後編
「…魔王様」
「! 起きたのか。体の調子はどうだ?」
「…ちょっとだけ痛みがありますが、大丈夫そうです」
「そうか」
魔王に愛された女性は、疲労を色濃くした愛する人の表情に少しだけ顔を歪ませた。このような表情をさせたい訳では無かった。だが、それに何かを言えるほど女性の心身は癒されてはいなかった。
「…ことの顛末を聞きたいか?」
「……はい」
村の人たちが大好きだった。
特産もなく、こじんまりとしていたが誰もが互いを思いやり毎日を精一杯生きていた。
―――あのように命を奪われていいはずがなかった。
魔族の人たちが大好きだった。
魔王と知り合ってから種族が異なっても思いを通じ合わせることが出来るのだと知った。
彼についてやってくる魔族たちが優しいことも知った。
―――私たちを救おうとしてくれた彼らが、失われた命に嘆き傷ついた。
どうして同じ人族であるのに、このような非常な真似が出来たのか、女性には理解が出来なかったのだ。
理由は何となく察せられる。だがそれだとしても理解できなかったのだ。
「…其方の国の王女が、私に懸想した。あろうことか勇者が宴の席で其方のことを話したらしい。そのせいで其方がこのような目に遭うこととなってしまった」
「そんな…」
女性も勇者のことは知っている。というより人族で彼を知らない人族はいないだろう。だが女性はそのような話ではなく、魔王本人から勇者のことを聞いていたのだ。
自分は身体を傷つけられたが、魔王は心を傷つけられたのだと気づいた。
「勇者様、は」
「アレとは縁を切った。いや、今回のことで人族がいかに恐ろしい存在なのか魔族の中で広まった」
「それはどういう…」
魔王は愛する女性を見ると、痛ましげに目を細めながらも言い放った。
「魔族と人族は縁が断たれた。二度と友好的な関係になることはないだろう」
「!!」
それは実質戦争を始めるという言葉に等しいものだった。
「そ、そんな、駄目です、魔王様…だって、魔王様は世界の平和を…!」
「その一番守りたかった平和を、奴らは踏みにじったのだ!!」
魔王は女性の手のひらに自信の額を押し当てながら喘ぐように言葉を続ける。
「―――あの日、私が傷ついた其方を見て、どれほど絶望したか…。それを話したのが勇者だと知った時など、言葉に出来ようがない…!」
***
「す、まない、口が、滑って…」
「謝罪で終えられる問題だと思っているのか? 馬鹿にしている」
「ちが、そんなんじゃ…!」
「結局貴様も他の人族と変わらぬ。我々魔族を見下していたのだろう?」
「そんなことない!!」
「ならばなぜ、私が信じて話したことをこうも簡単に滑らせる?」
「そ、れは…」
そして魔王は酷く冷めた目で勇者と王を睨んだ。
「人族とは恐ろしい…欲の為ならば無辜の民を蹂躙できるのだから」
「なっ!?」
「欲の為ならば幼子ですら手にかける、これを人でなしと呼ばずして何と呼べようものか」
それは勇者も知らぬことであった。
しかし魔王の気迫からして本当のことだと悟る。
「なんて、ことを…!」
「それもすべて、貴様が安易に口を滑らせたせいだろう?」
「―――!!」
魔王の責める言葉に、勇者は言葉を失うほかない。しかし王は必死に反論した。
「勇者よ!! 魔王の言葉なんぞ信じるのではない!! 貴様は人族の勇者であろう!!」
「ふん、まだ囀るか、外道め」
勇者は何を信じていいのかわからなかった。
ずっと世界の平和のために尽くしてきた。そしてそれを担えるだけの力があるとも思っていた。歴代の勇者のように、平和にしたかっただけなのに。
これは、自分が望んだ世界ではない。
呆然とする勇者に、魔王は興が削がれたように息を漏らすと王と王女に近寄る。
「ま、まて、待ってくれ、何を…」
「言葉にせねばわからないのか? こ奴らは我々が望んだ平和を壊した。こ奴らのせいで、我々の道は違われた。その報いは受けるべきだろう」
「に、憎しみでは平和は訪れない!! 相手を許さなければ、平和はない!!」
それは勇者の精一杯の言葉のはずだった。
歴代の勇者の言葉、それは今代の勇者にとってもとても大切な信念ともいうべきものだった。しかしそれを魔王は鼻で笑った。
「―――勇者よ、貴様のその言葉は、どうにも軽く聞こえてならん」
魔王の言葉に、勇者は頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
「確かに憎しみは平和を生まない。そんなことは理解しているとも。だがな、憎しみを昇華することでしか癒えぬ傷がある。貴様は、善良に生きていただけのあの村人たちに―――欲望のために殺されたあやつらに、憎まずに死ぬことを受け入れろとでもいうつもりか? はっ…だとすれば貴様はきっと、人の心を知らぬのであろう」
魔王はそう呟き、王と王女を部下に抱えさせる。
「まってくれ、そんな、俺だって、そんな酷いことを…」
「囀るな、貴様との会話に価値を見出せん」
やめろ、離せと叫ぶ王と未だに意識を失ったままの王女を魔王は冷酷に見る。
「貴様らはその身を以てしてこの世界の平和を破壊したことを知るがいい」
実際のところ、魔族ほどの能力があれば人族の企みなど容易に感知することが出来たはずだった。しかし今までの魔王然り今代の魔王にしても優しすぎた。
平和を望む彼らは、人族の良心を信じていた。姿かたち、力の差こそあれど同じ世界に生きる者同士、手を取り合うことが出来るのだと信じていた。
