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ラング・ド・シャ  作者: 三畳紀
箸休め
12/12

12、Give me chocolate

 

 毎週月曜日は部活がない代わりにわたしはある場所を訪れている。


 しかしわたしが毎週足を運んでいる場所は塾やピアノなどの習い事ではなく、校区内にある小さな喫茶店である。学校を起点にしてわたしの自宅とはその喫茶店は反対の方向にあったが、店の主人特性のパウンドケーキと1杯ごとにドリップしてくれるコーヒーの味は絶品であり、ほぼ通学の倍の距離を歩くことになるのもさほど苦には思えなかった。


「ミチル~今日は部活も休みだしどっか遊びに行こうよ~」


 放課後、授業を終えて帰り支度をしているわたしの背中に高いトーンの弾んだ声が浴びせられたのに続いて、柔らかなものが纏わりついてきた。


「ごめんルーちゃん、これから霧島きりしまさんの所に行かなきゃならないの」


「あのコは勝手に学校に来てないだけでしょ~何も毎週ミチルが様子を見に行くことないじゃん」


 背中にしがみついてきたルーちゃんのことを振り返り見ると、彼女は自分ではなく登校拒否をしている生徒をわたしが構うことを不服そうに口を尖らせた。色白でフランス人形のように可愛らしい顔をしているためか、不平を漏らしても彼女は様になると思う。


「やっぱりクラス委員として霧島さんを放ってはおけないよ。そうだ、ルーちゃんも一緒に霧島さんの所に行かない?」


「う~ん…ミチルの誘いでも、わざわざあのコの所に行くのはパス」


「気を遣ってくれているのかもしれないけれど、毎週わたしが顔を見に行っても霧島さんは気さくに接してくれるよ。ルーちゃんが来てくれれば霧島さんも喜んでくれるんじゃないかな?」


「自分を吸血鬼の娘だとかイタいことばかり言っているけど、あのコ結構社交的じゃん。街で高校生のグループと遊んでいるみたいだし、学校の近くで北辰ほくしん学園の制服をきた男の子と一緒に歩いているの何度か見たことあるよ。むしろあのコと関わることでミチルに悪影響が及ばないか心配しているの」


 ルーちゃんはわたしのことを心配しているように神妙な面持ちを浮かべて、わたしの腰に回した腕を強く締め付けてくる。


「霧島さんはそんな悪い子じゃないよ。ただ個性的な人だから周りの人に合わせることがちょっと苦手なだけでちゃんと話してみれば印象変わるよ」


「あんなコの肩を持つなんて、ミチルは本当にお人よしだなぁ。でもミチルのそういう所が大好き」


 本人は自分のことを棚に上げて霧島さんに偏見の目を向けているけれど、教室で何の恥じらいもなく後ろからわたしをハグしてくるルーちゃんも充分個性的と言える。わたし自身は地味で全然目立たない存在なのに、どうしてこうアクの強い子たちと関わり合いを持つのだろうと片えくぼを浮かべずにはいられなかった。


「相変わらずおアツいねぇ、おふたりさん。来週のバレンタインはお互いにチョコの交換をし合うんだろう?」


「プレゼントはチョコだけなのかぁ? チョコは飾りでキス、あるいはその先まですることが本物のプレゼントなんじゃねぇのか?」


「本番をする時は連絡してくれよ、カメラ持っていくからよ」


 わたしがルーちゃんに抱きつかれている脇を、髪を染めたり長く伸ばしたりしている男子生徒たちが卑猥なことを言って通り過ぎていく。


父親が暴力団の組長をしている鬼頭きとうくんがリーダーの不良グループの人たちだ。彼らは頻繁に表立った問題を起こしている訳じゃないけれど、裏ではかなりあくどいことをしているらしい。


