11、Life plan
夜半、その日の営業を終えた喫茶店ラング・ド・シャのフロアには2組の男女が同じテーブルを囲んでいる。
男性2人が入り口側、女性2人がその向かい側という配置で着席している各人の手元に置かれたグラスにはそれぞれ異なる酒類が注がれていた。
「乾杯!」
眼鏡をかけた豊満な肢体の女性、天満カンナがよく通る声で音頭を取ると、テーブルに着いている男女は互いにグラスの縁を当てて乾いた音を鳴らす。
「高校からの付き合いだけど、こうして4人で飲むのは初めてじゃない?」
「言われてみればそうだね。カンナちゃんと上鳥羽くんとは学生の時に何回か飲んだことがあるけど、その時はいつもクーくんがいなかったもんね」
グラスの中のカクテルを一息に飲み干したカンナの言葉にその隣に座った比較的長身で細身の女性、霧島丹が相槌を打つ。
「霧島さんと一緒にこの店を開く前は基本的に夜勤の仕事してたんだよな。大変だったな来栖」
「頑張った分、早めに店を開業出来たから不満はねえよ」
カンナの正面に座った眼鏡をかけた人の良さそうな青年、上鳥羽雪人に労われると、彼の傍らで水割りの焼酎を舐めている彫りの深い顔立ちをした偉丈夫、来栖託人は感極まった表情で自分が働いている店内を見回した。
「喫茶店を開くためのお金をほとんど出してくれたんだからクーくんには感謝しきれないよ。月並みなことしか言えないけど、本当にありがとう」
「感謝しているのはこっちの方さ。お前が俺を雇ってくれたお陰で少しは夜の時間に余裕ができて、こうやって高校の同級生と卓を囲めるんだからな」
共同でラング・ド・シャを運営している丹と来栖は感謝の意を相手に贈りながら、互いの顔を見つめあう。
「ちょっと丹に来栖くん、久々に集まった席でいきなり2人の世界に没入しないでちょうだい。毎晩この上で惚気ているのによく飽きないわねぇ」
「ご、ごめんカンナちゃん」
自分と雪人をそっちのけで惚気ている丹と来栖の間にカンナが口を挟むと、丹はせっかく自分たちの招待に応じてくれた親友の気を損ねてしまったとすぐに侘びる。
「あー丹たちが羨ましいな。そうだ雪人、わたしたちもそろそろ一緒に暮らそうよ?」
ラング・ド・シャの2階は住居区画になっており丹と来栖はそこで同棲している。彼女たちの関係を羨んだカンナが唐突に同居を持ちかけてくると、雪人は危うくビールを噴き出しかけた。
「そろそろって言われてもなぁ…お互い全然違った業種で働いているから顔も合わせにくい、逆に気まずい雰囲気になりそうじゃないか?」
「雪人は朝早くから夜遅くまで中学校に詰めっぱなしだし、わたしは局に出入りする時間が不規則だし確かに一緒に暮らしていても擦れ違いは多そうね」
「そうだろう、だったら無理に同居することはないんじゃないか?」
「でもさ、少しでも相手の顔を見られればそれだけで仕事で疲れた気持ちに張りを持たせられるんじゃない?」
雪人はカンナとの同棲に消極的だが、カンナは例え一緒にいられる時間は短くても恋人の顔を拝むことで仕事を頑張ろうと思えるのではないかと前向きな検討を呼びかける。
「そ、そうかな?」
「実際のところどうなのか、同棲してる先輩としての感想を聞かせてよ丹」
「えっと…わたしたちは仕事先も同じだから、中学校の先生をしている上鳥羽くんとラジオ局に勤めているカンナちゃんの参考にはならないんじゃないかな」
急に意見を求められて丹は驚いた様子だった。しどろもどろの回答をする丹の顔はアルコールの酔いが回ったためか、もしくはプライベートな話題に触れられた恥じらいからか頬を赤く染めている。
「状況は違ってもさ、やっぱり好きな人と寝起きと共にするってのは別々に暮らしていた時とは違った刺激があったでしょ?」
「ううん、そういうのは特別なかったよ」
「丹のことだから父親以外の男の人と一緒に暮らし始めた頃は緊張の連続だったんじゃないかって想像してたけど、案外冷めてるのね」
「クーくんが一緒に住むようになった時はちょっとは緊張したよ。でもその時はお父さんも葵もいたから、親戚の人がウチで寝泊りするようになったような感じだったかな」
「ちょっと待って丹、今の言い方じゃあんたの実家に来栖くんが下宿していたみたいに聞こえるけど?」
「あれ、クーくんが高校の時からウチに下宿していたこと知らなかったっけ?」
「ええっ、それじゃあんたたち高校の頃から同棲してたの!?」
丹が素っ気無い口調で来栖とは高校の時分から彼女の実家で共同生活をしていたことを暴露すると、その事実を初めて知らされたカンナは仰天する。雪人も飲みかけていたビールをむせながら丹と隣で仏頂面を僅かににやけさせている来栖のことを交互に見やった。
