お兄様は病弱な妹の看病を言い訳にして婚約者を蔑ろにしているのに、私のそばにすら来てくれなかった
私の世界は、ずっと小さかった。
生まれつき体が弱かった私に許された場所は、屋敷の自室と体調が良い日だけ出られるお庭。
窓の外に広がる空の色が変わるのを眺めて、季節を知る。使用人たちが持ってきてくれる花で、庭のどこに何が咲いているかを想像する。
それが私の日常だった。
同年代の令嬢たちがお茶会や夜会で顔を合わせ、噂話をしたり、婚約者の話で頬を染める。
そういう世界が屋敷の外にあることは知っていた。でも、それは私にとって、本の中の物語と同じだった。
知ってはいるけれど、触れることはできない。
私は、侯爵令嬢。本来なら、あの令嬢たちと同じ世界にいたはずだった。
お茶会で笑い、夜会で踊り、いつか誰かと婚約して、頬を染める日が来たかもしれない。
でも、この体はその「本来」を許してはくれなかった。
お兄様と遊んだ記憶を探すと、いつも手が空を掴む。
幼い頃、一度だけお兄様が私の部屋に来たことがあったと思う。でも、それが本当の記憶なのかそうであってほしいと願った夢なのか、もう区別がつかない。
お兄様は、私より五つ年上で、私が物心ついた頃にはもうお兄様の世界と私の世界は別々だった。
寂しいと思ったことはある。でも、悲しいとは違う。最初からなかったものは、失ったとは言わないから。失われなければ、悲しいとは思わない。
◇
お兄様に婚約者ができたと聞いたのは、ある春の日のことだった。
使用人のアンナが着替えを手伝いながら教えてくれた。
相手は侯爵家のご令嬢で、フィリーネというお名前だと。
「とてもお綺麗な方だそうですよ、リゼット様」
「そう。お兄様の婚約者……」
社交界に出られる令嬢なら、とうに彼女について知っていたのだろう。
でも私はこの小さな部屋の中で、使用人の言葉からしか外の世界を知ることができない。
窓の外で花が散っていた。
私には関係のない話のはずだった。お兄様の社交も、婚約も、その先にある結婚も。
私が立ち入ることのない外の世界の出来事。
それでも少しだけ、胸が動いた。お兄様の隣に立つ人が、どんな人なのか知りたいと思った。
◇
フィリーネ様からお見舞いの品が届いたのは、婚約が決まって一ヶ月ほど経った頃だった。
小さな籠に、乾燥させた花びらと蜂蜜の瓶と一通の手紙。
『リゼット様。はじめまして。クラウス様の婚約者となりましたフィリーネと申します。お体の具合はいかがでしょうか。お目にかかれる日を楽しみにしておりますが、どうかご無理はなさらず、まずはお体を大切になさってくださいませ。この花びらは、お湯に浮かべると良い香りがいたします。少しでもお気持ちが和らげば幸いです。』
丁寧な文字だった。一文字一文字に気持ちが込められているのがわかる。
私のことを思って、何を贈ろうか考えてくれた人がいる。会ったこともない私のために。
花びらをお湯に浮かべてみた。甘く穏やかな香りが部屋に広がって、私は少しだけ泣いた。なぜ泣いたのか、自分でもわからなかった。
それから、フィリーネ様の手紙は季節ごとに届いた。
夏には、涼しげな扇子と「日差しが強くなりますのでお部屋の風通しを」という気遣い。
秋には、温かな手袋と「編み物を始めたのですがなかなか上達しません」という少しだけくだけた文面。
冬には、お茶の葉と「寒い季節はお体に障りますからどうかお温かくして」という言葉。
私は毎回、返事を書いた。体調が許す限り、できるだけ丁寧に。フィリーネ様の手紙が届く日が、いつしか私の楽しみになっていた。
会ったことのないこの方を、私は好きになっていた。
◇
違和感を覚えたのは、婚約から半年ほど経った頃だった。
使用人たちの会話が、ふと耳に入った。
「旦那様、今日もお茶会をお休みになったそうよ」
「リゼット様のご体調が、って」
「でもリゼット様、今日はお加減がよろしいって先生がおっしゃっていたのに」
最後の言葉に、私の手が止まった。
お兄様が、私の体調を理由にお茶会を休んだ。でも今日、私の体調は良い。医者もそう言っていた。では、なぜ。
お兄様は、私の部屋には来ていなかった。今日も、昨日も、先週も。看病どころか、顔を見せることすらなかった。幼い頃から、ずっとそうだった。
