3、Pitfall
二階建てになっているラング・ド・シャの建物の一階は喫茶店のフロアとキッチンで埋まっていて、丹さんと蘇芳さんそれに来栖さんの住まいになっているのは二階部分だけだった。
喫茶店スペースの裏になっている部分に入った時に靴を脱ぐべきかどうか判断に迷ったが、蘇芳さんがスニーカーのままで階段を登っていくのを見て外履きのままで上がっていいのだと察し彼女の後に続く。
「事務所として使われていたものを改築したものだから、靴のままで大丈夫だよ」
「分かりました、お邪魔します」
階段を登った先にある扉の前でも靴を脱ぐべきかどうか戸惑っていたが、先に室内に入っていた蘇芳さんが僕に一声かけてくれる。
年季を感じさせる木製の扉に取り付けられた真鍮のドアノブを捻って入った丹さんたちの住居は、ラング・ド・シャの店内と同じく綺麗に片付けられていた。玄関を入った場所がリビングになっているようで、壁際に置かれた液晶テレビを囲むようにソファがL字に配置されている。少し窓枠が小さいことが気になったが、もう夕方だし壁紙は染みや黄ばみのない状態で嫌な感じはしなかった。
「適当に座ってて、今お茶を出すから」
「ありがとうございます」
壁の向こうにある炊事場にいる蘇芳さんから椅子を勧められると、僕は遠慮なくソファに座らせてもらう。量販店で売っていそうな合成皮革のソファの上には明るい柄のクッションが敷かれていて、その庶民的な佇まいが初めて訪れるこの家でも落ち着きを与えてくれる。
「はい、どーぞ」
蘇芳さんは円形のトレイの上に烏龍茶の注がれたグラス2脚とクッキーなどを適当に盛り付けた皿を乗せてリビングにやってくると、グラスと皿をやや乱雑にテーブルの上に並べていった。
仮にラング・ド・シャの店内で同じように食器を置いたら客からのクレームがあってもおかしくない対応で、他人事ながら僕は彼女がフロアに出ることに一抹の不安を覚える。
「そういえばさ常葉って幾つ、高校生?」
「今高1ですけど蘇芳さんは?」
「あたしは中2」
「やっぱり年下だったんだ」
年齢を訊かれたので正直に答えつつ年齢を聞き返すと、案の定彼女は中学生だった。現役の中学生ならば中二病にかかってもそれほど痛々しくはないと思いかけるが、十代半ばにもなって吸血鬼の存在を信じているような発言をするのはやはり芳しくないと思う。
「戸籍の上では中二だけどあたしホントは17歳なの、だから常葉よりも年上だよ」
…うん、冗談抜きにこの歳にもなってこんな痛い発言を繰り返すことは問題だ。できることなら付き合いたくない人種の子だけど、無碍に断ったら来栖さんに何をされるか分からないし、最悪二度とラング・ド・シャの敷居を跨げなくなりそうなので、腹をくくって少しでも彼女を現実に引き戻すよう試みてみることにする。
「ええと蘇芳…さん?」
「呼び捨てでいいよ、あたしも常葉のことを呼び捨てにするから」
一応相手を立てて敬称を用いようとすると、自称17歳の重度の中二病患者の中学生は寛大な態度で高校生に呼び捨てで呼称することを許可する。
「それじゃお言葉に甘えて。ねえ蘇芳、君もいろいろ大変な経験をしたみたいだけどだからってお姉さんたちを困らせ続けるのはよくないんじゃないかな?」
「まこねえたちを困らせてなんかいないよ、むしろ力になっているんじゃないかな」
一言断りを入れると僕は込み入った家庭の事情があるにしても、それを理由に不登校になったり奇矯な発言を繰り返したりするのはよくないから、お姉さんたちのことを考えてまともに生きてあげるように説得を試みる。
