貝採女の子だったが、華拍子に憧れて家を出たらしい。
「踊りや立ち振る舞いは修行中だけどね」
左手の指を動かして、科菊は僕らを誘う。大市に屋根を張る御伽小屋は三十とも五十とも言われているが、僕が今いる御伽小屋『カタカナ』は目立つ場所にはなく、手広くもない。竹と布を貼り合わせた小屋は、女手だけで建てるための工夫が随所に観られて、僕にとっては恵御名上人の念仏説法よりも興味があった。
「これは、どれくらいの時間で建つんだ?」
「慣れれば半刻くらいで」
例えば四百人割符商であれば大市に立派な商館を建てるが、大半は華拍子の御伽小屋と同じ「傘造り」の方法で店を構えていた。傘造りとは、名前の通り巨大な傘を連想すればよいだろう。まず、背骨柱という柱を地面に立て、そこから竹の肋柱を十二方に広がるように組み合わせる。そして紙や布で柱を覆えば出来上がりだった。傘造りの場合、背骨柱と肋柱の調達と組み立ては専門の建者に任せるので、鈴行商や華拍子などにとっては運搬の労を考えずにすむという利点があるのだ。
「布だけ持ち運べばいいからね。ここは親傘で、個人的に楽しみたいときは外の子傘で、という感じになっているのよ。解る?」
「子傘か……それも良いかもな」
「おいおい、科菊ちゃんを誘うのは後にしろよ道丸」
「あら、残念」科菊は笑った。「でも、私はまだ半人前だから御相手は務まらないかもよ」
「科菊ちゃんは剣法ばかりだからな」
「へえ、その腰のは飾りじゃないんだ」
華拍子は女だけで諸国を旅するので、当然のことながら自衛の技にも長けている。華拍子の剣は穢れを祓うためだけではなく、降りかかる火の粉を払うためにも使われ、萬州鑑にも「何処何処で華拍子が近くの山に住む賊を討った」という記述があった。
「道丸様も、そちらの技に長けているのですか?」
「おいおいおい、兄貴は我らが野伏衆の盟主になる男だぜ。武芸百般、国士無双。その気になりゃ賊党の十や二十は簡単に……」
「適当なことを言うな牙陀王」
僕の背中に覆い被さり笑う牙陀王を振り落とす。
「それよりも、科菊さん、念仏櫓へはここから?」
甑甕で米を蒸した香りが鼻腔を刺激する。僕らは賄い所に足を踏み入れていた。丁度、客人に馳走する料理を準備している最中だったが、科菊はしたり顔で奥へと歩いていった。勝手口から小屋を出ると、小さな天幕が密集する場所に出た。ここが科菊の言う子傘なのだろう。用途は様々で、遠方から来た人々の借宿や、華拍子の控え、もちろん良からぬことにも使用されていた。
そこを真っ直ぐに進むと塀に突き当たる。穢れを忌諱する法師のために、華拍子の侍る界隈は塀で囲まれているのだ。科菊は小屋と塀の間を行き、一カ所だけ、板が割れて人が一人通り抜けることができる所に辿り着いた。
「ここが法師と華拍子を繋ぐ小道の入り口。ここから、ちょっと歩けば念仏櫓だよ」
「ありがとう」
僕が礼を言うと、科菊は照れくさそうに微笑んだ。
「ほら、偉い方には恩を売っておけ。華拍子はそう教わっているからね」
「商売上手だな科菊ちゃんは」
「だから、私が一人前になった暁には、是非とも御贔屓 《ごひいき》してくださいね、道丸様」
そう言うと、科菊は踊りの稽古のために御伽小屋へと戻っていった。彼女の話によると、ここの小道を使えば念仏櫓のすぐ側までは行けるという。ただ、櫓の周りは僧兵が守備に当たっているので、僕らは少し離れた場所から見物しなければならなかった。
「それでも、正面から見るよりも楽勝ってもんだ。天と地、玉と石、油虫と螢の差だぜ。恵御名上人のよーよーだって、ここからだったら聞こえるし」
戸を潜り抜ける。天幕と天幕の間、小屋と小屋の間を縫うようにして道が延び、櫓台がその先に見えた。遠くから聞こえる歓声の渦。恵御名上人がいよいよ登場するのだろうか。
「こっちだ! 道丸」
逸る気持ちを隠しきれずに牙陀王は言った。
『六道輪廻天上天下唯我独尊』と書かれた巨大な垂れ幕、念仏櫓までもう目と鼻の先だ。爆ぜるしか道のない熱気が、裏に回っている僕らにまで感じられた。日の光と、櫓から伸びる影、牙陀王が目差す特等席は法師が寄り合う寺庵の屋根だった。