私の看病を理由にしている。でも、私のそばにはいない。
その矛盾に気づいた時、胸の奥に冷たいものが落ちた。
それからは、注意して聞くようになった。使用人たちは、私の前では言葉を選んでいたけれど、廊下の向こうから聞こえてくる声までは隠せなかった。
お兄様は夜会も休んだ。私の体調を理由に。舞踏会も休んだ。私の体調を理由に。観劇も。お花見も。全部、全部。
私の体調が悪い日も、良い日も、関係なかった。お兄様は、ただ私の病気を便利な言い訳として使っていた。
そして、そのたびにフィリーネ様が一人で社交の場に立っていた。
フィリーネ様の手紙には、一度もそのことが書かれていなかった。愚痴も、恨み言も、一文字もなかった。
ただ変わらず、私の体調を気遣い、季節の贈り物を届けてくださった。
その優しさが、私にはかえって苦しかった。
◇
お兄様が婚約解消されたと聞いたのは、ある朝のことだった。
アンナが朝食を運んできた時、その目が少し赤かった。
「アンナ、何かあったの」
「……リゼット様。旦那様の婚約が、解消になりました」
「フィリーネ様から?」
「はい。フィリーネ様の方から申し出があったと」
お盆の上の紅茶が、かすかに揺れていた。アンナの手が震えていたのだ。
私は、窓の外を見た。庭の花は静かに咲いていた。何も変わらない景色。
でも、何かが決定的に変わってしまった。
フィリーネ様が手紙に書かなかった痛みの全てが、一度に胸に押し寄せてきた。
あの方は、ずっと耐えていたのだ。一人で笑って、一人で取り繕って、一人で待ち続けて、静かに身を引いた。
お兄様のせいで。
「お兄様を、呼んでちょうだい」
自分の声が思ったよりも低くて、アンナが一瞬たじろいだのがわかった。
◇
アンナが戻ってきた時、その表情だけで答えはわかった。
「旦那様は、本日はお取り込み中とのことで……」
お取り込み中。いつもと同じだ。幼い頃からずっと。私が会いたいと思っても、お兄様にはいつだって私より大事な用がある。あるいは、大事な用があるということにされる。
「そう」
私は、布団を押しのけた。
「リゼット様!?」
アンナが慌てて駆け寄ってきた。私の足は、長く歩くようにはできていない。
部屋からお庭に出るだけでも息が切れる日がある。お兄様の部屋までは、廊下の一番奥まで行って、階段を上らなければならない。
「お体に障ります。どうかお休みになって——」
「アンナ、肩を貸して」
怒りではなかった。怒りであればよかったのかもしれない。怒りならば一瞬で燃え上がって、一瞬で消えてくれる。
そうではなくて、ただ、もう黙っていられなかった。フィリーネ様の手紙の温かさとお兄様の不在の冷たさが、私の中で限界を超えてしまった。
アンナの肩につかまり、一歩ずつ歩いた。廊下は長かった。
足が重い。息が苦しい。それでも、止まるわけにはいかなかった。
途中で他の使用人とすれ違った。驚いた顔をしていた。私が自室の外にいるだけで屋敷の中ではちょっとした事件だった。
階段を上る時、膝が震えた。アンナが支えてくれなければ、きっと途中で座り込んでいた。
「リゼット様、お戻りになった方が……」
「大丈夫。もう少しだから」
大丈夫ではなかった。でも、ここで引き返したら、きっともう二度とこの言葉を伝えられない。
お兄様の部屋の前に着いた時、私はノックをした。返事はなかった。もう一度、ノックをした。
「……誰だ」
「リゼットです」
沈黙があった。扉の向こうで、何かが動く気配がした。やがて、扉が開いた。
お兄様が立っていた。驚いた顔をしていた。私がここにいること自体が、想定外だったのだろう。
「リゼット? なぜこんなところに……体は」
「お呼びしても来てくださらないので、参りました」
お兄様は何も言えずに、私を部屋に通した。
椅子に座ると、体中から力が抜けた。ここまで歩いただけで、こんなにも消耗する。
私の体は本当に弱い。お兄様がそれを言い訳に使いたくなるほどに。
「婚約が解消されたと聞きました」
「……ああ。互いの合意だ」
「フィリーネ様から申し出たと聞いています」
お兄様は、少しだけ目を逸らした。