グループのメンバーはウチのクラスにはいないけれど、学年で確実に五指に入る美人のルーちゃんを目当てにして教室に出入りしていた。


「義理でもいいからオレにもチョコを恵んでくれねぇかなぁ?」


 鬼頭くんが粘着質な眼差しをルーちゃんに向けてきたので、わたしは反射的に体の向きを変えて彼女のことを自分の背に庇った。


「…チョコが欲しいのなら霧島さんにもらう方が嬉しいんじゃない?」


「学校に来てねぇ奴から貰える訳ねぇじゃん。それにあいつ、アタマおかしいじゃん。いくら顔がよくてもあんなのと付き合う気にはなれねぇよ」


 背中に寄り添ってきたルーちゃんの体の震えが伝わってくると、彼女は本当に鬼頭くんのことが苦手なのだと実感する。黙っていれば鬼頭くんはそれなりに格好いいから女の子にはモテるけど、粗暴な言動で敬遠していたり迂闊に付き合ったせいで酷い目に遭わされたりした子も少なくない。


 顔のいい女の子たちはなるべく鬼頭くんに目をつけられないように不安を抱えていたけれど、1人だけ彼に怯えるどころか正面から喧嘩をしかけた女の子がいた。それが昨年の秋から不登校を続けている霧島さんだった。


「バレンタイン当日は期待してっから、それじゃ」


 鬼頭くんはルーちゃんに目配せをしてチョコの催促をしてくると、取り巻き連中を引き連れて我が物顔で廊下に出て行った。下校していた生徒たちは鬼頭くんのグループが近づくと脇に退いて道を空ける。


 わたしは無性に不良の彼らが好き勝手振舞うのを黙認している自分に腹が立って仕方がなかった。


* * *


 学校から南に歩いて15分ほどの距離にある喫茶店ラング・ド・シャ。素朴だけど美味しい料理と芳醇な香りを立てるコーヒーが自慢のこの店は、どういう訳か万年閑古鳥が鳴いていた。


 もっと日の目を見てもいいと思いつつ、わたしは密かにこの店の隠れ家的な雰囲気を気に入っていた。ならず者たちと接してささくれ立った心が温かいコーヒーと程よい甘さのパウンドケーキを口にすることで癒されると感じる。


「ふーん、ミチルもいろいろと大変だねぇ」


「本当に鬼頭くんたちにはみんな困っているわ……」


「カミオカ先生に相談…しても駄目か。あんな弟の常葉ときわにそっくりのヘタレで、彼女に頭の上がらない人が問題児をどうにかできる訳ないよねぇ」


 学校中のみんなが鬼頭くんたちに手を焼いていることにわたしが溜息を吐くと、霧島さんは担任の先生だけでは彼らを抑えられないだろうと嘆息する。


だがかくいう自分自身が毎回名前を言い間違えている担任の上鳥羽かみとば先生の悩みの種の1つであることを霧島さんは失念しているらしく、わたしは若干複雑な心境だった。


「もしかして霧島さんが学校に来ない理由って鬼頭くんたちに関係してない? ほら、前に霧島さんも鬼頭くんにちょっかいかけられていたじゃない」


「鬼頭って髪の毛を真っ赤に染めている奴だっけ? 絡まれてウザかったから、ウラナリみたいに青い顔しているのに髪の毛を赤く染めているのは冗談のつもりって言ったら、それ以来態度を変えて嫌がらせをしてくるようになったっけ」


 鬼頭くんは燃えるように赤く髪を染めていたが、肌の色は不健康な感じの白をしている。霧島さんの例えにわたしは一瞬噴き出しそうになったが、どこかで鬼頭くんたちがこの話を聞いているような恐怖を感じて笑いを抑えた。


「じゃあ霧島さんが学校に来なくなっちゃったのも鬼頭くんたちのせい?」


「ううん違うよ。赤毛のウラナリの嫌がらせはムカついたけど、仕返しにペンキを頭にぶっかけてやったりベルトを引っこ抜いて教室でズボンをずり下げてやったりしてたからそれが原因じゃないわ。まぁ、学校に行くたびにあいつと喧嘩するのが面倒になったのは一因だけど」


「そういえばそうだったね……」


 みんなが怖がっている鬼頭くんを邪険にあしらって以来、霧島さんは彼らから嫌がらせを受けるようになっていたが、彼女はたった一人で果敢に立ち向かっていっていた。見方によっては鬼頭くんたちへの仕返しを口実に、霧島さんが彼らに性質の悪い悪戯をしているようにも思えなくもなかったことを思い出す。