「うん、お店の上に住む前からクーくんとは一緒だったから特別目新しいことはなかったの」
「そ、そうなんだ……」
色恋に関して奥手そうな丹と女性との交際に不精そうな来栖がこの店の上で暮らす随分前から同棲していた事実を知ると、雪人は適当に相槌を打ちつつ自分だけ置き去りにされているように居た堪れない様子でグラスに残ったビールを呷った。
「高校の時からの付き合いでしかもその頃から同棲していて、おまけに今は一緒にお店の切り盛りをしている。もしかして今日飲みに誘ったのは2人が入籍する報告のためだったとか?」
「ち、違うよ。久々にみんなで集まれたらなぁって思って連絡しただけで、それ以外に何かある訳じゃないよ」
親友の自分も予想していなかったほど丹と来栖の仲が親密だと知って、カンナは婚約の発表を内密にするために今晩自分たちを呼び出したのではないかと推測する。しかし丹は更に顔を赤くして激しく首を左右に振り、カンナの推測を否定した。
「本当かしら? まさかあんたたち、デキてないでしょうね?」
「どうしたカンナ、もう酔っ払っているのか? 関係がデキてなかったら同棲している訳ないだろう?」
「鈍いのは雪人よ、わたしが丹たちに訊いているのは子どもが出来てないかってことよ」
グラス1杯分のビールでほろ酔いになっている雪人は、自分よりも酒に強いカンナが今日はもう酔っ払っているのかと意外そうな顔で彼女の様子を覗う。しかしこの場にいる面子の中で一番素面の状態に近いカンナは、雪人の相変わらずの勘の悪さに呆れながら丹と来栖の間に子どもが出来てないかと問うたのだと返した。
「こ、子ども!?」
「アホか天満、結婚もしてねえのにガキを仕込む訳ねえだろ!」
丹と来栖は取り乱した様子で自分たちはまだそこまでいってないとカンナに反論した。
「でもさ~高校の時から付き合ってるのに、未だにプラトニックな関係のままではないでしょう?」
「そ、それは……」
「多分高3いや高2の終わり頃にはヤってると思うんだよね。はっきりした時期は覚えてないけれど、ある日を境に丹がオンナの顔になってたもん」
「なっ!?」
カンナに来栖との関係を言及されると丹は口ごもる。しかし高校時代の記憶を反芻しながら丹の雰囲気が変わった瞬間のことをカンナが口に出すと、雪人は丹たちが一線を越えた時期の早さをにわかに信じられずに驚く。
「カンナちゃん、気付いてたの!?」
「えっ!?」
「3年間同じクラスで毎日顔を合わせていたからね、何となくそんな気はしてたんだ。雪人は2、3年で来栖くんと一緒のクラスだったのに来栖くんがどこか変わったように感じなかったの?」
「い、いや…特に来栖が変わったようには思えなかったけど……」
「割と話はしてたけど丹と天満ほど親しくはなかったから気付かなくても無理はないさ。でもよ上鳥羽、久々に会った時にあんたがオトコの顔になったのに俺は気付いてたぜ?」
毎日顔を合わせて親友の間柄であったカンナが丹の変化に気付いたのと同様に、常に行動を共にしていた訳ではない雪人が自分の変化に気付かなくても無理はないと来栖は彼の弁護をする。しかし雪人が男になったことを自分は見抜いていたと来栖は口の端を吊り上げて彼に流し目を向けた。
「どうせ高校の時に悪ぶってたあんたは、丹とヤる前に風俗か何かで筆おろしはしてたんでしょ。清く正しい青春を送っていた雪人とあなたを一緒にしないで!」
「…最近少しは風当たりが緩くなったと思っていたが、相変わらず俺に対する言葉は手厳しいな天満」
茹蛸のように顔を赤らめて口を噤んでいる雪人に代わって、カンナは少々節操のないことを交えながら来栖を罵倒する。高校時代、自分のことを不良と毛嫌いしていたカンナの暴言に曝されて来栖は苦笑しつつも懐かしさを覚えているようだった。
「こんな元ヤンに初めてを捧げたなんて丹が可哀想だわ……」
「そんなことないよ、クーくんは初めから優しくしてくれているよ」
「…丹、あんたホント天然ね」
丹の初めての相手が悪名名高い不良だった来栖であることをカンナは嘆くが、丹は自然な口調で大胆な発言をする。素で赤裸々なことを口走る丹をカンナはある種の尊敬の籠もった眼差しで見つめ、向かいの席に並ぶ男たちは揃って恥ずかしそうに顔を赤らめるといううぶな反応を見せた。
「できるならいつか、赤ちゃんが欲しいなぁ」
「丹!?」
「目が据わっちゃってる、もうこの子できあがってるよ……」
来栖が自分をどのように扱っているのかということに続いて、丹は子どもを持ちたいという願望を語り始める。再びの丹の爆弾発言に一同の視線は彼女に集中し、カンナはすっかり丹が酒に呑まれてしまっていると判断した。
