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ラング・ド・シャ  作者: 三畳紀
2杯目
6/12

6、Consultation

「カミオカ先生……」


「カミオカじゃなくて上鳥羽かみとば。顔を合わせるのは1ケ月半ぶりくらいだけど、元気そうでよかったよ」


「学校の名簿にある住所はまこねえの実家のはずなのに、どうしてあたしがここにいると分かったんですか?」


「君の上のお姉さんと仲のいい知り合いから君がここにいるって話を聞いてね、それで尋ねてみたんだ」


「まこねえと仲のいい人ってカンナさんのことですよね、カミオカ先生が高校から付き合っている彼女の」


「え、まぁそうだけど…とにかくこうして久々に面会できたんだ、君が学校に来やすくなるように話をさせてくれないか?」


 僕の実兄である担任教師の名前も正しく覚えていないことから、どれだけ蘇芳が学校に関心を持っていないか明らかになった。学校の名簿上にある住所や電話番号では蘇芳に連絡がつかず、痺れを切らした兄貴は丹さんと仲のいい自分の恋人のつてを頼って蘇芳がここに潜伏していることを探り当てたらしい。


 気付くと僕は世間の狭さを知ると同時に、担任のクラスに不登校の生徒を抱えた兄貴の苦労を垣間見る場面にたまたま居合わせてしまっていた。


「兄弟揃ってあたしを学校に行かせる説得をしようなんて、正直ちょっと鬱陶しいんですけど……」


「え、もしかして霧島さんとお前は知り合いなのか?」


「店で顔を合わせた時に話をする程度にはね。それと一応丹さんと来栖さんから蘇芳さんの相談相手を頼まれているよ」


「じゃあ最近お前の言ってた少し変わった子って霧島さんのことだったのか?」


「そういうことになるね」


「ちょっと常葉ときわ、少し変わった子ってどういう意味よ」


「言葉通りの意味だよ」


 蘇芳は僕と兄貴の話を聞いて憤然とするが、むしろ少し変わったで留めていることに感謝して欲しいくらいだった。


「蘇芳、せっかくいらしてくれた先輩、いえ担任の先生にもコーヒーくらい出すのが礼儀じゃない?」


「別にコーヒーを出すのはいいけど…あたしは学校に行くつもりはないからね」


 葵さんはついさっきまで蘇芳と子ども同士のような口論を繰り広げていたことが嘘のように澄ました態度で、大学の先輩でかつ妹の担任である兄貴にコーヒーを1杯出すように言いつける。


 蘇芳はコーヒーの用意をすることは億劫に感じていないようだったが、断固として登校する意思がないことを主張してキッチンに入っていった。


「散らかっておりますけどお席にどうぞ、先生」


「ゼミの後輩だった君に先生と言われるのはちょっと歯痒いなぁ」


 葵さんが席を兄貴に勧めたので、僕は奥に詰めて兄貴の座れるスペースを作る。兄貴はゼミの後輩だった年下の美人の前に、少し照れくさそうな様子で腰を下ろした。


 兄貴が僕らのテーブルに同席して間もなく、携帯電話の着信音が鳴り始める。着うたや洒落た音楽ではなく初期設定の電子音を奏でていたのは、やはり流行に敏感そうな葵さんではなく兄貴の携帯電話であった。


「もしもし…え、いや…そんなことないよ」


 電話に出た途端、何故か兄貴の顔が引き攣り始める。微かに受話器から聞こえてくる相手の声はどうやら女性のものらしく、何やら兄貴を捲くし立てているような強い語気であった。


「今は担任をしている霧島さんの下の妹さんの所で面談をしているだけさ…うん、そう、確かに喫茶店にはいるけれど向かい合っているのは霧島さんの上の妹さんで別にそういうんじゃないから…分かっているって、今度の日曜はちゃんと開けておくから、じゃ」


「…もしかして今の電話、カンナさんから?」


「ああ…どうしてカンナは俺が他の女性と一緒のテーブルに座る度に毎回タイミングよく電話をかけてくるんだろう? これだけ束縛されていたら、浮気なんか出来る余裕があるはずないのに……」


 兄貴の発言の内容からさっきの電話は兄貴が長年付き合っている恋人からのものだと検討をつけると、兄貴は酷く疲れた顔で弱々しく首肯する。


 兄貴が高校の時から付き合っている彼女と僕も面識があり、その彼女は兄貴がこんな風に自分以外の女性と一緒に食事をしているだけでどこからか監視しているようにすぐに浮気をしていないかと電話をかけてくるのだった。


 兄貴の彼女さんは悪い人ではないと思うけど、異常なほど束縛が強い所には兄貴だけでなく弟の僕も閉口している。心配しなくても兄貴が浮気を出来る甲斐性なんてあるはずなのに、どうして杞憂を募らせるのか理解できなかった。


「お待たせしました」


 兄貴が彼女との電話で神経をすり減らしているうちに、コーヒーを淹れた蘇芳が兄貴の前にコーヒーカップを置く。丁寧にソーサーを添えたカップに音を立てさせず、注がれた中身も揺らさずに置いた辺り、頑なに登校を拒んでいる学校の担任で名前すら碌に覚えていなくても、蘇芳は一応兄貴を客人としてもてなしていることは覗えた。