だが蘇芳は自信満々といった様子で自分が丹さんたちの重荷にはなっておらず、逆に今日のように店が忙しくなった時に手助けをして支えていると即答してきた。
「…それでもさ、やっぱり君が普通に学校に通ってあげるほうが丹さんたちも嬉しいんじゃないかなぁ」
開始早々折れそうになった心をどうにか奮い立たせて、僕は自身も悩める高校生にも関わらず問題児の更生を試みる。
「常葉はなんで居心地が悪いのに学校に通うの、自分は全然楽しくないのに親のご機嫌取りのために無理して行ってんの?」
諦め半分で言った僕の提案を聞き流すと、蘇芳は意外と鋭い切り返しをしてくる。おかしなことばかり口にしているけれど、実際のところ彼女の頭はそんなに悪くないと思う。ただ考え方のベクトルが一般常識から若干、いやかなりずれているだけなのだろう。
「学校が楽しくないわけじゃないさ、友達だっているし授業だって嫌いじゃない。それに立ち回り方を間違えなければ嫌な思いをしなくても済むって分かったし」
「やっぱり無理してるじゃない、そんな風に他人の顔色覗いながら毎日過ごしても心から楽しめる訳ないじゃん。そのうちどっかでガタが来るよ?」
「わかったような口を利くなよ。不登校で年甲斐もなくいるはずのない吸血鬼のことを信じているような現実とアニメの世界の区別もつかない子どものくせに!」
学校に通わず妄想の世界に逃げている自分のことは棚に上げて、僕のことを全部見通しているようなことをいう彼女に腹が立ち、僕は思わず感情的になってしまう。年下の女の子相手に情けないと思ったが、吐いてしまった暴言はもう取り消せなかった。
「…ごめん、やっぱり僕なんかじゃ君の相談相手にはなれない」
蘇芳の顔を見る勇気が沸かず、僕は俯いて彼女から目を背けたまま席を立つ。同級生どころか中学生にも馬鹿にされるような奴が、人生相談なんて出来るはずがなかった。
自分の不用意な一言のせいでいきなり相談に失敗してしまい、蘇芳のお姉さんである丹さんが開いているラング・ド・シャにも来づらくなってしまうことに今更後悔する。丹さんの柔和な笑顔だけでなく、来栖さんの仏頂面も見られなくなると思うとなんだか寂しい気がしてならなかった。
「ねえ常葉、あんたが言ってたクラスの人たちから白い目で見られたことって何?」
項垂れたまま玄関の前までやってきた僕の背中に蘇芳が無神経な質問を浴びせてくる。
「言いたくないよ、よく知りもしない人にそんなこと教えるはずがないだろう?」
「常葉はあたしの話を聞いたのにあんたのことは教えてくれないなんてずるい」
一方的に話を聞くだけで帰るのは卑怯だと責められると、なんだか良心が咎めてきてドアノブに伸びた手を引き戻してしまう。
「それでも言いたくない、聞いたら君だって僕のことを変な目で見るに決まっている」
「あたしは強力な吸血鬼忠将の娘だよ、ちょっとやそっとのことじゃ驚いたり常葉のことを変に思ったりしないから安心して」
はっきりと蘇芳に僕の秘密を打ち明ける意思ないことを示してこの部屋から出て行こうとするが、またも彼女が口走ったおかしな発言に出鼻を挫かれてしまう。
よく恥ずかしげもなく強力な吸血鬼なんて言葉を口に出せるものだと噴き出したくなる一方で、その恥じらいのなさが自分よりも年上で体格も大きい来栖さんに臆せずに接することが出来る蘇芳の胆力に繋がっているのではないかと思った。
「いいからさ、あんたが隠していることをあたしに教えなさいよ」
ドアの前で立ち往生しているうちに、いつの間にか目の前に蘇芳が詰め寄っていた。彼女が僕の左腕を掴んで自分に正面を向くように引き寄せてくると、僕はされるがまま体の向きを変えられて蘇芳と対峙してしまう。