「ああいう調子に乗っている奴にはね、ガツンと言ってやった方がいいのよ。何も言わなかったらますます逆上せるんだから」


「でも鬼頭くんのお父さんは暴力団の組長なんだよ。もしお父さんが出てくるようになったら……」


「あのウラナリなら親に泣きつくこともありえるけれど、子どもの喧嘩に首を突っ込むようなヤクザだったら器のタカが知れているわ」


 鬼頭くんの後ろ盾に暴力団があることを知っても、霧島さんはそれを微塵も恐れてはいないようだった。中学生では自分の遊び相手には子どもっぽ過ぎて面白くないと以前彼女は言っていたけれど、虚勢ではない彼女の豪胆さを考えるとその発言に真実味が帯びてくるような気がしてくる。


「…霧島さんは強いね」


「当たり前でしょう、あたしのお父さんは200年近く生きている吸血鬼なんだよ。怒らせたら街のチンピラなんか話にならないくらい怖いんだから」


 わたしが彼女の胆力を賞賛すると、霧島さんは誇らしげな顔で頷き返す。


「そういやもうすぐバレンタインだね、ミチルは誰かにチョコを渡すの?」


「友だちに何人か、その中に男の子はいないんだけど……」


「友チョコって奴ね、でも渡す相手は選んだ方がいいわよ。あのルーちゃんって子は本命だと真に受けそうだから。ミチルにレズの気はないでしょう?」


 羨望の眼差しで緩く編んだ髪をした霧島さんの顔を眺めていると、彼女は唐突に話題を変えてくる。チョコを渡す相手に異性が含まれないことを少しだけ我ながら情けなく感じるが、霧島さんは真顔でチョコを渡す相手は選別した方が忠告してきた。


「そ、それはそうだけど…でもルーちゃんは大切な友だちだし、あげない訳にはいかないよ」


「仲がいいのもほどほどにね、あんまり優しくすると傷つくのはあの子だから」


「霧島さんは誰かにチョコをあげる予定はあるの?」


「あるよ。忠将ただまさいつきさん、紅子さんにまこねえとあおいねえとクーくんと、それから常葉にも恵んでやろうかな。どうせお兄さんの彼女のカンナさん以外からチョコをもらえる見込みはないんだし」


 霧島さんは訳知り顔でわたしとルーちゃんの関係を気遣ってきた。そういう彼女の交友関係はどうなのかと訊ねてみると、霧島さんは指折りして自分の類縁者の名前を述べた最後にこの店でアルバイトをしている高校生の名前を挙げた。


「霧島さん、上鳥羽さんと仲いいんだね」


「仲がいいっていうか、腐れ縁みたいな感じ? でも常葉の奴、あたしが学校に通うための相談相手としては全然役に立ってないよ。ミチルの方がよっぽど親身に話を聞いてくれるもん」


「…ありがとう」


 担任の先生の弟さんは現在高校1年生でわたしたちよりも2つ年上だったが、霧島さんは対等の立場で彼に接している。中学生に生意気な口を利かれているのに嫌な顔をしないだけでも先生の弟さんは立派だと思ったので、わたしは霧島さんに生返事をすることしかできなかった。


「バレンタインかぁ…面白そうだね、その日は学校に行ってみようかなぁ」


「えっ、霧島さんそれ本当!?」


 ココアを飲み干した霧島さんが頭の後ろで手を組んで発した一言を聞き、わたしは自分の耳を疑う。


「そんなに驚いてどうしたのミチル?」


「だってあんなに行くのを嫌がっていた学校に、霧島さんがいきなり行くって言ったんだんだよ?」


「やだなぁ、一応あたしもあそこの生徒じゃん。在籍している学校に行くなんて当たり前のことでいちいち驚かないでよ」


「そうだよね、霧島さんが学校に来てくれるのは当然のことだよね」


 どういった心変わりがあったのか定かではないが、霧島さんは登校をあれほど渋っていたことが嘘のように学校に行くことを宣言する。わたしは足繁く彼女の下に通った努力が報われたような気分になって、思わず感涙しそうになった。


「バレンタインの日を楽しみにしててね、派手にかましてやるんだから」


 霧島さんも久々の登校に胸を弾ませているようだったが、不敵な笑みを浮かべている彼女の顔や発言の節々からわたしは何故か不穏な雰囲気を覚えずにはいられなかった。


* * *


 バレンタイン当日、クラスメイトは男女ともどこか落ち着かない様子であった。きっとチョコをもらったり渡したりするのに多くの子が緊張しているに違いないとわたしが華やいだクラスの雰囲気を感じていると、入り口の方がざわめきたつ。開け放たれた教室の扉を潜って室内に入ってきた人物にクラスメイトの視線が集中していた。


