8、Disclosure
「ごめんね常葉くん、蘇芳のことは後できつく叱っておくから」
「いえ、僕も強く言い過ぎましたから」
蘇芳に殴り倒された後、その場に居合わせた丹さんと蘇芳の同級生の柊野さんの手を借りて僕は引き起こされると空いている客席に座らされた。蘇芳に思い切り殴られて腫れ上がった頬に丹さんからもらった氷嚢を当てながら、僕は強がりを言う。
小さい時から平和主義者だった僕にとって他人から顔面を殴打されたのは今日が始めてのことであり、経験のない激痛を堪えるのが精一杯で自分をこんな目に遭わせた蘇芳を恨む気持ちも湧いてこなかった。
「霧島さんのお姉さん、霧島さんの言っていたことは本当のことなんですか?」
僕の向かいの椅子に所在なさげに座っていた柊野さんが、躊躇いがちに丹さんに先ほど蘇芳が口走ったことの真偽を訊ねる。
自分は忠将という200歳くらいの吸血鬼の娘だという話はともかく、蘇芳という名前は忠将というひとと死んだ母親が一緒に考えてくれたということは僕も初耳であり、丹さんがその問いにどう答えるのかと横目で様子を覗う。
「蘇芳って名前を忠将さんとあの子の亡くなられた産みのお母様が一緒に考えられたのは本当のことよ。ちょっとイレギュラーなことがあって戸籍に登録されている名前はマナになっているけれど、わたしたち家族は忠将さんたちが考えた名前で親しみを込めてあの子のことを蘇芳と呼んでいるわ」
「霧島さんのお母さんはお姉さんのお母さんじゃないんですか? それに忠将さんってひとは誰なんです、話を聞いていると少なくともお姉さんのお父さんではないみたいなんですけど?」
「えっと、どう説明しようかしら……」
「蘇芳は霧島の家の養子で丹たちとは血の繋がりはない。蘇芳の産みの母親と入籍はしてなかったが、霧島家の娘になる前あいつを育てていたのは忠将さんだ。だから蘇芳にとって事実上の父親は忠将さんってことになる。蘇芳の出生に纏わる話を掻い摘めばこんなトコだろ?」
柊野さんから重ねて訊ねられた質問への返答に丹さんが言葉を詰まらせると、二階の居住区画に通じる店の奥に設けられた扉が開いて巨漢がフロアに姿を現した。
「うん、だいたいそんな感じ。わたしの代わりに説明してくれてありがとう」
「そんなことよりもよ、出かける支度してたら蘇芳の奴が泣き顔で部屋に駆け込んできたぞ? あのお転婆があんな風になるなんて何があったんだ?」
濃い陰影を刻む彫りの深い顔立ちに筋骨隆々として屈強な体躯をした男が奥から出てくると、彼に何かされた訳でもないのに柊野さんは威圧感を覚えて身を竦ませる。
しかし丹さんはこちらに歩み寄ってくる強面の偉丈夫を気さくに出迎え、彼も多少は蘇芳の異変を気にかけた様子で階下での出来事について丹さんに聞き返した。
「学校の友達と常葉くんと話している時に、あの子の生い立ちのことでちょっと話が拗れちゃってね。でも自分があまり触れて欲しくない話題だからって、問答無用で相手のことを殴るのはいけないわ」
「あ~だから上鳥羽弟が顔に氷嚢当ててるのか、八つ当たりされてご愁傷様だな」
丹さんからついさっき起こったイザコザの顛末を聞かされると、僕らの近くに立ち止まった彼は僕が腫れた頬を氷で冷やしている理由に合点がいって首を縦に振る。
「女の子のパンチ一発でのされちゃ格好つきませんよ…それよりも来栖さん、蘇芳の奴本当に泣き顔だったんですか?」
「ああ、顔をくしゃくしゃにしかめて泣くのをなんとか堪えたまま部屋の中に飛び込んでいった。ところで上鳥羽弟、お前あいつに何を言った?」
丹さんが高校時代から付き合っていて現在は店の二階で同棲しているという男性、来栖さんは当初痛ましそうに僕を見ていた目を細める。来栖さんから無言の圧力を受けて、僕は背中に冷や汗が流れるのを感じた。
「吸血鬼の娘だとか蘇芳が本当の名前で真実は便宜上仕方なく使っている名前だとかいうあいつの話を全部嘘だって言い切りました。そしたら思ったよりもあいつのことを傷つけちゃったみたいで…本当にすみません」