「もう逃げられないよ、大人しくあんたの秘密を白状しなさい」
丸顔のせいで子どもっぽく見えたが、蘇芳の身長は中学生の女子にしては低くない。底が平坦なスニーカーを履いているのに目線の高さはそれほど僕と変わらなかった。
若干上目遣いで僕の顔を見上げてくる蘇芳の瞳の色は薄く、ぱっちりと開いた眦と合わせて猫のような印象を覚える。その印象のせいで一瞬蘇芳の瞳孔が猫のように縦長に伸びているように錯覚してしまった。もちろん目を凝らしてみると彼女の瞳孔は普通の人間と同じように円形だった。
「…僕は陰陽師の末裔なんだ。時を重ねるうちに陰陽師の役職を失うどころか禁中への出入りもしなくなっていつの間にか普通の人になっていたけど、先祖が陰陽師だったってことを示す家計図だけはしっかりと残っている」
蘇芳の猫のような目に見られているうちに、僕は自然と学生生活をつつがなく乗り切るためにひた隠しにしていたことを語り始めていた。だが僕の話を聞いて蘇芳がどんなリアクションをするのか見るのが怖くて、視線は床に向けて彼女の顔を見ることができなかった。
「へぇ、それじゃ常葉は霊感強いの?」
「全然、幽霊や妖怪なんか見たことないし超能力が使える訳でもない。そもそもそんなもの作り話のなかだけのものに決まっていると僕は信じているのに、陰陽師の子孫ってことをダシにして周りは茶化してくる。むきになって怒ると、念力で復讐されるとか呪いをかけられるとか言いながら散り散りに逃げていくんだ」
蘇芳の質問に対して僕は首を横に振りながら、自分に超常的な力など一切備わっていないことを告げる。いっそ本当に念力や呪いが使えたらどんなによかっただろう。でも見たくもない幽霊や妖怪を見えるのは嫌だなぁ。
「その気持ち分かるなぁ。あたしも吸血鬼の娘だって言ったらにんにくを投げられたり、お清めの聖水とか言ってバケツで水をかけられたり、日光に当たって灰になれって長袖のジャージを隠されたりしたから。こっちの抱えているものを面白半分に言われるのはかなりむかつくよね~」
「そうだろ、だから僕は自分が陰陽師の末裔ってことを秘密にしているんだ。知られなければ余計なことを言われることもないから」
君の場合はそんな中二病全開な発言を公言したからであって、自業自得と言いたい気持ちを抑えて僕は自分のルーツを明かしたくない理由を述べる。
「常葉の言い分も分かるけど、何も意地になって隠すことはないんじゃない」
「君は他人事だと思っているからそんなことを言えるんだ」
人の話を聞くだけ聞いておきながら、やっぱりこの重症の中二病患者は僕の気持ちなんて考えていなかった。蘇芳への怒りがふつふつと胸の中で湧き上がってくると、僕は視線を上げて彼女の顔に剣幕を向けようとする。
「だってさ~そういうレベルの低いいじめなんて今時中一だってやらないよ? むしろ先祖が陰陽師だってことが判明している家計図が残っているってことは常葉の家は結構いい家庭なんじゃない。それって社会に出て結婚とかを考える際にはちょっとした肩書きになると思うんだけど」
だが現実と妄想の世界が混在しているように思えても蘇芳も女だった。普通に学校に通っている子達と遜色ない打算的な発言を彼女がするのを聞いて、むしろ小学校時代のトラウマを引き摺っている自分の方が彼女よりも子どもなのではないかと思い始める。
「ぼーっとしちゃってどうしたの常葉、話が済んだなら帰っていいよ?」
「…いや、やっぱりまだ帰らない」
呆然と目の前で立ち尽くしている僕の顔を蘇芳が覗き込んでくると、玄関の扉に背を向けたまま僕は彼女の脇を素通りしてリビングの奥へと戻り始める。