「おはようミチル」


「霧島さん、本当に来てくれたんだね。でもその制服は?」


「あ、そうかこれ芳志社ほうししゃ女学院の制服だ。デザインが可愛いくてあおいねえにもらったのと間違っちゃったよ」


 数ヶ月ぶりに登校してきた霧島さんに驚きや気まずさを感じているクラスメイトたちを尻目に、彼女は明るい表情で挨拶をしてくる。わたしも本当に彼女が登校してきたことに若干の驚きを感じていたが、極力をそれを顔に出さないように注意して返事をした。


 しかし霧島さんがこの学校のものではない制服を着用していることを指摘すると、彼女もお姉さんの通っていた名門女子校の制服を間違えて着てきたことに気付く。


「ま、いいか。それよりもこれ、バレンタインのプレゼント」


「ありがとう。ごめん、霧島さんの分のチョコは用意してないからお返しは後でするね」


「いいよ、ミチルにはいつも世話になっているからそのお礼ってことで」


 霧島さんは他校の制服を着ていっそう教室内で浮き上がっていることを意に介さず、わたしに手作りらしいクッキーの入ったビニール袋を差し出してくる。彼女と交換するチョコを用意していないことを侘びると、霧島さんは白い歯を見せて鷹揚と笑ってくれた。


 霧島さんとは週に一度は顔を合わせていたけれど、こうして学校で普通のクラスメイトとして接することができたのをわたしはとても嬉しく思う。しかしその余韻は聞き覚えのある高い声の悲鳴によって引き裂かれた。


「恥ずかしがらなくていいんだぜ、オレの分も用意してくれているんだろう?」


「…あなたにあげる分ないわ」


「隠さなくていいって、それはオレにくれるモンなんだろう?」


 開きっぱなしになっている教室の扉の向こうでルーちゃんが鬼頭くんにチョコを渡すように言い寄られていた。ルーちゃんの左手にはチェック柄の小さな紙袋が提げられていて、鬼頭くんは彼女からそれを奪い取ろうとしている。


 扉の周りには数名の生徒がいたが、誰も鬼頭くんの報復を恐れてルーちゃんのことを助けようとしない。ルーちゃんがほとんど泣きそうな顔で必死に紙袋を守ろうとしているのを見て、わたしは席を立ち彼女の助けに入ろうと決心した。


「ねぇ、そんなにチョコが欲しけりゃあたしのをあげるよ」


 わたしが入り口の傍まで向かった瞬間、ルーちゃんと鬼頭くんの前に現れた誰かが彼らのやり取りに割って入る。紺色をしたこの学校の制服ではない、ベージュのブレザーにタータンチェックのスカートの制服を着た人物は彼女しかいないはずだった。


「お前は…イカれたことを抜かして周りにドン引きされるのが嫌で不登校をしてたんじゃねぇのか?」


「今日は女子にとって特別なバレンタインでしょ。嫌がっているその子の代わりにあたしがあんたにプレゼントしてあげるよ」


「嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。そうやってしおらしくしてりゃ、お前も結構イケてると思うぜ?」


 霧島さんは少し大きめの紙袋を手に提げて、鬼頭くんと真正面から対峙する。デザインがいいことで有名な芳志社女学院の制服を着用した霧島さんが自分にプレゼントをすると聞くと、鬼頭くんは頬を緩めてルーちゃんから手を離した。


「ミチル!」


「ルーちゃん大丈夫?」


 鬼頭くんから解放された安心感でルーちゃんの涙は遂に堰をきり、彼女の滑らかな頬を伝って流れ落ちる。同性ながら彼女の愛らしさにわたしは胸をときめかせて、彼女のことを優しく抱きとめた。


 しかしすぐに鬼頭くんと向き合っている霧島さんのことを気にかけて、わたしはルーちゃんを胸に抱いたまま彼女の方に視線を向ける。


 コケティッシュな容姿とおとなしめの性格をしているルーちゃんとは性質が違うし、言動はかなり、いや少し奇抜だけど霧島さんも健康的で溌剌とした魅力のある女の子だ。芳志社女学院の制服もよく似合っていて、彼女の可愛らしさをより引き立てている。プレゼントをもらって増長した鬼頭くんが彼女によからぬことを企む危険性は充分にありえた。