「阿呆、謝る相手は俺じゃねえだろう」
「そうですね…今からちゃんとあいつに謝ってきます」
「止めとけ、今お前があのじゃじゃ馬の前にいっても怪我を増やすだけだ。ほとぼりが冷めるまで顔を合わせないことがお互いのためだ」
僕は素直に蘇芳に言い放ったことを来栖さんに告白する。来栖さんは意外と冷静に僕の話を聞いてくれて、今下手に蘇芳の前に僕が顔を出しても和解するどころか彼女を余計に怒らせるだけと僕をこの場に留まらせた。
「じゃあ僕はどうすれば……」
「今日は帰った方がいいわね。蘇芳の機嫌がよくなってきたら、わたしから常葉くんの家に連絡するから」
「分かりました……」
今の僕が傷心の蘇芳に出来ることは何もなく、黙ってラング・ド・シャを去ることが最善の選択であるようだった。
「あの…どうして霧島さんはお姉さんたちの家の養子になったんですか、なんでその忠将って人と一緒に暮らさないんですか?」
まだ頬の腫れが引いていないので氷嚢を借りたまま帰ってよいか訊ねようとすると、それまで黙り込んでいた柊野さんが口を開く。彼女が口にした質問は僕も前々から疑問に思っていたことだった。
霧島姉妹や彼女たちと懇意にしている来栖さんの間で交わされる会話の端緒から、おぼろげに蘇芳が霧島家の養女になった理由の推測は出来ていたけれど、明らかなことはまだ聞かされていない。蘇芳、公的には霧島真実という名前の少女に関する詳細を知っておいた方が、機嫌を損ねさせてしまった彼女に侘びる際にいいのではないかと感じて僕は聞き耳を立てた。
「忠将さんはその…夜のお仕事をされている人なの。忠将さんは亡くなられたお母様の代わりにあの子のことを育ててこられたけど、自分と一緒に暮らすことが蘇芳の成長に悪影響を与えるんじゃないかって心配されていたわ。忠将さんは蘇芳を心から愛していたし、蘇芳も彼によく懐いていた。蘇芳を手放すべきかどうか悩んだ末に、忠将さんは知り合いだったわたしの父の家で蘇芳のことを育ててほしいと頼んできたの。そしてわたしの父が彼の申し出を承諾して、養子としてあの子をウチに引き取ったわ」
丹さんは時折言葉を慎重に選ぶために考え込みながら、蘇芳が霧島家に引き取られるまでの過程の概要を語る。丹さんが述べた蘇芳の生い立ちの大筋は僕が想像していた通りのことだった。
「でも霧島さんは忠将さんってひとが吸血鬼って言ってましたよ?」
「…それは忠将さんが普通の人とは反対に昼間眠って夜仕事をしているのかと幼い蘇芳に訊かれた時に、冗談半分で答えたことみたいよ。忠将さんは生真面目なひとで彼が嘘を吐くはずないと蘇芳は幼心にも分かっていたから、大きくなった今でもそれが嘘だと思っていないみたい」
なるほど吸血鬼のように昼夜逆転した生活を送っているから、忠将ってひとは幼い蘇芳の素朴な質問に対して面白半分にそう返事をしたんだ。誤算だったのは普段嘘や冗談を言わない真面目な人が、珍しく茶目っ気を見せたせいで思い込みの激しい子どもはそれを真に受けてしまい今に引き摺っていることだろう。
蘇芳の突飛な発言の真相としては納得いく説明だったのに、何故か丹さんが後ろめたそうな顔をしているのが不可解だったが、僕は蘇芳の生い立ちに関する話を噛み砕くことが出来て満足した。
「…子どもの時に信じたのは分かりますけど、中学生にもなれば普通はそれが嘘だって分かりますよね?」
「昼と夜が入れ替わった大変な仕事をしている忠将さんに育ててもらったことが、蘇芳にとっては大切なアイデンティティなんだよ。たぶん自分が吸血鬼の娘だと主張することで、あいつは夜の仕事をしているひとでも立派に子どもを育てられるってことを証明して、偏見を持っている連中の鼻をあかしてやりたいんだよ」
柊野さんは何故蘇芳が誤解を招くような発言を繰り返しているのかという理由に溜飲が下がらないようだったが、この場にいない蘇芳本人に代わって来栖さんがあいつの心中を察して代弁する。