「お兄様。私のことを理由に、お茶会や夜会をお休みになっていたのですよね」
「……リゼットの体調が心配で」
「お兄様。私の部屋にいらしたことが何度ありましたか」
答えはない。答えられるはずがない。
「幼い頃から、お兄様は私のそばにいなかった。看病なんてしたことがない。私の体調が良い日も悪い日も、お兄様には関係なかった。ただ私の病気が、都合の良い口実だっただけでしょう」
声が震えそうになった。でも止めなかった。ここまで歩いてきた足の痛みが、私を支えていた。
「フィリーネ様は、お兄様が来ない社交の場に一人で立ち続けていました。そしてそのうえで、会ったこともない私にお見舞いを届けてくださった。季節ごとに。お兄様が私の看病を理由に予定を流すごとに。一度も愚痴を書かずに」
お兄様の顔から表情が消えていた。
「お兄様が私を理由にして怠けている間、フィリーネ様はお兄様の分まで社交界で頭を下げていたのです。お兄様に、同じことができますか」
沈黙が部屋を満たした。
お兄様は何も言わなかった。言い訳すら出てこないのだろう。
妹に対しても、婚約者に対しても、何一つ誠実でなかった自分を、ようやく突きつけられて。
「もう結構です」
私は、静かにそう言った。
「お部屋に来てくださらなくても構いません。いつもと同じですから」
アンナの肩を借りて立ち上がった。足がまだ震えていた。でも、来た時よりも少しだけ体が軽く感じた。
◇
翌日、私は便箋を広げた。
体調は良くなかった。昨日の無理が響いている。でも、今日書かなければいけないと思った。
『フィリーネ様。このたびのこと、お兄様に代わってお詫び申し上げるつもりはありません。お兄様の不誠実を妹が代わりに謝ることは、フィリーネ様に対してかえって失礼だと思うからです。
ただ、一つだけお伝えしたいことがあります。
お兄様は、私の看病などしておりませんでした。幼い頃から、私の部屋にはほとんど来たことがありません。
私の病気はただの口実で、お兄様は私のことも、フィリーネ様のことも、どちらも大切にしてはいなかったのです。
それを知りながら声を上げられなかった私を、どうかお許しください。
あなたの手紙は、私の小さな世界の中で、窓の外の景色よりも美しいものでした。あなたが届けてくださった花びらの香りも、手袋の温もりも、一つ残らず覚えています。
会ったこともない私に寄せてくださったお気持ちを、私は一生忘れません。
いつか——もしお許しいただけるなら、お目にかかりたいと願っております。あなたにお会いしたいのです。リゼットより』
書き終えた手紙を封筒に入れ、アンナに託した。
窓の外では風が吹いていた。花びらが舞い上がり、屋敷の塀を越えて飛んでいく。
私の世界はずっと小さかった。でも、この手紙だけは、どうか遠くまで届いてほしい。
◇
それから何週間か経った頃、風の便りが届いた。
使用人たちは、気を遣って隠していたかもしれないが、廊下の向こうから聞こえてくる声が私の耳に届いた。
お兄様のもとに、新しい縁談がなかなか持ち込まれないのだという。社交界でお兄様の名前が出る時、以前とは違う色がつくらしい。
侯爵令嬢を蔑ろにした人。妹を言い訳にして、婚約者を一人にし続けた人。一ヶ月も先の婚約パーティーを、妹の体調を理由に手紙一通で断った人。
社交界に出ることもできないこの小さな部屋にいる私にすら届く噂。外の世界では、どれほど広がっているのだろうか。
お兄様を気の毒だとは思わなかった。けれど、胸がすくとも思わなかった。
ただ、あの方がもう一人で笑わなくていいのだとしたら、それだけで十分だった。
私の世界は、ずっと小さかった。でも、小さな世界にも風は届く。
いつか、この窓の向こうから来てくれる人がいると、今は信じている。
お読みいただきありがとうございました。
フィリーネ視点の短編『病弱な妹が大事なのはわかるの。でもね、蔑ろにされる側の痛みも、貴方には少しだけ知ってほしかった』と兄視点の短編『病弱な妹を言い訳にし、婚約者を蔑ろにした侯爵は、社交界に背を向けられる』も投稿しています。お読みいただけましたら幸いです。
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