人族と魔族との間には越えられない力の差がある。かつて人族を掌握しようと叫んだ魔族もいた。それだけの力が魔族にはあるのだからと。だが、魔王はそれを許可しなかった。
力があるものが力に溺れて他種族を意のままに蹂躙するのは理性のある生き物の生き方ではないと。
言葉を解せるのであれば、分かり合えるはずだ、と。
しかし優しい人ほど怒らせると怖いという。
心優しくあろうとした魔王を、魔族を、人族は踏みにじった。
今までに一切なかったわけではない。だが、それでも魔族は弱い人族ゆえの過ちと赦していた。
しかし最愛を傷つけられた今。
今まで押さえつけていた怒りが燃料となり憎悪が増幅したのだ。
ずっと和平を保っており、優しさを見せていた魔族のいきなりの宣戦布告に、人族は慌てふためいた。そして何故そうなったのかを調べ、ある国の王と王女のせいだと知り、憤怒した。真っ当な王は魔族の恩恵をよく知っているのだ。だからこそ友好的な関係をずっと築くようにしていたというのに、それを一瞬で壊された人族の恨みは舌鋒にし尽しがたいものだった。
結果として、魔族と人族は全面戦争をすることはなかった。
しかし魔族は今までのように人族に手を貸すことを一切しなくなった。魔石を融通することも、魔物が暴れ国家を壊滅させようとも、魔族は一切の関与をやめたのだ。
そのせいで何が起こったか。
まず人族は魔石の恩恵を失い、今まで当然のように享受していた快適な生活が送れなくなった。満足に火をおこすことすらできなかったのだ。そして魔物による被害が増大した。人族は危険度が高い魔物が出現した際には魔族に依頼をし、代わりに討伐してもらっていたのだ。各国に軍はあれど、ろくに戦闘をしてこなかった彼らは一番最初の餌となったのは言うまでもない。そして討伐されることのない魔物は村を、街を、国家を蹂躙した。
唯一抵抗できる勇者一行は、休む間もなく働くしかなく、日に日にその姿は凄惨なものへと変化していった。
人族は日々怯えるだけの毎日を過ごしながら、その数を減らしていく。
そんな彼らに、魔族は無感情でしかなかった。
***
「―――どうして、こんなことになったんだろう…」
勇者は、最後にそう言い残して魔物に食い殺されたという。その凄惨な姿を見てしまったメンバーは、先の見えない戦いに心がおられ、一人を残して自死を選んだという。
残った一人は、勇者をしっかりと見ていなかったために起こったのだと自責の念にかられ、全てを記録にするために必死になって生き抜いた。彼は戦えなくなるまで戦い、そして欠損した体で手記を書き終えると、そのまま息を引き取った。
勇者の一行が全滅した報せはすぐさま人族に知れ渡ることになる。なぜなら、魔物を討伐出来る人族がいなくなったことで甚大なる被害が出た為だ。
その後も勇者の運命を持つものは生まれるものの、満足な鍛錬も出来ぬまま戦闘に赴きその命を散らすものが多かった。
「――――ぉ、して、こ、ろ…し…」
かつて自身の欲のために同族を傷つけた王と王女は、魔族領の朽ち果てた古城で人としての姿を無くしながらも生きながらえていた。
魔族の中でも研究肌のものが人族の生命とはという壮大な実験を彼らに施したのだ。二人にはかつての面影はなく、それでも狂うことが許されない中今もなお身体を弄繰り回されていることを知っているのは、魔族でも数人しかいない。残された彼らの血族は人族の手によって凄惨の死を遂げたが、ある意味楽な死であったとも言えるだろう。
今なお彼らの名は、人族では口にすることも憚れる名として残っている。
魔王の最愛は、その後魔王とともに魔族領で静かに生きたとされる。
されるというのは、彼女のその後は表舞台に出ていないからだ。足が不自由のため、魔王が城に囲っており現在も生きているとも、とうの昔に亡くなったとも噂される。しかし魔王に子がいたことから、少なくとも彼女がすぐに亡くなったわけではないだろう。
だがそれを人族が知ることはない。
現在も当時の魔王はその地位についている。
稀に魔物との戦闘に生き残った勇者が魔王を悪とし、討伐しようとしてくるのだ。その度に魔王は勇者だけは容赦なく嬲り殺しにしていた。生き残ったメンバーが命からがらに理由を聞くと、勇者だけは許すことは生涯ないと返されたという逸話が残っている。
その言葉の真意を理解できる人族はほぼいなかった。
人族は時を経るごとにその数を減らした。そして生き残った人族は環境に適応するかのように力や魔力を身に着けるものも生まれるようになった。しかしそれでも魔族とは超えられない力量差が今なお存在している。
強く生きる人族の中には、魔族が本来この世界を制するべきだと主張しながら細々と生きている。そのような主張をすることで魔族にすり寄ろうとした人族ももちろんいたが、魔族の領に入った途端その魔素に耐え切れず絶命するか命からがらに逃げ出した。
また人族の中には力あるものは弱者を救うべきだと主張し、魔王に面会を求めるも悉く無視され激怒した。しかし激怒したとて人族に何かできるわけでもなく。結果として和平を結びたいと言ったその口で魔族をこき下ろした人族は同胞からも口先だけだと罵られ、徐々にその居場所を失ったものもいた。
一部の人族はこの断交理由を知らぬまま、昔の人々が語る古き良き時代というものを空想する。
古き良き時代というものを知らない人族はただただその日を必死に生きた。
二つの種族が交わることは当分ない。
あるとすれば、魔王が人族を赦すか、あるいは斃されるまで。