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ラング・ド・シャ  作者: 三畳紀
2杯目
7/12

7、Boiling

 12月、年の瀬を迎えて昼夜を問わずだいぶ気温は冷え込むようになってきた。四方を山に囲まれた盆地にある御門みかど市の気候は、夏はかまどの中のように暑く冬は冷蔵庫の中のように寒い。一年中、夏と冬を足して2で割った気温であればこの街はとても住み易くなるんじゃないかと季節が移ろうごとに僕は思わずにはいられなかった。


「…今日は行くのやめておこうかな」


 学校からの帰り道、行きつけの喫茶店の傍を通りかかると僕は一旦足を止める。吹き荒ぶ木枯らしに曝されて冷えた体を喫茶店でコーヒーでも飲んで温めたいという気持ちの半面、外気同様に自分の懐が非常に寒々しいことを鑑みて今日は家に帰るべきかと逡巡する。


「あの…この近くにラング・ド・シャって喫茶店ありますか?」


 懐事情が寂しくなっているため諦めて家路に就こうと足を踏み出そうとした瞬間、車道側から遠慮がちに声をかけられる。横目でそちらを覗うと髪を短く切り揃えた近隣の中学校の制服姿の女の子が、少し物怖じした様子で僕に視線を向けていた。


「はい、この道を道なりに真っ直ぐ歩いていけば店の前に看板が出ているんで分かると思いますよ」


「そうですか、ありがとうございます」


 僕が自分の右手にある路地を指し示しながら行きつけにしている喫茶店までの道案内をすると、女の子は大きく体を前傾させて礼を言う。礼儀正しいという好感を抱くと同時に、彼女は髪を切り過ぎていると感じた。


「どういたしまして、それじゃ僕はこれで」


彼女は凛々しいというよりも可愛いらしい感じのタイプだし、あまり髪を短くすると痛々しさを覚えてしまうのは失礼だろうか。そう思いながら彼女のことを凝視していることに気付くと、僕は変に思われる前に慌てて視線を逸らしてその場を去ろうとする。


「…すみません。もうラング・ド・シャに関することでもう一つお聞きしたいことがあるんですけど、よろしいですか?」


「なんでしょう?」


「ラング・ド・シャで働いている人の中に女の子はいませんか? 中学生くらいの、綺麗な顔をした子なんですけど……」


 一歩足を踏み出した途端、再び女の子に呼び止められて僕は危うく前方につんのめりそうになる。一呼吸置いて振り返ると、彼女は意外なことを訊ねてきた。


「中学生くらいの綺麗な顔の子って、蘇芳すおうのこと?」


「蘇芳?」


 万年閑古鳥が鳴いているラング・ド・シャで見かける顔触れはほぼ固定されており、僕が知る限り店で見かける中学生くらいの女の子は一人しかいない。消去法で思い当たる人物の名前を僕は口にするが、その名前を聞いても女の子は聞き覚えがない様子で首を傾げるだけだった。


「えっと…君が訊いているのは店長の妹さんの霧島きりしまマナさんのことかな?」


「はい、そうです。もしかして霧島さんとお知り合いなんですか?」


「特別親しい訳じゃないけど、知り合いと言えば知り合いかな」


「私、霧島さんと中学校で同じクラスの柊野ひらぎのと言います。担任の先生に頼まれて霧島さんの様子を伺いにこちらに参りました」


 僕の思い当たる少女が身内から呼ばれている愛称ではなく、正式な氏名を告げて訊き直すと女の子が尋ねてきた人物が僕の知る少女と同一人物であることが分かった。


「兄貴の奴、自分の手におえなくなった問題を生徒に押し付けるのかよ」


「えっ、上鳥羽かみとば先生の弟さんなんですか!?」


 中学校の教員をやっている僕の兄貴は柊野さんが尋ねてきた少女の担任でもあり、その少女は長いこと登校拒否を続けている。


どうにか彼女を登校させようと兄貴も腐心していたが、彼女は未だに登校していないはずなのに兄貴の口からその話題を聞かなくなって気にかけていた矢先、兄貴は自分の職務を放棄して生徒にその役目を押し付けたのだと感じる。思わず兄貴の無責任さを罵る一言を呟くと、柊野さんは耳聡く僕が自分の担任の弟であることを聞きとめた。