「ありがとう…うん、仕事の疲れが溜まった体には沁みる1杯だね」


 暖かな湯気と芳醇な香りを立てるコーヒーを一口啜ると、兄貴は心労の原因のひとつとなっている教え子に労いの言葉をかけた。


「どういたしまして、それじゃあたしはこれで……」


「待ちなさい蘇芳、先生を放り出してどこにいくつもりかしら?」


「…ちょっとトイレに」


「上手いこといってこの場から逃げ出すつもりでしょ、いいからここに座りなさい!」


「痛っ、あおいねえお願いだから髪は引っ張らないで!」


 兄貴にコーヒーを出し終えると蘇芳は軽やかに身を翻して奥の扉から二階にある居住スペースに逃げ込もうとするが、妹の行動を目敏く察した葵さんは蘇芳の緩く編んだ髪を掴んで強引に彼女をその場に引き留める。


 髪の毛を引っ張られた痛みで目に涙を浮かべながら、蘇芳は観念した様子で葵さんの隣に空いている奥の席に座った。


「すみません先生、ただでさえお手を煩わせているのに愚妹がこの期に及んで余計な迷惑をおかけしようとして」


「いえ、お気になさらずに…霧島さんは妹さんのことをよく目にかけているみたいだね」


「はい、この子ったら小さい頃から落ち着きがなくて生意気で」


「自分のことを棚に上げてよくいうよ。いつきさんもあたしのことをあおいねえよりは聞き分けがあるって…ご、ごめん冗談です!」


 僕や蘇芳の前では非常に横柄に振舞っていた葵さんは、大学の先輩でしかも今は妹の担任である兄貴の前では猫を被って上品そうに取り繕う。そんな葵さんの態度に蘇芳が辟易した様子で憎まれ口を利くと、葵さんはテーブルの下でこっそりとブーツの踵で妹の向こう脛を蹴飛ばして黙らせた。


「それじゃ霧島さん、改めて話をさせてもらおうかな。ご家族や俺の弟とも話をして分かると思うけど、やっぱり君は学校に来るべきだと思う。君が学校生活を送る上で問題があるのなら、出来る限り俺も担任として解決出来るように協力するから」


「教科書通りの言い回しですね、先生」


「蘇芳、先生に失礼なこと言うんじゃないよ。先生、申し訳ありません」


 兄貴は一呼吸置くと、自分のクラスにいる不登校生徒に通学を呼びかけ始めた。案の定その不登校生徒は担任の話に聞く耳も持たずに減らず口を利くと、生徒に代わってそのお姉さんが担任教師に謝罪する。


「確かに額面通りのことを言われても、本当に自分のことを心配してくれているのかって疑問に思うのは当然だよね。でも俺は担任としての義務感だけじゃなく、2人のお姉さんと知り合いっていうことも合わせて君の将来のためにも学校に来て欲しいんだ」


「兄貴……」


「先輩……」


 兄貴は蘇芳の皮肉が正論であることを素直に認めると、今度は担任教師としての責任だけではなく彼女の身内と関わりを持つ一個人としての立場も合わせて説得を試みた。


 珍しく熱の籠もった兄貴の一言に僕だけでなく、葵さんも感銘を受けたようだった。


「口先だけでは何とでも言えるし、例え先生がまこねえやあおいねえと仲良くてもあたし個人とは担任と問題児ってだけじゃない。ほとんど無関係な人から心配されていると言われても、実感持てないよ」


 しかし蘇芳が小声で呟いた一言は兄貴の説得にほだされかけていた僕だけでなく、彼女を囲んでいる葵さんや兄貴の胸にも深く突き刺さった。確かにまともに付き合いもない他人から心配されていると言われても、それに素直に感謝するのは難しい。まして自分が忌み嫌っている学校の関係者から言われれば尚更だろう。


 図太く他人の言葉に流されないようで意外と繊細な所を蘇芳が持っていると、何度か顔を合わせているうちに僕は薄々感じるようになっていた。思春期の硝子のように脆く鋭敏な蘇芳の気持ちを慮ってか、兄貴も葵さんも彼女を学校に通わせようとする姿勢が引けてしまっているようだった。


「先生があたしのことを考えてくれるって言ってくれる気持ちはありがたいけど、やっぱり心からあたしのことを心配してくれると感じられるのはあおいねえやまこねえたち家族だけ」


「蘇芳……」


 蘇芳は兄貴が自分のことを考えてくれたことに礼を言いつつ、自分の理解者はやはり身内しかいないと述べる。妹が信頼できる数少ない存在として葵さんの心境は単純に学校に行くよう勧めるだけの僕や兄貴よりもずっと複雑なはずであり、そのことは葵さんが戸惑いを浮かべている顔からも明らかだった。


「けど家族の中でもあたしのことを一番に分かってくれるのは、やっぱ本当のお父さんの忠将ただまさだよ。だって忠将は嫌なら無理に学校に通わなくていいって言ってくれたもの」