しかし、どうしてだろう、この気持ち。牙陀王の浮かれた姿を追っていると、念仏櫓との距離が思ったよりも近いことに僕の胸はざわついた。蜂の巣に誰が一番近付くかを競う遊びで、後先考えずに接近して、必ず蜂に刺されるのが牙陀王なのだ。
「牙陀王、はしゃぎすぎだ」
「道丸ははしゃいでいないのか?」
僧兵のことを完全に忘れているな牙陀王は。
その矢先だった。
勝手に角を曲がった牙陀王が、いきなり吹き飛ばされたのだ。
そのまま転がって塀に激突する。
「牙陀王!」
僕は叫んだ。一瞬死んだかと思い、気が動転したまま駆け寄る。僕の不安な予感は大抵的中するのだ。牙陀王は助け起こそうとする間もなく飛び起きて、怒りと痛みの唸り声を上げたので安心したが、警告したのに無視してこの態だ。殴ってやりたくなった。
まあ、よかった、たぶん大丈夫だ。
「道丸、気をつけろ!」
「お前に言われなくても!」
それから角の先にいるものの正体を確かめようとした。
視線が、水平からずっと上へと動く。
「な~んで、餓鬼がいるんだ?」
間延びした声。牙陀王を打ち飛ばしたのは見上げるほどの大男だった。僧兵、と牙陀王は言ったけれども、僕は瞬時に男がそうではないことを看破した。姿が違う、臭いが違う、持っているものが違う。頭は剃り上げていたが、獣の皮を身に纏い、継ぎ接ぎをした袋を抱えていた。
袋を持つ異風の者。
「大袋だ」
「大袋? 人攫いか!」
袋が蠢いているのを見て、牙陀王が声を震わせた。大袋とは子供を攫い、売り捌くことを生業とした者と行為を指し示す。もちろんそれは罪であり、法では火盗の下、殺人や賊刀 《ぞくとう》と同列に扱われていた。都の人間は大雑把に「大袋を生業とする野伏某」などと言うが、僕らにしてみれば野伏と大袋が同列に扱われるのは侮辱以外にない。
男は僕の指摘に表情を変えた。
「お前ら、俺が大袋だと知ったな?」
「知るも知らないも、お前みたいなのが袋を抱えて何と言い張るつもりだったんだ?」
「道丸、こいつ頭が弱いぜ」
いきなり殴られたのを根に持っているのか、牙陀王が嘲 《あざけ》る。しかし、このような場所で大袋と出会うとは思わなかった。大方、僧侶と華拍子の取引に乗じて、稚児を強奪しようと目論んだのだろうが……
「やっつけようぜ、道丸。こいつ野伏の面汚しだ」
牙陀王が気勢を上げる。
「ああん、ちっこい餓鬼が何を言ってるんだ?」
「悪いけれども、袋の中身は僕らが貰っていくよ。外道を見過ごすほど育ちが良いわけでもないんでね」
僕は懐から鉄雹を取り出した。
「何だそれは?」
「投げて使う震旦国の暗器だ。お前みたいな者に丁度良い」
「……一人攫うのも、二人攫うのも、三人攫うのも一緒だなぁ」
男は睨み付けながら拳を固く握った。どうやら僕らも袋詰めにしようと思っているらしい。それは獲らぬ狸の皮算用だ、と言おうとして止めた。相手の力量を計らず、力に任せて暴虐を為すだけの輩であれば恐れることなど何もない。
「牙陀王、恵御名上人の埃及節 《えじぷとぶし》はどんなのだった?」
「うん? 道丸、そりゃ、よーよーって言うんだよー。よーよー、さぁ道丸、あそこの馬鹿を早く仕留めろ」
「それだけ知ってれば、もう聴く必要もないな」
僕は笑った。
「貴様ら、俺を愚弄するか!」
獣じみた怒声と共に男が突進した。
その瞬間、念仏櫓から落雷のような鼓音が轟く。
勝負は一瞬だった。男の拳は無様に宙を薙ぎ、研ぎ澄まされた鉄の飛礫がその眉間を撃ち抜いたのだ。地に伏せて一転し、立ち上がるのと反対に、男はくるくると足を絡ませて地面に沈んでいった。
「ば、馬鹿な……」
という言葉を遺して。
「道丸、やったか!」
牙陀王が飛び上がって喜ぶ。足下に転がる男を見下ろして、僕は軽く首を振った。
「いや、腕の振りが甘かった。気絶しているだけだよ」
「手加減したんだろ? 道丸は優しいもんな」
「それよりも、袋の中身だ」
僕は牙陀王の背中を叩いた。
男が背負っている袋には、手足と口を縛られた子供が入っているからだ。牙陀王は兎狩りに使う小刀で紐を切った。
「さあ、もう大丈夫だぞ。悪い奴は俺が倒したからよ」
……俺が? まあ、今は言い争いをするときではないだろう。