「ええまぁ…東九条中の教員をやっている雪人ゆきとの弟で常葉ときわと言います。至らない兄が担任ですみません」


「いえ、そんなことないですよ。先生は本当によくやってくれています」


 不甲斐ない兄貴に代わって弟の僕がその情けない有様を柊野さんに謝罪する。柊野さんは首を大きく横に振って自分の頼りない担任の弁護をしてくれた。名前すらまともに覚えていない不登校生徒を持て余している一方で、少なくとも表面的には自分を慕ってくれている生徒がいるところ、僕が思っているほど兄貴は駄目な教員ではないのかもしれない。


「ところで上鳥羽さん、霧島さんは最近どうされているかご存知ですか? 二ヶ月くらい前から霧島さん学校を休んでいて、その間霧島さんがどんな風だったのか私全然分からなくて……」


「あいつに会うのにそんなに身構えなくても大丈夫ですよ。この間も遅くまで街をぶらついていてお姉さんたちに怒られても、ちっとも反省しないで開き直ってましたから」


 柊野さんが不登校をしている蘇芳への接し方に不安を募らせていたので、僕は余計な気遣いは無用と助言した。深刻な悩みに苛まれて学校を休むしかない状況に追い込まれている人間が行きずりで出会った女子高生と意気投合して夜中までカラオケをしているはずがなく、一般的な不登校のクラスメイトに対して必要な配慮など一切不要だと柊野さんの肩の荷を軽くしてあげようと思った。


「失礼ね。あれだけクーくんに怒鳴られて、家出したんじゃないかと心配してたまこねえに泣きつかれたら少しは反省したわよ」


「蘇芳!?」


 柊野さんが兄貴に押し付けられた妄言を垂れ流す自由気ままな同級生の相手をしなければならない境遇に同情すると、批判の槍玉に挙げた少女の声がどこからか聞こえてくる。


 すると向かい側の歩道から道路を横断して、肩に大き目のエコバックをかけた緩く髪を編んだ少女がこちらに近づいてきた。兄貴が担任している柊野さんと同じクラスの不登校生徒で、ラング・ド・シャの女主人をしているまことさんの妹の蘇芳だ。


「ねぇこっちの人は誰、常葉のカノジョ?」


「この人は学校を休んでいるお前のお見舞いに来てくれたクラスメイトだろ!?」


「クラスメイト? あ~そういえばなんか見たことあるかも」


 蘇芳は怪訝そうな顔で柊野さんの顔をまじまじと覗きこむと、ようやく彼女のことを思い出したらしく手を叩く。碌に学校に行っていないとはいえ、様子を見に来てくれたクラスメイトに気付かないなんて無礼な奴だ。


「私、柊野だけど久し振りだね霧島さん、元気だった?」


「柊野…ああミチルか。うん、元気だからこうやってお使いに出かけているよ」


「名前を呼び捨て、仲のいい友達のことが分からなかったのか!?」


「いえ、霧島さんとは今年同じクラスになるまで付き合いはありません」


 蘇芳が柊野さんの名前を呼び捨てにすると僕は彼女のあまりの不遜さに眉を顰める。しかし柊野さんは蘇芳と知り合ったのは今年度同じクラスになってからであり、特別親しい仲ではなかったと首を横に振る。


「じゃあなんで蘇芳は君の名前を呼び捨てに?」


「同じクラスにさ、この子にいつも付きまとっている子がいてことあるごとにミチル、ミチルって呼んでいるのを聞いて名前は覚えたから」


 なるほどそういうことか、苗字よりも名前の方が耳馴染みがあるのなら柊野さんの苗字ではなく名前を連想するのは不可解ではない。


「それでミチルはどうしてここに?」


「どうしてって、ただ霧島さんのお見舞いに来ただけよ」


「なんで、あたし病気じゃないのに?」


 蘇芳は健康体の自分の見舞いになぜ柊野さんがやってくるのか不思議そうだった。病気の見舞いじゃなくて、不登校をしているお前の様子を見に来ただけだよとつっこみたかったが、場の雰囲気を悪くしそうなだけなので黙っておくことにした。