「なんで?」
「丹さんたちに頼まれたことをまだやり終えてないからね、中途半端に投げ出すのはよくないからさ」
蘇芳が僕の横に並んでここに留まろうとする理由を訊ねてくると、僕は横目で彼女を一瞥しながら頼まれごとを完遂する意思を告げる。
「無駄だよ、あたしは学校に行くつもりないもの」
「蘇芳、意地になっているのは君のほうじゃないか。吸血鬼の娘ってことを誇りに思っているのなら周りの目を気にせずに堂々とそれを公言すればいいだろう?」
「吸血鬼の忠将の娘ってことはみんなに言っているよ」
「だったらなおさら学校に行くべきじゃないか?」
「学校に行きたくない理由は吸血鬼の娘ってことを馬鹿にされるのが嫌なことじゃない。どうでもいいことなのに、みんながそれに拘るせいであたしが嫌な思いになることが原因なの」
蘇芳も頑なに自分が学校に行くつもりがないという意思を表明するが、彼女の言葉を借りて彼女自身が自分の存在を隠して世間から逃避しているだけだと指摘する。しかし予想に反して蘇芳が学校に行きたくない理由は吸血鬼の娘と公言したせいで周囲から冷ややかな目で見られることではなかった。
確かに自ら進んで吹聴しているのだから、それをいくらネタにされても蘇芳が気に病む可能性は考えにくい。ならば何が彼女を学校から遠ざけているものなのだろうか?
「その原因って何?」
僕は彼女の足を竦ませ、丹さんたちの悩みの種になっている問題の核心に迫るために諸悪の根源が何なのかを蘇芳に訊ねる。
僕は至って真面目な顔で彼女を直視したし、蘇芳も僕の誠意に応じるように真正面から見返してきた。
「秘密、まこねえたちにも言いたくない事をあんたに教える訳ないじゃない」
沈黙の後、僕の問いかけに対する蘇芳の回答は極めて不実なものだった。蘇芳は小ばかにするように薄くて細い舌を口から覗かせてくる。
身内の丹さんたちにも言えないような悩みを初対面の僕に打ち明けるはずもなかったが、自分の家系の秘密を暴露させられた身としては非常に不愉快であった。
「人の秘密は聞くだけ聞いておいて…そっちがその気ならこっちにも考えがある」
「そうそう、出来っこないミッションは断念するのが賢い選択だよ」
「君が学校に行きたくない本当の理由を話してくれるまで、僕は君の相談を続ける」
「えっ!?」
僕が彼女を学校に行かせるという頼まれごとの匙を投げると蘇芳は考えていたみたいだけど、そうは問屋が卸さない。こっちが余人に明かしたくない秘密を打ち明けたのだから、彼女の抱えている秘密を聞き出さなければなんだかアンフェアだ。
僕が下した選択を蘇芳は全く予想していなかったらしく、虚を突かれたようにアーモンド形の目を丸くしてこちらの真意を確かめようとしてくる。
「さて、そうと決まれば丹さんたちに相談を続けるって了承をもらってこなくちゃな」
「余計なお世話よ。それに中学生に付き纏う高校生ってキモいよ?」
「だって君、ホントは17歳なんだろ。年下を付け回すよりはマシじゃない?」
「と、とにかくあたしはあんたが頻繁にウチに出入りするのは嫌だからね!」
「だったら実家に帰れば、そうすれば僕と顔を合わせることもないだろう?」
蘇芳自身の発言に丹さんたちの希望を合わせた僕の言葉にとうとう彼女は返す言葉に詰まってしまう。散々言い負かされてきた蘇芳が渋面を浮かべるのを見て、僕は彼女に一矢報いた気分になる。
そして僕は階下で仕事をしている丹さんたちに相談を続ける承諾をもらいに、蘇芳たちの住居である二階の部屋を出た。
Pitfall 了