「鬼頭くん、だっけ? これがあたしの……」


 鬼頭くんが顔をにやにやさせていると霧島さんは右手に提げた紙袋に左手を差し入れて、中から何かを取り出そうとする。霧島さんは左手で何かを袋から取り出すと、何故かそれを握ったまま左腕を後方に振り被る。


「親の七光りでいい気になっているあんたへの気持ちよ!」


そして霧島さんが一気に左腕をしならせると、彼女の手から放たれた薄い紙袋が鬼頭くんの顔面を直撃した。


「ぶはっ、これは…コーヒーの殻!?」


「あははっ、コーヒーの色に染まって生っちろい顔が少しは男らしくなったじゃない?」


 顔中に水気を含んだ粉末を被って茶色く染まった鬼頭くんの顔を見て、霧島さんは愉快げな笑い声をあげる。床に散らばった黒っぽい粉末から香ばしい香りが立ち上ると、霧島さんが鬼頭くんに振りかけたものがコーヒーの出し殻だとわたしは理解した。


「このあばずれ…オレにこんな真似をしたタダで済むと思うなよ!」


「おっと危ない!」


「おわっ!?」


 コーヒーの出し殻で顔を茶色くされ、だらしなく着崩した制服を汚された怒りで逆上した鬼頭くんは怒号を張り上げて霧島さんに飛び掛っていく。細い眉を吊り上げて険悪な目つきになった鬼頭くんの形相に傍から見ているわたしたちが圧倒されてしまう。


しかし霧島さんは軽やかに身を翻して鬼頭くんの突進を回避しただけでなく、勢い余って前方に流れた彼に足払いをかけて廊下に転ばせた。足元を掬われた鬼頭くんはなす術もなく大きな音を立てて床の上に倒れこむ。


「痛っ…てめえ何しやがる?」


「コーヒーだけで満足しないでよ。今日の主役はチョコレートでしょ、あんたのために特性のものを用意してきたんだからよ~く味わってもらわなきゃ」


 霧島さんはうつ伏せで転倒した鬼頭くんの背中に馬乗りになると、耳を覆い隠すほどに伸びた彼の赤毛を鷲掴みにして顔を持ち上げる。自慢の髪を無造作に扱われて鬼頭くんは霧島さんに剣幕を向けるが、彼女は袋の中からまた何かを取り出すと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「特性のチョコだと…もがっ!?」


「2月のイベントはバレンタインだけじゃなくて鬼をやっつける節分もあるでしょう? みんなに迷惑をかけている鬼のあんたにも、あたしは精魂込めてチョコをプレゼントしてあげようと思ったの。豆撒きで残った煎り大豆をコーティングした特性チョコをね」


 霧島さんは縦長のビニール袋の口を開くと、その中に入った節分で撒く煎り大豆をくるんだチョコを鬼頭くんの口に流し込む。霧島さんに馬乗りになられて身動きを封じられた鬼頭くんは、抵抗できずに口いっぱいに煎り大豆のチョコを押し込まれた。


「ちょっとぉ、せっかく作ってやったんだから全部食べるのが礼儀でしょう?」


 口中に要り大豆のチョコが詰まってしまったことで呼吸がままならなくなった鬼頭くんが、苦しげに床にチョコを吐き出す姿は正直かなり情けない。霧島さんは得意げな顔で自分の手作りチョコが鬼頭くんの口から吐き出される光景を眺めていたが、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出すとその様子を写真に撮り始める。


「てめ、いい加減に……」


「面白いからみんなに写メ送ろうっと。節分とバレンタインの同時進行でやられた鬼って触れ込みで、きっと街で遊んでいる子たちの間でネタになるだろうなぁ」


 鬼頭くんが霧島さんにのしかかられたまま悪態を吐くのを無視して、彼女は携帯電話に納めた写真を添付してメールを知り合いに一斉に流す。鬼頭くんも霧島さんが繁華街で年上の人たちと親しくしていることを知っているらしく、彼女が送ったメールがどれだけ広まるかということに動揺しているようだった。


