第5話:リバーシブルな彼と私の就職先 ~SとM、そして永久就職~
第5話:リバーシブルな彼と私の就職先
~SとM、そして永久就職~
1.
王宮の大広間に、冷たい静寂が満ちていた。
先ほどまでの魔物の咆哮と、私の鞭が空を裂く音は消え、残っているのは硝煙の匂いと、張り詰めた緊張感だけだ。
私は、愛用の『薔薇の鞭』をゆっくりと巻き取り、ガーターベルトに戻した。
ふう、と息を吐く。
ひと仕事終えた後の疲労感。けれど、それは心地よいものだった。厄介な害獣を調教し巣に帰し、現場の秩序を取り戻したという達成感がある。
「……さて」
エスム様の低く、底冷えするような声が響いた。
私は彼を見上げた。
そこにいたのは、いつものデレデレした「ドMモード」の彼ではなかった。
返り血を浴び、純白の礼装を赤く染めながら、氷のような瞳で獲物を見下ろす捕食者。
リバシブル辺境伯の、「裏」の顔だ。
彼が歩み寄る先には、腰を抜かしてへたり込んでいる姉のエラリアと、両親がいた。
姉は化粧が崩れ、震えながら後ずさっている。
「ひっ……え、エスム様……ち、違うのです……」
エスム様は無言のまま、姉の目の前で足を止めた。
そして、床に落ちていた砕けたネックレスの破片を、革靴のつま先でグリグリと踏み潰した。
ジャリ、という硬質な音が、姉の悲鳴のように響く。
「違う、とは何だ? エラリア嬢」
エスム様の声は静かだった。怒鳴り声よりも遥かに恐ろしい、絶対零度の声。
「貴様が持ち込んだその魔石が、魔物を呼び寄せた。その事実は、王宮魔導師によって既に解析済みだ。……貴様は、私の愛する婚約者を陥れようとしただけでなく、王太子殿下をはじめとする多くの貴族たちを危険に晒した。これは殺人未遂であり、国家への反逆罪だぞ」
「う、嘘よ! 私はただ、チコリアにプレゼントを……! そうよ、チコリアが! あいつが呪われているから!」
姉は錯乱し、私を指差して喚いた。
両親もそれに乗っかる。
「そうです閣下! あの娘は昔から不吉なことばかり起こすのです! 全部あの娘のせいで……!」
見苦しい。
私は冷めた目で彼らを見ていた。
恐怖も、悲しみもない。ただ、「ああ、やっぱりこの人たちは変わらないんだな」という諦めと、深い徒労感があるだけだ。
実家にいた頃の私なら、ひょっとして傷ついて泣いていたかもしれない。でも今の私には、守るべき生活と、私の帰りを待つ動物たちがいる。
こんな生産性のない人たちに関わっている暇はないのだ。
「……黙れ」
エスム様が剣の柄に手をかけた。
チャキ、と金属音が鳴るだけで、両親はカエルのように縮み上がった。
「私の目の前で、私の大切な人を侮辱するか。……いい度胸だ」
エスム様の瞳が、蒼い炎のように揺らめいた。
「ウィップス子爵家。貴様らには、相応の『教育』が必要なようだな。……安心しろ、殺しはしない。だが、貴族の籍は剥奪だ。全財産は被害への賠償金として没収。そして貴様ら三人には、北の最果てにある鉱山で、一生かけて罪を償ってもらう」
「こ、鉱山……!? いやだ、私はそんな汚いところなんて!」
姉が絶叫するが、エスム様は冷酷に見下ろしたままだ。
「労働の喜びを知るといい。……連れて行け!」
エスム様の合図で、近衛騎士たちが姉と両親を拘束し、引きずっていく。
「チコリア! 助けて!」「お姉様でしょう!」と叫ぶ声が遠ざかっていく。
私はそれを、ただ黙って見送った。
助ける義理はない。彼らは自ら破滅の種をまき、それを刈り取っただけだ。
(……さようなら。もう二度と会うことはないでしょうね)
胸の中にあった重いしこりが、スッと消えていくのを感じた。
これで、私の平穏な生活を脅かすものはなくなった。
「……チコリア」
不意に、名前を呼ばれた。