「まぁなんでもいいや、ここまでご足労いただいた訳だしコーヒーくらい奢るわ。ウチまで案内するからついてきてよ、ミチル」


「あ、はい……」


「それから常葉、ミチルの相手をしなくちゃいけないからこれ持って」


「え、ちょっと!?」


 ラング・ド・シャは蘇芳の自宅ではなく厳密には彼女の姉とその恋人の家であったが、蘇芳は寝起きしている家まで柊野さんの案内することを申し出る。柊野さんは不登校をしている割に友好的な対応を見せる蘇芳に戸惑いながら生返事をし、蘇芳は適当な口実を見つけたのを悪用して大量の食品が押し込まれた買い物袋を僕に押し付けてきた。


 今日は寄らずに直帰するつもりだったのに、結局ラング・ド・シャに立ち寄る破目になってしまったことを皮肉に思いながら、僕は蘇芳と柊野さんの後に続いて店まで歩く。


 しかし肩が千切れそうなほどの重さがある買出しの品を店まで運んだ礼に、店の女主人である丹さんからコーヒーを1杯奢ってもらったことは儲け物だった。廃棄寸前の残り物であっても寒い中重たい荷物を担いでここまで来た甲斐はあったと、温かなコーヒーを僕はありがたくご馳走になる。


 相変わらず店の客入りの乏しく、僕と柊野さんの他に客はいない。カウンターでコーヒーを啜りながら僕は奥の席に差し向かいで座っている蘇芳と柊野さんの様子を一瞥した。


「おいしい」


「そうでしょ、見た目はぱっとしなくてもまこねえの作る料理は絶品なんだから」


 コーヒーと一緒にお茶菓子として出されたフルーツケーキを一口食べると、柊野さんは口の中に広がる程よい甘さによって少し固い面持ちだった表情を和らげる。一言余計なことを言いながら、蘇芳はお姉さんの料理を自慢げに絶賛した。


「…霧島さんはお姉さんのお店の手伝いをするために学校を休んでいるんじゃないよね?」


「違うよ、あたしが学校を休んでまで手伝わなくちゃいけないほどここ忙しくないもん」


 遠慮がちに柊野さんが切り出した話に、蘇芳は素っ気無い調子で首を横に振る。


「病気している訳じゃないし家の手伝いをしている訳でもないのなら、どうして学校を休んでいるの? 自分が委員長をしているから持ち上げる訳じゃないけど、ウチのクラスはみんな仲いいしクラスの雰囲気そんなに悪くないと思うけど……」


「だってあそこは本当のあたしでいられない場所だもん」


「そんなことないよ、みんなちゃんと霧島さんのことを分かってくれるよ」


「そういうミチル自身が、あたしを霧島さんって言ってる時点で本当のあたしを分かろうとしていない」


「えっと…それじゃマナちゃんって呼んだ方がいい?」


「あたしはマナじゃない、その名前で呼ばれるくらいなら他人行儀に霧島さんって呼ばれた方がずっとマシよ!」


 柊野さんは蘇芳が何故学校に来ないのかという理由を聞き出そうと試みるが、蘇芳はいつもの屁理屈を並べるばかりで取り付く島がない。挙句の果てに柊野さんが親しみを持てるように下の名前で呼ぶことを提案すると、蘇芳は戸籍上の名前を自分の名前ではないと言い張って相手を怒鳴りつける始末だった。


「ご、ごめんなさい……」


「柊野さんが謝ることないよ、むしろ謝らなくちゃいけないのはお前の方だ」


 蘇芳は切れ長の目を険しく細めて本気で怒っているらしく、柊野さんはその剣幕に気圧されて反射的に謝罪の言葉を述べる。しかし彼女たちのやり取りを見ていても、蘇芳に非があるのは明らかで柊野さんがあいつに謝るのは間違っている。