「それは小学校に入学したばかりの話でしょう、自分の都合のいいように忠将さんの好意を解釈するんじゃない!」


「人間のあおいねえに、吸血鬼の娘のあたしの気持ちを完全に分かるはずないよ」


「だったら姉さんはどうなのよ、アタシには出来なくても忠将さんと同族の姉さんならアンタの気持ちが分かるんじゃない? そして姉さんもアタシや先輩と同じようにアンタに学校に行くように言ってるでしょう?」


 場の空気は蘇芳の一言でしんみりした雰囲気になりかけたが、その潮流をぶち壊したのも彼女の発言だった。同居しているお姉さんの丹さんや実の父親だという忠将という人が吸血鬼であり、自分は吸血鬼の娘などという妄言を言い張る蘇芳に僕や兄貴は呆れ返る。


「ま、まこねえは吸血鬼の中でも人間ぽさが抜けてない変わり者だから……」


 蘇芳は父親の同胞である丹さんが人間の兄貴や葵さんと同じことを言うのは、人間的な感覚を失っていない変わり者の吸血鬼だと苦しい言い逃れをする。


「ふざけたことばかり言ってないで明日から学校行きなさい、いいわね!」


「やだ、あたしを蘇芳と認めてくれるまで絶対に学校には行かない!」


 一旦は静まった霧島姉妹と蘇芳の担任である兄貴の三者面談は、面談が始まる前と同じく姉妹喧嘩に行き着いてしまう。息つく間もなく延々と罵詈雑言が葵さんと蘇芳の双方から吐き出され、僕と兄貴は暴言の嵐に圧倒されるばかりだった。


だが兄貴は年長者としての責任を感じて、霧島姉妹の喧嘩の仲裁に入りどうにか2人を宥めることに成功する。だが霧島姉妹の言い争いに収拾をつけると兄貴は気力を使い果たしてしまい、結局それ以上蘇芳に登校を呼びかけることができないまま僕と一緒に帰宅の途に就いた。


「やっぱり駄目だったか…どうすれば霧島さんを学校に来させることが出来るんだろう?」


「兄貴一人であの偏屈な奴をどうこうするのは無理だよ、丹さんたちに協力してもらうしかないんじゃないか?」


「いや、同級生だった長女の霧島さんや彼女と同棲している来栖には夏休み前に相談している」


 帰り道、兄貴とまともに話すのは久し振りと思いながら蘇芳をどうやって学校に行かせるかを思案しあう。僕が兄貴一人で全部抱え込まずに、蘇芳を自宅に住まわせている丹さんと同居人の来栖さんに協力を頼むべきと提案すると、既に兄貴は彼女たちに助力を仰いでいたらしかった。


「丹さんたちに相談しても駄目だったの?」


「ああ。相談した当時から霧島さんは学校を休みがちで、同級生だった霧島さんのお姉さんや来栖もそのことを気にかけていた」


「そうなんだ」


「でも相談してからしばらくすると、来栖の奴が霧島さんをパジャマのまま担いで学校まで運んでくるようになった。本人に行く気がないのなら、家のモンが無理矢理連れて行くしかないだろうって言ってな。1週間ばかりそんなことが続いたが、来栖が学校の敷地内に霧島さんを置いてきても、霧島さんは裸足で家まで駆け戻ってしまうだけだったからさすがに来栖も根負けして無理矢理彼女を連れてくるのは止めた」


「…来栖さんも蘇芳も無茶苦茶だな」


 屈強な体格をしている来栖さんが猫の子の首根っこを摘み上げるように蘇芳のことを担いでいる姿も、パジャマ姿で猫のような軽やかさで家に舞い戻ろうとする蘇芳の姿も容易に想像できた。そしてそんな珍妙な行いをする来栖さんも蘇芳も、甲乙つけがたい変わり者だと僕は結論付けた。


「そういえばさ、どうして霧島さんのことをみんな蘇芳って呼んでいるんだろうな?」


「蘇芳ってあいつの名前だろ、親しい人が呼び捨てにするのに何もおかしいことはないじゃないか」


「違うぞ常葉、霧島さんの名前は蘇芳じゃなくてマナって言うんだぞ?」


「え、それってどういうことだよ?」


 兄貴が至極当然のことを不思議がる方が奇異に思えた。でもてっきり名前だと思い込んでいた蘇芳という呼び名が彼女の名前でないことを聞かされると、僕は兄貴がそのことに疑念を抱いたことに合点がいく。


 あいつの2人のお姉さんの名前はどちらも色に関係するものであり、蘇芳という名前もその繋がりで自然なものと思い込んでいた。しかし実の姉妹ではなく養子らしいあいつの名前がお姉さんたちの名前と関連性を持っているのは不自然に思えてくる。


 蘇芳、いや厳密には霧島マナと呼ぶべきあの風変わりな少女の素性を冷静に考えてみると、いくつも腑に落ちない点があることに僕は気付く。一体彼女は何者なんだろうと疑問に思い出すと、一笑にふしていた吸血鬼の娘という肩書きに少しだけ、いくつも0が連なった小数点以下の値が一桁増した程度に信憑性が増したような気がした。



Consultation 了


 

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