振り返ると、エスム様が立っていた。
先ほどの修羅のような表情は消え、そこには不安そうに眉を下げた、いつもの彼がいた。
「怖がらせてしまっただろうか。……すまない。君の前で、あんな残酷な一面を見せてしまって」
彼は血で汚れた手を隠すように背中に回し、俯いた。
自分が「ドM」であることを隠さないくせに、敵に対して「ドS」になる自分は、私に嫌われると思っているらしい。
私は彼に歩み寄った。
そして、背中に隠した彼の手を強引に引き出し、自分の両手で包み込んだ。
血で汚れていても、温かい手だった。
「……怖くなんてありませんよ、閣下」
「本当か? 私は、君の家族を……」
「家族じゃありません。ただの『元・親族』です。それに……」
私は彼の目を見つめて、微笑んだ。
「貴方が怒ってくれたのは、私のためでしょう? 私を守るために、Sになって下さった。……そんな人を怖がるはずがありません」
私の言葉に、エスム様は目を見開いた。
そして、その瞳がじわじわと潤み始め、顔が赤く染まっていく。
「チ、チコリア……! ああ、君はなんて慈悲深いんだ……! 私の汚れた部分さえも包み込んでくれるのか!」
彼は感極まって、私の手を頬に押し当てた。
周囲の貴族たちが「おお……」と感動のため息を漏らす中、アルベルト殿下が「さあ、英雄たちの凱旋だ! 音楽を!」と叫んだ。
再びワルツが流れ出す。
私たちは会場中の祝福を受けながら、寄り添ってバルコニーへと向かった。
2.
夜風が心地よかった。
バルコニーに出ると、王都の夜景が一望できた。
私は手すりにもたれかかり、大きく深呼吸をした。
「疲れたか?」
「ええ、少し。……でも、スッキリしました」
エスム様が隣に並ぶ。
彼は負傷した左腕を気にしながらも、私を気遣うように視線を送ってくる。
私は懐からハンカチを取り出し、彼の腕の傷口にそっと当てた。
「手当て、し直さないとですね。……痛みますか?」
「いや。君が触れてくれるなら、痛みさえも甘美な刺激だ」
どうやら通常運転のようだ。
でも、今の私には、それがただのジョークや狂気には聞こえなかった。
この人は、本当に私のすべてを受け入れてくれているのだ。
地味で、根暗で、家族に見捨てられた私を。
そして、鞭を振り回して魔物をシメるような凶暴な私を、「美しい」と称えてくれた。
(……変な人)
本当に変な人だ。
顔が良くて、強くて、お金持ちなのに、中身はこんなにも歪んでいて、愛おしい。
私は今まで、彼との関係を「雇用主と従業員」として割り切ろうとしていた。
彼が求めるのは私の「管理能力(Sっ気)」であり、私自身ではないと思っていたからだ。
けれど。
「チコリア」
エスム様が、私の手を取った。
その表情は真剣で、月光の下で神々しいほどに美しかった。
「改めて、君に伝えたいことがある」
「……はい」
「私は、欠陥だらけの男だ。世間では英雄などと呼ばれているが、中身はどうしようもない快楽主義者で、誰かに支配されていないと心の平穏を保てない弱い人間だ」
彼は自嘲気味に笑った。
「だが、君に出会って変わった。君になら、私の全てを預けられる。君の鞭になら、一生打たれ続けてもいい。いや、打たれたい」
「……そこは強調しなくていいですよ」
「聞いてくれ。……私は、君が必要なんだ。牧場の管理人としてでも、マッサージ師としてでもない。……一人の女性として、君を愛している」
直球だった。
彼の碧眼が、真っ直ぐに私を射抜いていた。
そこには、いつもの濁った欲望だけでなく、澄んだ愛情があった。
私の心臓が、トクンと鳴った。
実家で誰からも必要とされなかった私が。
「いないもの」として扱われてきた私が。
こんなにも強く、激しく、求められている。