「水持ってくる。天満、少しの間丹のことを頼む」
「分かった。そういや丹、あんた全然飲めなかったね」
来栖は席を立って店のキッチンから丹の酔いを醒ますための水を持ってこようとする。来栖に丹の介抱を頼まれたカンナは、丹の手から梅酒が半分ほど残ったグラスをもぎ取ると、親友が酒に滅法弱いことを失念していることを悔やんだ。
「クーくんは、クーくんは赤ちゃん欲しくないの?」
「霧島さん大丈夫、酔っ払い過ぎじゃない?」
キッチンに向かおうとする来栖の腕を掴むと、丹は呂律の回らなくなってきたたどたどしい口調で来栖に子どもが欲しくないかと訊ねて来る。明らかに平時と様子が異なっている丹のことを雪人は不安そうな顔で案じた。
「どうなのクーくん、ねえ答えてよ?」
「俺は欲しくない」
丹はカンナの体に寄りかかって上目遣いで来栖のことを見つめながら、彼の腕を揺すって自分の質問に答えるように急かす。来栖は目を閉じて一呼吸置くと、きっぱりと短い返事をした。
恋人の丹が子どもを望んでいるのと真っ向から対立する回答を来栖がしたのを聞いて、カンナも雪人も表情を強張らせた。無言のまま視線を交錯させる丹と来栖の間に不穏な空気が漂い始める。
「クーくんはわたしのこと好きじゃないの、だからわたしとの子どもが欲しくないの?」
「そんな訳あるか、お前のことは誰よりも愛してるよ」
「だったらどうして?」
「子どもが生まれたら、今は一極集中的に注いでもらえる愛情が減っちまうからだよ」
「うわ、サイテー……」
母親となった丹が子どもに愛情を注ぐせいで自分に向けられる愛情が減ってしまうことが嫌だという来栖の発言に対し、カンナはあからさまに不快感を見せる。
「でも家業を継がせるためには子どもが必要なんだよな。だから感情的には欲しくないけど、家業のためにはいずれ子どもを持たなきゃいけねえんだよな」
「なんて自己中な…やっぱりサイテーの男ね」
「カンナ、そう思っても霧島さんと来栖の話を邪魔しちゃ駄目だよ」
家業の後継者を作るためには子どもを持つ必要があるという来栖の言葉にカンナは再び嫌悪感を抱くが、他人が横槍を出さずに当人同士にしっかりと話し合うべきだと雪人は彼女を宥める。
「わたしはクーくんと反対。感情的には子どもが欲しいけど、生まれてきた子にクーくんの仕事を継いで欲しくない。クーくんがご先祖様から受け継いだ役割がどんなに大変なものかわたしも知っている、だからそんな辛い思いはして欲しくない」
「丹……」
酩酊している割に冷静な意見を丹が返してくると、来栖は恋人とどれだけ時を重ねても気持ちの擦れ違いは避けられないことを認識する。
「けど今はこの街のみんなのために頑張っているクーくんを一番に支えてあげたい。わたしの好きだって気持ちが支えになるのなら、全部クーくんにあげるよ」
丹は来栖の腕を掴んでいた手をずらして彼の手を握ると、そのまま立ち上がって来栖と視線を合わせようとする。丹は上背が170cmほどあり決して小柄ではなかったが、それでも190cm近くある来栖のことを見上げなければならなかった。
丹は少々上目遣いで来栖に微笑みかけると、彼の胸に倒れこんでいく。
「丹!?」
力なく来栖の腕に抱かれて支えられている丹の容態をカンナは案じ、その声はフロア中に響き渡った。
「心配するな、酔い潰れて眠っちまっただけだ」
来栖は自分の腕の中ですやすやと寝息を立てている丹を呆れた顔で見つめて、余計な気を揉む必要がないことをカンナたちに知らせる。
「そう、よかった……」
「丹のこと、上に寝かせてくる。多分朝まで起きないだろうが勘弁してくれ」
来栖は一度膝を屈めると、丹の足と背中に手を通して彼女の体を軽々と持ち上げる。
「気にしないよ、それよりも丹のことよろしくね」
「ああ、しばらくの間、この店はあんたたち2人の貸切だ。楽しんでくれよ」
来栖は旧友たちに語らいを楽しむといいと言い残して、丹を俗にいうお姫様だっこしながら店の奥にある扉を潜って寝室のある2階へと登っていった。
「まさか来栖くん、気前のいいこと言って丹の寝込みを襲う気じゃないわよね?」
「ねえカンナ、君はもう少し来栖に寛容になってもいいと思うんだけど?」
2階に上がったきり戻ってこない来栖が丹に狼藉を働いているのではないかと邪推するカンナを、雪人はやんわりとした態度で諌める。
「ところでさ、雪人はどうなの?」
「どうって、何が?」
「わたしとの将来のこと。どこに家を建てるかとか、子どもは何人欲しいかとか」
「そ、それは──」
カンナに今後の関係の在り方を問われた途端、雪人は来栖の速やかな帰還を切に願わずにはいられなかった。
Life plan 了