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ラング・ド・シャ  作者: 三畳紀
前菜
1/12

1、Sugar and spice

 

 僕が行き着けの喫茶店は彼の自宅から徒歩5分の距離にある小さな店だ。お客さんで賑わっているはずの午後の時間帯もテーブルには空きが目立ち、座っているお客さんの顔もだいたい同じでお世辞にも流行っているとは言えない。


 でもそんな窮状を目の当たりにしても、店のご主人はそんなことどこ吹く風というように相変わらず商売っ気のない営業を続けている。


 決して小遣いの金額に恵まれている訳ではない高校生の僕が3日に一度の割合で訪れているのは、ひとえにラング・ド・シャという名前のこの喫茶店への愛着だ。一杯400円のコーヒーを頼んだところで火の車に違いないラング・ド・シャの経営状態が改善されるとは思えないけど、焼け石に水でもやらないよりはましだとなけなしの小遣いをやりくりして僕はラング・ド・シャに通っていた。


「えっ、珍しくテーブルが埋まっている!?」


 今日も閑古鳥が鳴いている店でゆったりしすぎるほど寛いでコーヒーを飲もうと店の扉を押し開けると、僕は信じられない光景を目の当たりにする。常に半分以上の席が空いているはずのテーブルが全て埋まっていて、僕は初めてラング・ド・シャの店内が狭く感じた。


「珍しくは余計よ、常葉ときわくん」


「すみませんまことさん…でもこんなにお客さんが入っているのを見るの、常連の僕も初めてですよ?」


「実を言うとね、わたしもこんなに大勢のお客さんのオーダーを捌くのは初めてだからてんてこまいなの」


 ラング・ド・シャの女主人をしている丹さんは、前例がないほど店が盛況なせいで対応が苦労している失態を取り繕うような笑みを浮かべる。


丹さんはもう大学を卒業していたけど、思春期の女の子みたいに恥らう彼女の笑顔に僕は思わず見惚れてしまう。


 落ち着いた店構えや安価で素朴な味付けの割に美味しいメニューも僕がラング・ド・シャに愛着を持つ理由だけど、憚らずに言えば丹さんの存在がこの店に入れ込んでいる最大の理由だ。


 丹さんと僕は10歳近く歳が離れているけど、そんなことは全然気にならない。むしろ年上だからこそ丹さんからはクラスメイトの女の子たちにはない抱擁感を覚えるし、時折見せる少女のような可憐さが僕の心を鷲掴みにしている。


「丹~スコーン焼けたから3番テーブルに持っていってくれ」


 僕が丹さんの笑顔の余韻に浸っている間も、カウンターの奥にあるキッチンでは慌しく調理が勧められていた。丹さんを呼ぶ声と共にカウンターの奥から丸太のような腕が突き出てくるのを見て、僕は我に返る。


「わかった。ところでクーくん、5番のお客様が注文したクリームブリュレは出来た?」


「スコーンを出すまで作業するスペースなかったけど、焼き色をつけるのなんてすぐだから3番テーブルから戻ってきた時には出せるぜ」


「火加減間違えて焦がさないでよね?」


「心配すんなって、最近は滅多にミスらなくなったろう?」


「そうだね、じゃあブリュレの準備お願いねクーくん」


 次に出すオーダーについて協議した後、焼きあがったスコーンを乗せた皿を受け取った丹さんは注文したお客さんのテーブルにそれを運んでいく。


スコーンの皿を出して空いたスペースに足元の冷蔵庫から取り出したブリュレの入ったココットを置くと、キッチンにいる人物が砂糖を振るったブリュレの表面にバーナーで焼き色をつけはじめた。


 適度な間隔と時間で炙られたブリュレの表面が綺麗な飴色になる。焼き色がついたブリュレのココットを皿に乗せてスプーンを添えると、キッチンで作業している人物がカウンターの前に戻ってきた丹さんに絶妙のタイミングでブリュレの皿を差し出した。


「綺麗な焼き色ね、もうクーくんの方がわたしよりも上手になっちゃったみたい」


「こんなモン慣れればどうってことねぇよ」


「初めの頃はこんな難しいこと出来るはずないって言ったのが嘘みたいだね」


「…うるせえ」


 丹さんにブリュレの焼き色を褒められた人物は得意げな顔になったけど、以前はブリュレに焼き色をつけることに苦戦していたことを持ち出されると一瞬で決まりの悪い顔になった。拗ねたようにそっぽを向いた彼に丹さんはいたずらっぽい微笑みを向けると、受け取ったブリュレを注文した客のテーブルに運んでいってしまった。