私は自分の胸に手を当てた。
ドキドキしている。
これは、就職が決まった時の安堵感とは違う。もっと熱くて、くすぐったい感情だ。
私は、この人のことが好きなのかもしれない。
彼の不器用な優しさも、一途な情熱も、そしてどうしようもない性癖さえも。
「……私で、いいんですか?」
私は尋ねた。
「私、可愛くないし、愛想もないし、鞭を持つと性格が変わりますよ?」
「それがいいんだ! いや、それが最高なんだ!」
エスム様が身を乗り出した。
「君の冷めた視線にゾクゾクする! 君の容赦ない言葉に痺れる! そして何より、君が鞭を振るう時の、あの凛とした姿……。私は君の虜なんだ。どうか、私を貰ってくれないか? ……一生、私の飼い主になってくれ!」
プロポーズの言葉としては最低レベルに独特だが、彼らしくて、思わず吹き出してしまった。
「……ふふっ。飼い主、ですか」
「だ、ダメだろうか……?」
「いいえ」
私は彼の手を握り返し、精一杯の背伸びをして、彼の頬にキスをした。
「謹んでお受けします、エスム様。……覚悟してくださいね? 私のしつけは、魔物よりも厳しいですよ?」
私が耳元で囁くと、エスム様はビクッと震え、そしてとろけるような笑顔を見せた。
「ああ……望むところだ……!」
月明かりの下、私たちは誓いのキスをした。
それは甘く、そしてほんの少しだけサディスティックな味がした。
3.エピローグ
それから数ヶ月後。
北部のリバシブル辺境伯領は、今日も平和だった。
「こらー! 羊たち! 列を乱さない!」
牧草地に、私の声と鞭の音が響く。
羊たちは「メェッ!」と敬礼するように鳴き、整然と小屋へと戻っていく。
あの騒動以来、私の「猛獣使い」としての名は社交界に知れ渡り、なぜか「カリスマ辺境伯夫人」として人気が出てしまった。たまに貴族の奥様方から「うちの夫もしつけてほしい」という相談の手紙が来るのが悩みだ。
「お嬢様~! おやつですよ~!」
ララがバスケットを抱えて走ってくる。
彼女は現在、リバシブル家の料理長と意気投合し、食通メイドとして厨房の裏ボスに君臨している。今日のメニューは、北部の特産品をふんだんに使ったチーズタルトらしい。
実家にいた頃に比べて、食に予算をたくさん使えるからか、ララはとてもイキイキとしている。これ以上服のサイズが変わらないと良いのだけど。
「ありがとうララ。……あら、エスム様は?」
「旦那様なら、あちらで待機されていますよ」
ララが指差した先。
屋敷のテラスに、執務机ごと移動して仕事をしているエスム様の姿があった。
彼は私が牧場で働く姿が見える位置でしか、仕事をしないと駄々をこねたのだ。
「チコリアー! 今日の鞭の音も最高だぞー! 愛しているー!」
開き直ったドMの彼が手を振ってくる。
その顔は幸せそうで、そして相変わらず少し変態的だ。
私は苦笑しながら、彼に手を振り返した。そして、手元の鞭を空に向かってピシャリと鳴らす。
それが、私たち夫婦の挨拶だ。
そういえば実家の家族は、遠い鉱山で元気に(強制的に)働いているらしい。
エスム様が実家のあれこれを決めても良いのかと思ったのだけど、改めて聞いてみると、あの場で王太子殿下が軽くOKサインをしていたようで…親しみやすいのか怖いのかわからないお方だ。
…実家の元家族については、私にはもう関係のない話だ。
私には今、帰るべき場所がある。
愛すべき動物たちと、美味しいご飯。
そして、私のすべてを受け止め、愛してくれる、世界一ドMで、世界一素敵な旦那様がいるのだから。
「さあ、仕事に戻りましょうか。……待っててね、私の愛犬」
私は鞭を腰に下げ、愛する人の待つ屋敷へと歩き出した。
その足取りは軽く、もう二度と、靴が脱げることはなかった。
おしまい。