大袋に囚われていたのは、牙陀王よりも年の若い稚児だった。十かそこらだろう。目隠しと猿轡を外すと、色白で可愛らしい顔が露わになる。頭は布で覆われていたが、栗色の瞳の、なるほど僧侶が好みそうな容姿だ。最初、恐怖で肩を震わせていた稚児は、僕らの顔を見て事態が良く飲み込めなかったみたいだ。
「さあ、助けてやろう」
手足を縛る紐を解くと、余程恐かったのか、稚児は僕に抱きついて泣き出した。
「助けて!」
「おいおい、助けたって言っただろうよ。寺に戻してやるから」
「違う、ここから、ここからボクを連れ出して!」
錯乱する寸前の声だった。
僕と牙陀王は顔を見合わせた。仏寺 《ぶつじ》に預けられた者は仏寺に戻るのが筋なのに、僕に縋る稚児は一刻も早く逃げ出そうとしているようだ。今度は僕らの方が事態を飲み込めなくなる番だった。華拍子が産み落とした男児は仏門に仕える者の慰みになるというが。
しかし、僧の寵愛を受ければこそ飢えに這い、草を探して流離う流民のごとき生活から無縁でいられるのだ。そのようなことは稚児がまず弁えるはずなのに。
「……来る、来るよ!」
稚児が叫ぶ。
櫓ではすでに恵御名上人の念仏説法が始まっていた。熱狂的な声が渦巻いているというのに、壁一枚隔てたここでは牙陀王でさえ異国の風聞のように感じているようだ。あんなに楽しみにしていたというのに。
「道丸、こいつはあまり良くないぞ」
牙陀王は不穏な空気を嗅いだように声を潜めた。
「こいつは、俺らが考えてるような稚児じゃないかもしれない」
「どういうことだ?」
「来る!」
稚児の声が一際響いたとき、いきなり足下の土が盛り上がった。驚きながら飛び跳ねる牙陀王が、僕の名前を呼んで逃げようとする。地面に誰かが潜んでいるのは明らかだった。これは仏法の成せる技か、流行の真言か、それとも他の何かか。
稚児の手を引く。引き寄せられた身体のあった場所を、地中から突き上げられた手槍が貫いた。身を捩り、二撃目も潜り抜ける。地中に潜み、攻撃するような技など聞いたこともなかった。僕は後退りして敵の殺意に集中したのだが……
もっと厄介な存在を僕は忘れるところだった。
「いたぞ! 捕らえろ!」
念仏櫓へと続く道から僧兵が大挙して押し寄せてきたのだ。
「兄貴! やばいぞ!」
「ああ、解ってる!」
大袋を倒したと言っても、僧域に断りなく忍び込んでいるのは僕らも同じだった。舌打ちをして稚児を抱きかかえる。地中の敵は殺到する僧兵に攻撃を中断したようだが、状況が悪化していることに変わりない。
牙陀王が石を投げて僧兵を怯ませた。罰当たりなことこの上ないが。
「逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ、逃げるぞ!」
僕らは逃げだした。
華拍子の廓へと戻る道を全速力で。角を曲がり、穴を潜り、垣根を乗り越えた。野伏の足腰の強さは僧兵の比ではない。瞬く間に追っ手を引き離していき、それは「脱兎のごとく」という慣用句が似合うほどだと我ながら感心した。
だが、満足するのは本当に逃げ切ることができてからだ。華拍子の子傘小屋が広がる一帯まで来ると、その中の一つに身を潜ませる。華拍子の廓に戻ったのは僧侶がここに立ち入ることは禁じられているからだ。強訴を繰り返し、都の衛士でさえ手を焼く僧兵であっても二の足を踏むだろう。
そして僕の計算は正しかった。
「奴らは」
「……来てないみたいだ」
「本当だろうな」
荒い息を静め、僧兵の迫ってくる気配がないことを確かめると、僕と牙陀王は声を上げて笑った。本当は笑い事ではないし、牙陀王はともかく僕は六道使となるべき血筋なのだ。立場ある者が僧に対して不埒な行為をしたとなれば、当然父上にも迷惑が掛かる。そのようなことを思えば反省こそすれ、笑い転げるわけにもいかないのだが、どうしても我慢できなかったのだ。
「牙陀王、念仏説法はまた今度だな」
どちらにしても、大袋から稚児を救ったのだ。それで良しとしよう。
「道丸、道丸」
「何だ、不満なのか? よーよーって言ってるだけだろ」
「違うよ。道丸、こいつ……」
牙陀王が小声で囁く。
稚児の頭を覆っていた布がほどけ、髪が露わになっていた。僕は目を見張った。それは金色の髪、華拍子の稚児とばかり思っていたが稚児ではなく、助けたのは女の子だった。僕らの視線を浴びて身を竦める姿に、僕は「稲穂の神民」と呟いた。