「おい、いつまでもドアの前でぼけっと突っ立ってんじゃねぇよ」


「す、すみません来栖くるすさん……」


 僕が出入り口の扉の前に立ち尽くしているのに気付くと、作業の手を止めて来栖さんが入店するのかしないのかをはっきりするように促してきた。僕は撫で肩が更に落ちているのを自覚しながら、おずおずと空いているカウンターの席に座る。


「またいつものコーヒーか?」


180cmを超える長身で肩幅も広く、制服のワイシャツの上からでも全身が筋肉の鎧で覆われていることが覗える来栖さんにカウンターの向こうから目を向けられると、彼に比べて格段に貧相な体格をしている僕は反射的に萎縮してしまう。


「…たまには違うものを注文したほうが、いいですよね?」


「そんなこと俺に訊くな、こっちはお前の注文に応えるだけだ」


 遠回しに一番安いメニューであるコーヒーばかり注文していることを責められているような気がして別のメニューを頼むべきか訊ねると、来栖さんは日本人離れした彫りの深い顔の唇をへの字に曲げて自分にそんな命令権はないと返してきた。


「…メニューを見てから考えます、注文決まったら声をかけます」


はっきりと他のものを注文しろと言ってもらった方が気は楽だったが、余計なことを言って来栖さんの機嫌を損ねたくなかったので僕は自分の席の前に置いてあるメニューを手にとって注文を考えるふりをする。


「おう、冷え込んできたし温かいモンをお勧めするぜ」


「…ありがとうございます」


 商売人だけあって来栖さんは季節に応じたメニューを勧めてきた。確かに来栖さんが言うとおりこのところ朝夕大分冷え込んできて冷たいものを注文する気にはなれなかったけど、肌寒さを感じるのは気温のせいばかりではない気がする。


大柄な体格だけでなく濃い陰影を刻む仏頂面の凄みや威圧的な態度で正直僕は来栖さんが苦手だ。堅気の人間には見えない雰囲気を纏う彼と向き合っているだけで、内臓がきりきりと締め付けられるような気がしてくる。


でもラング・ド・シャは基本的に女主人の丹さんと調理スタッフの来栖さんの2人で切り盛りしていて、店を訪れればほぼ毎回彼とも顔を合わせなければならない。


 おまけにどういう経緯があったのかは分からないけど、聖母のように博愛的な丹さんと仁王のように厳粛な来栖さんは非常に仲睦まじい関係だった。2人が阿吽の呼吸で給仕と配膳を行いつつ、笑顔の絶えない軽妙なやりとりを見せられるととても自分のようなひよっこが割って入れるような仲ではないと痛感させられる。


 丹さんへの思慕が報われることはないだろうと充分に理解していたが、僕は未練がましくラング・ド・シャに通っては彼女が鬼神のような偉丈夫来栖さんと長年連れ添った夫婦のように自然な雰囲気で仕事をしている姿を傍観していた。


 丹さんの笑顔に癒される一方で、来栖さんの無言のプレッシャーに曝される時間は飴と鞭を同時に体感できる。僕はひょっとして自分がマゾヒストなんじゃないかと最近疑い始めていた。


「ちょっとクーくんお客さん怖がってるじゃない。そんな無愛想に接客してちゃ、まこねえにまた怒られるよ?」


 財布の中身を考慮しつつメニューに目を馳せていると、若干高いトーンの声が聞こえてくる。横目を向けた先に十代半ば、恐らく中学生の女の子が腰に手を添えて呆れた顔でキッチンにいる来栖さんのことを見上げていた。


 女の子は背中に届くくらいの長さの髪を一本の三つ編みにして纏めており、エキゾチックな柄をした長袖のワンピースの上に丹さんと同じデザインのエプロンをかけていた。アーモンド形の目をした活発そうな印象の顔の造作は整っていて、同じクラスにいれば注目を集めるだろう。


「俺は普通に注文を聞いただけだ。お前こそ手が空いているんならフロアでうろちょろしてないで、こっちで洗い物でもしたらどうだ蘇芳すおう?」


「さっきのブリュレで一通りオーダーは捌けたから空いている食器を下げなくちゃ。食器片付けたら上がるから後はよろしくね、クーくん」


「ちょっと待て、面倒なことを他人に押し付けてばっくれるなよ」


「あたしはボランティアで店の手伝ったのよ、食器を下げるだけでも感謝してよ」


「おい蘇芳、こら……」


 蘇芳と呼ばれた女の子は来栖さんの提言を無視して身を翻すと、店内を回って空になった食器をトレイに乗せていく。


「来栖さん、あの子なんで店にいるんです?」


 ラング・ド・シャの常連と自他共に認めている僕も、これまで店を訪れた時は一度も彼女がフロアに出ているのを見かけたことがない。新しくバイトということだったら腑に落ちるけど、ボランティアで店の手伝いをしていると口にしていたことを踏まえるとそうとは考えにくい。