 いてもたってもいられなくなった僕は柊野さんの擁護をするために、蘇芳と彼女の間に割って入った。


「はぁ、なんであたしがミチルに謝らなくちゃいけないのよ?」


「ふざけるのも大概にしろよ。せっかく柊野さんが苗字じゃなくて名前で呼んでくれるように気を利かせてくれたのに、自分がマナじゃないなんてどういうつもりだ?」


「どうもこうも、あたしはマナじゃないってだけよ。役所の戸籍に登録されている名前は現世で生きていくために必要な便宜的なもので、あたしの本当の名前は蘇芳なんだから」


 蘇芳は怒りの矛先を柊野さんから僕に変えて、不機嫌そうな顔で睨み付けてくる。蘇芳に邪険な目つきで見られたのは初めての経験であり、年下の女の子とは思えないくらい蘇芳の眼光には眼力があった。しかしここで圧倒される訳にもいかず、僕は毅然とした態度で柊野さんへの謝罪を蘇芳に求めた。


 すると蘇芳は訳が分からないことを口走って自分の正当性を主張してくるが、今の僕にあいつの詭弁を聞き流してやるだけの寛大さはない。このへんで一度ガツンと言っておかないと、ますます蘇芳を付け上がらせることになってしまう。それは周りの人間だけでなく、あいつ本人のためにもならない。


「何が現世で生きていくために必要な便宜的な名前だよ、お前自身がどう思おうと公的には霧島マナがお前の名前だ。自分が吸血鬼の娘だとか本当の名前は蘇芳だとかっていう作り話の世界に浸ってないでいい加減目を覚ませよ、この大ボラ吹き!」


 蘇芳を強制的に現状と向き合わせるため、僕は彼女がうそぶいている全てが妄想でしかないと一蹴する。自分でも言い過ぎたと感じていたが、これくらい強気で接しないといつまで経っても蘇芳は学校に戻りはしない。だから心を鬼にしてきついお灸を彼女に据えることにした。


 僕に一喝されて現実に引き戻された蘇芳は俯いて、自分が拠り所にしていた絵空事を粉砕されたショックに呆然とその場に立ち尽くしている。吐き通してきた妄想が崩れ去った喪失感に苛まれているのか、蘇芳の手は忙しなく震えて宙を彷徨っている。


 そして虚空を泳いでいた蘇芳の右手が留まった場所は僕の左頬だった。拳を固めた蘇芳は逆上した勢いに任せて、思い切り僕の顔面を殴りつけてくる。目の前に星が瞬いたように感じながら、蘇芳の右ストレートをモロに食らった僕はなす術もなく床に倒れこんだ。


「ウソなんかついてない! あたしは200年近く生きている吸血鬼の忠将ただまさの娘で、蘇芳って名前は忠将と死んだお母さんが一緒に考えてくれた名前よ! これは本当の話なのにどいつもこいつも笑い話にしか思ってくれない。結局あんたもそうやってあたしの言っていることを信じないで、馬鹿にするだけの奴らと一緒よ。そんなあんたは二度とあたしの前に顔を出すな!」


 床に倒れ臥して視界が暗転したまま、蘇芳は嗚咽交じりの怒号を僕に浴びせてくる。吸血鬼の娘という点はともかく、蘇芳という愛称の由縁はありえない話ではないと朦朧とした意識の中で僕は感じる。ここまで本気で言われると、蘇芳の話は全部嘘と言い切ってしまったことに後ろめたさを僕は覚え始めた。


「蘇芳!」


「霧島さん!」


 駆け足で遠ざかっていく足音と共に、蘇芳の上のお姉さんの丹さんと柊野さんが銘々蘇芳のことを呼び止めようとする。しかしバタンと荒っぽくドアが閉められる音が店内に響くと、階上でどたどたと大きな足音がした。


 どうやら僕を殴り倒し絶交を告げた蘇芳は、店の2階にある居住区画に駆け込んでしまったらしい。蘇芳を改心させるどころか火に油を注いだだけの結果を思い、僕は強打された痛む頬を歪めて苦笑する。


 やっぱり喧嘩の仲裁とか思い直させるための説教とか、柄にもないことをすると碌な目に遭わないみたいだ。



Boiling 了


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