「ちゃんとあたしの手作りチョコを食べないのがいけないんだよ~これでしばらく街を歩けなくなっちゃったねぇ」


 霧島さんは失笑を漏らしながら鬼頭くんの背中から降りるが、自分の失態を写した写真を街で遊んでいる人間の間に流されてしまった屈辱で彼は何も言い返せない。ようやく口に押し込まれた煎り大豆のチョコの始末を終えると、鬼頭くんは醜態を曝した恥辱で顔を真っ赤にしてどこかに行ってしまった。


「あーすっきりした、やっぱりいいことをすると気持ちいいねぇ」


「あの…助けてくれてありがとう」


 鬼頭くんが走り去っていった廊下の奥を眺めて清々しい顔を浮かべている霧島さんに、少し気持ちが落ち着いたルーちゃんが礼を述べる。同じクラスでも霧島さんと話すのは恐らく初めてのようで、ルーちゃんは緊張した面持ちだった。


「お礼を言われるようなことはしてないよ、久々にあのウラナリにイタズラをして憂さ晴らししただけだから」


「でも、鬼頭くんにあんなことしておいて大丈夫なの?」


「心配ないって、あんなチンピラに遅れを取るほどあたしグズじゃないから」


ルーちゃんは霧島さんが鬼頭くんから制裁を受けることを気に病んでいたが、霧島さんは中学生にしては発育のいい胸を反らして気丈な返事をする。


「厄介者払いも済んだことだし、これで心置きなく大好きなミチルにプレゼント渡せるね」


「霧島さんにも後で絶対にプレゼントする、だからこれからも学校に来て!」


 霧島さんはルーちゃんの肩を叩いてわたしの方に戻るよう促すが、ルーちゃんは霧島さんの顔を真っ直ぐ見つめて今日だけでなく今後も登校してきて欲しいと訴える。


「う~ん…学校に来続けるかどうかは気分次第だけど、プレゼントをくれるのは大歓迎だよ」


「ねぇ霧島さん、わたしだけじゃなくてルーちゃんも学校に来てほしいって言っているんだからしばらく来てみようよ? もし鬼頭くんたちが意地悪してきても、わたしたちが助けてあげるから!」


 ルーちゃんの呼びかけに対し、霧島さんは明日以降も学校に来るかどうかは保障できないと答える。しかしわたしも彼女に登校し続けてほしい旨を懇願した。


「ミチルたちが無理して怖い思いすることないよ、あたしはあんな奴どうってことないから」


「だよね、わたしたちじゃ霧島さんを庇ってあげられないよね……」


「でも怖い奴なんか誰もいないんだし、しばらく学校来てみようかな」


 自分では霧島さんの力になれないと意気消沈して俯くが、彼女が登校を続ける意志を示すとわたしは顔を上げる。霧島さんはアーモンド形の目を細めて柔和な顔でわたしとルーちゃんのことを見ていた。


「霧島さん……」


「あのさ、苗字をさんで付けって呼ばれるの、あたし好きじゃないんだよね。できれば蘇芳すおうって名前で呼んでほしいんだけど」


「蘇芳?」


 霧島さんが他人行儀な呼び名ではなく親しい人たちからの愛称で呼ぶように要求してくると、ルーちゃんは彼女の本名ではないその名を不思議そうな顔で繰り返す。


「霧島さんが家族や仲のいい知り合いから呼ばれている名前だよ」


「厳密には違うけど、まぁそんなトコかな」


「いい名前だね、蘇芳ちゃん」


「ありがとう、えーっと……」


 ルーちゃんはすんなりその愛称を受け容れるが、彼女はルーちゃんの名前を覚えていないらしく困惑した顔を浮かべた。


「蘇芳ちゃん、わたしのことはルーちゃんって呼んで」


「わかった。よろしくねルーちゃん、それからミチルも」


「うん、一緒に楽しい学校生活を送ろう蘇芳」


 霧島さん、いや蘇芳は見ているこちらの気持ちを明るくする笑顔でわたしとルーちゃんに握手を求めてくる。わたしたちは差し出された蘇芳の手を硬く握り返して、ブランクのあった彼女の学園生活を支えていこうと心に決めた。



Give me chocolate 了



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