 客でもなく店員でもない彼女がどうして店の手伝いをしているのか疑問に感じ、思い切って来栖さんに質問してみる。


「客の入りを見て2人じゃ対応しきれないと思った丹が、あいつを応援に呼んだんだよ」


「応援に呼んだって…どうしてです?」


「暇を持て余しているモンが忙しい時に家の仕事を手伝うのは当然だろ、ところで注文は決まったか?」


「ココアをお願いします。それよりも来栖さん、家の仕事を手伝うってことはあの子丹さんの妹なんですか?」


「ああ丹の下の妹だ、小さい頃は可愛かったけど今じゃあんな生意気になっちまった」


「おじさんみたいなこと言ってるし、クーくんも歳じゃない?」


 来栖さんから彼女の素性を聞いて僕の溜飲が下がる一方で、ようやく注文を受けた来栖さんは彼女の成長を苦々しい表情で語る。成長するに従って憎たらしさだけが増したと愚痴を零す来栖さんに反論するように、彼女はわざと大きな音を鳴らして立錐の余地なく皿とカップが積まれたトレイをカウンターの上に置いた。


「うるせえ、まだ四捨五入すれば二十歳だ。用が済んだらさっさと帰れ!」


「手伝いはこれでお終い、今からは客としているわ。クーくんバナナジュース頂戴」


 カウンターの前に並べられた椅子のうち、僕の右隣のものの背もたれにエプロンをかけると彼女は澄ました顔でその席に座って来栖さんに注文をした。


「中途半端に仕事投げ出したくせに、偉そうな口を利きやがって……」


「ママ~この店員感じ悪いよ~」


「…驕らないからな、ちゃんと金は払えよ」


「分かってるって。なんだかんだ言っても素早く切り替えが出来るんだから、さすがに歳を食っているだけあるねクーくん♪」


 知り合いでも金を払ってもらえるからには客としてもてなさなければならないと来栖さんは苦渋の選択をする。彼女は調子のいい返事をすると、楽しげな顔で頬杖を吐きながら注文したバナナジュースが出てくるのを待つ。


 鼻歌を歌い椅子の下で足を揺すりながらキッチンでミキサーに刻んだバナナと牛乳を投入している来栖さんを眺めている姿は子どもっぽいが、互いに見慣れているとはいえ年長者で強面の来栖相手に全く臆さずに接する彼女の豪胆さには感心する。


「何か用?」


「いや、別に……」


「お待ちどうさま」


 僕の視線に気付いた彼女が怪訝そうな眼差しを向けてくると、適当にはぐらかして目を逸らした。正面に向き直るとちょうどカウンター越しに来栖さんがごつい手で僕の前にホットココアの注がれたカップと、彼女の前に紙のコースターを敷いてその上にバナナジュースのグラスを置く。


「そうだ、お前に頼みたいことがあるんだけど聞いてくれるか?」


「来栖さんが、僕に頼みたいことですか……?」


 何となく気まずい雰囲気で蘇芳さんと隣り合ってココアを啜っていると、来栖さんがキッチンから身を乗り出してくる。濃い陰影に縁取られた来栖さんの瞳を正面に受けると、その威圧感に気圧されて反射的に身構えてしまう。


「そんなにビビんなって、何も獲って食おうって訳じゃないんだ。数少ない店の常連としてお前に頼みたいことがある」


「…なんでしょう?」


 恐る恐る見上げると来栖さんは狼が獲物を見つけたような獰猛な笑みを返してきた。気楽に話を聞くように言ってきた来栖さんの顔を見ると、僕は余計に不安を駆り立てられる。


「普通に学校行けるよう、こいつの相談に乗ってくれねぇか?」


 来栖さんは身を乗り出した状態で、僕の隣に座りグラスの底に沈殿したバナナジュースの残りを吸い上げている蘇芳さんのことを指し示した。


「えっ!?」


 思わず僕は素っ頓狂な声をあげてしまうけど、来栖さんの唐突な申し出は彼女にとっても青天の霹靂であったらしく蘇芳さんは幸せそうな顔で飲んでいたバナナジュースを噎せてしまう。



Sugar and spice 了


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