来栖さんが推測した蘇芳が再三口にしている見え透いた嘘の裏にある彼女の想いを耳にして、柊野さんは蘇芳が単純に奇をてらっているのではないと悟ったらしい。そして柊野さんは厳つい風貌をした来栖さんへの畏怖ではなく、奇矯な言動の裏にある蘇芳の本心を看破した来栖さんに畏敬の眼差しを向けるようになった。
「クーくん……」
「クーくん!? す、すみません…でも驚いちゃってつい……」
だが厳かになりかけた雰囲気は丹さんの呟きによってあっけなく霧散してしまう。どう考えても強面で恵まれた体格をしている来栖さんに不釣合いな可愛らしい愛称を聞き、意図せずに柊野さんはその愛称を反芻してしまう。
「…丹、いい加減その呼び方止めてくれないか?」
「ちょっと子どもっぽいかもしれないけど、やっぱりクーくんって呼ぶのが一番しっくりくるよ」
決まりが悪そうな顔で俯いた来栖さんは丹さんのことを一瞥するが、丹さんは即座に彼の懇願を取り下げた。170cm近くある女性にしては比較的長身の丹さんよりも上背は頭1つ分高く、体の厚みは格段に上回っている来栖さんだったが、丹さんには頭が上がらないらしくそれ以上呼び名に関して訂正を求めようとはしなかった。
「お前ら姉妹が俺をガキっぽい呼び方してるから、蘇芳が中学生になってもお前や葵をガキみたいに甘ったるい呼び方をしているんじゃねえか?」
「別にわたしは蘇芳からまこねえって呼ばれるの嫌じゃないよ。葵もあおいねえって言われるの嫌がってないみたいだし」
「葵は言い方を直させるのを諦めたんだよ。大学に入った頃、躍起になって蘇芳に呼び方を変えさせようとしてたじゃねえか」
「そうだっけ、覚えてないわ。それに呼び方に拘ったせいで関係が崩れる方が馬鹿らしいじゃない?」
「それでも体面ってモンがあるだろう……」
来栖さんは子どもっぽい呼び名をされていることに愚痴を零すが、丹さんは爽やかな笑みを浮かべて彼の言い分をさらりと聞き流す。来栖さんは未練がましく恨み言を言いながらも、やはり丹さんに強くは出られなかった。
「呼び名に拘るせいで関係が崩れる方が馬鹿らしい…確かにその通りですね、丹さん」
「…常葉くん?」
丹さんが何気なく呟いた一言は僕の胸に深く突き刺さった。そうだよ、呼び方なんかに振り回されて険悪な関係になることはとても愚かしいことじゃないか。丹さんの言葉を復唱した僕に、丹さんと来栖さんは怪訝そうな目を向けてくる。
「ところで来栖さん、最近お店にいないこと多いですけど、これからもしょっちゅうお店にでない感じですか?」
蘇芳との関係がこのまま切れてしまうのは寂しい気がして、関係の修復に何かいい考えはないかと僕は思索を巡らせる。そしてふと浮かんだアイディアを出してみようと、僕は最近不在がちな来栖さんに積極的に話しかけた。
「副業でやってる実家の仕事が忙しいからしばらくは店に出たり出なかったりを繰り返すと思うが、それがどうした?」
珍しく能動的に会話を図ってくる僕に少々違和感を覚えているような顔で、来栖さんは期待した通りの返事をしてきた。
「丹さん、来栖さんがいないままお店を開けるの大変じゃないですか?」
「そうね…やっぱりお昼やお茶の時間、それにお休みの日はわたし独りでは手が回らないことがあるわね」
「そうですよね、そこでお2人に1つ提案があるんですけど……」
自分でこんなことを申し出るのは意外でらしくないと感じながら、僕は何かに突き動かされるように丹さんと来栖さんに思いついた提案を告げる。
突然こんな提案をしたところであっさりと却下されても不思議ではないと思っていたが、予想に反して店の女主人の丹さんも彼女に付き添ってキッチンの仕事をしている来栖さんも好意的に話を聞いてくれた。
「常葉くんのお話を受けてもいいかな、クーくん?」
「ああ、これで俺も後ろ髪を引かれずに副業に専念することができる」
「それじゃ常葉くん、お願いしてもいいかしら?」
「はい、喜んで」
丹さんたちから幸先いい返事をもらえると、僕は会心の笑みを浮かべて彼女たちに頷き返す。前途多難になりそうだけど、これで蘇芳との間に入った亀裂の修復に向けて一歩前進できたように感じた。
Disclosure 了