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 芝生の感触を踏みしめながら、しばらく黙って歩いていた。


「どうよ、最近」

「仕事もまぁまぁ楽しくて、そこそこ充実してる、かな」


 当たり障りのない答えを返した。


「……カズがこっち帰って来たって、知ってる?」


 遠慮がちに、入交くんは言った。


「うん」

「そっか。明日、筒井とか谷脇とか小松とか、あの辺の連中と飲む約束してんだ」


 挙がった名はどれも高校時代の野球部員だった。


「カズも来るよ」

「そうなんだ」


 入交くんは私の顔を覗き込んできた。

 ふわり。入交くんからはお酒の匂い。お祭りだから、きっとワイワイ飲んでいたのだろう。

 私は目を逸らして、公園の木にとまったセミの幼虫を見つめていた。


「お前ら、なんで別れたの?」

「……今さら、その話?」

「今だから、だよ」


 どくん、とひとつ心臓がはねた。

 この間の出来事を、知っているのだろうかと。


「もうさすがに時効だろ?」


 付け加わった言葉に、ひとり安堵する。

 どうやら知っているわけではないらしい。


「お前らずっと、めちゃくちゃ仲よかったじゃん。なのに、ほんとに突然口もきかなくなってさ」

「……理由は私に聞かないで彼に聞けばいいんじゃないかな」

「聞いたよ。でもあいつ、絶対に口割らないんだよ。上澤にも絶対に何も聞くなとか言って」


 そういえば、最悪な初キス事件についてその後誰かから何かを言われたことはなかった。別れた理由を聞かれたこともなかった。あの事件は、からかいのネタになってもおかしくないようなものだったのに。


「大学入ってからも休みは割と予定合わせて帰ってきて集まってたんだよ。そこで上澤の話が出るとさ、まぁ皆聞くわけよ。お前ら結局なんで別れたんだよって。その度カズは本気で不機嫌になるんだ」

「そっか」

「でも一回だけベロンベロンに酔った時にポロッとこぼしたんだ。『俺のせいだ。たぶん俺が急ぎすぎた』って」

「え……?」

「もし上澤がそれで怒ってるんだったら、もう許してやってくれねぇかな? 高校生ってそういうの、ちょっと急ぎがちじゃん?」


 彼はむしろ、私のペースに合わせてくれていたような気がする。急ぐどころか、付き合ってから半年近く経って初めてキスしようかというくらいの流れだったから。


「俺はおせっかいだからさ」


 昔から世話好きだった入交くんは、私と彼が付き合う前もしょっちゅう「お前ら付き合わないの?」と言ってきたし、「上澤、好きな奴いないの? 俺が仲取り持ってやろうか?」と持ちかけられたことも何度もあった。


「あいつがずっと上澤のこと引きずってるの見て気になってたんだよ。クラスの女子が大学で垢抜けたとか可愛くなってたとか、そんな話しても全然興味なさそうなのに、上澤の話になると身を乗り出すんだ」


 言葉がうまく、出てこなかった。


「急ぎすぎが理由でフラれたのに、浪人終わって大学入った途端の華やかな男性遍歴だろ。カズはやっぱ、やりきれなかったと思うよ」


 ――麻衣はさ、変わったよな。


 相変わらず、言葉は見つからない。

 入交くんはそんな私から視線を逸らし、小さなため息をついて肩をすくめた。そして、靴先で地面を掘った。湿っぽい、土の香りが漂ってくる。


「カズに何か伝えることある?」


 入交くんは真顔だった。

 私は首を横に振りかけて、止めた。


「……『ごめん』って」

「え?」

「『ごめんね』って、伝えて」


 彼が急ぎすぎたわけではない。彼のせいじゃない。

 謝らなくちゃいけないのは私の方だ。お詫びのはずのディナーはあんな形で終わってしまったし。


「それは、何に対して?」

「高校時代のこと。ごめんって。カ……上村くんのせいじゃないって。あれは、私が……」


 『飽きちゃった』

 高校時代には思いつきもしなかった言い訳だ。

 恋愛を綺麗に終わらせる方法を今の私は知っている。重ねた経験は私をひとつずつ賢くしたはずだ。

 簡単なことだ。これまでに何度も繰り返してきた決まり文句を口にするだけ。騙す相手は本人じゃないのだから、いつもよりずっと簡単に口にできるはず。

 入交くんは私の言葉を待っていた。


「……『大好きだった』って」

「え?」

「え?」


 入交くんが聞き返したのと同時くらいに、私も自分で声を上げていた。

 私は、一体、何を。


「……過去形、なのか?」

「過去形、だよ」


 頭の整理がついてないうちに、入交くんがぼそりと言った。私もそれに、ぼそりと答える。


「なのに泣くの?」

「だって、懐かしい、から」


 大好きだった。本当に。

 純粋で、キレイで。

 素直で飾り気のないあの頃の感動が、金魚の帯みたいに愛おしい。

 涙は一筋だけ頬を流れて、ぽとりと地面に落ちた。


「伝えるよ」


 入交くんは当時みたいにからかったりせず、涙の理由をそれ以上追及することもなく、静かにそう言った。

 大人になった。彼も、私も、あの彼も。

 その後焼きそばのテントに戻ると、先輩は相変わらずにこやかだった。


「話せた? もう少しゆっくりしてきてもよかったのに」

「ありがとうございます。もう大丈夫です。次は先輩、休憩どうぞ」

「じゃあ、行ってこようかな。旦那が娘と来てるはずだから、あとで焼きそば買いに連れてくるね」


 そう言って先輩は一心不乱に焼きそばを焼く自治会のおじさんの方にちらと視線を流した。


「売上に貢献しないと『焼きそばおじさん』がうるさそうだから」


 支店からは毎年数人がこのお手伝いに駆り出されていて、焼きそばテントを取り仕切る「焼きそばおじさん」のことは代々語り継がれていた。どこの町内会にもいそうな仕切り屋のおじさんだ。町内会の人の参加率が悪いと文句をつけるし、干渉がましいし、やたらと偉そうに振る舞うしで煙たがられているけど、誰もやりたくない露店を毎年熱心にやってくれるからと、皆テキトーに言うことを聞いているらしい。


「上澤ちゃんだっけ? あんたは、結婚は?」


 先輩がいなくなってほどなく、増えてきたお客さんをさばいていると、そのおじさんから声がかかった。


「まだです」

「まだってことは、もうすぐなの?」

「いいえ、予定もないんです」


 まったく、困っちゃいますよね。

 そんな表情を作りながら、おじさんが焼いたものを私がパックに詰め、鰹節をのせ、紅ショウガを添える。


「最近の子は結婚遅いねぇ」

「そうですね」

「昔はクリスマスケーキって言って、二十五過ぎると売れ残りだったんだよ」

「そうなんですか。私いま二十五なので、もうギリギリですね」

「急いで探した方がいいんじゃないの。せっかく可愛い顔してんだからさ、若いうちにちょちょっと結婚しちゃわないと、歳食ったらどんどん不利になるよ」


 じゅうじゅうもくもくと、鉄板から煙が上がる。

 パックを閉じ、輪ゴムで止め、割り箸を輪ゴムにするりと通す。


「ふたパックで八百円になります」


 ビニール袋に入れてお客さんに手渡し、また次のパックを手に取る。


「彼氏もいないの?」

「いないんです」

「なんで?」

「何で……でしょう」


 鉄板からの熱で、全身汗びっしょりだ。


「愛嬌もあるし、人気ありそうなのに」

「そうですか? ありがとうございます」

「うん。可愛い子が売り子やってると、やっぱりよく売れるよね。自治会のおばちゃん連中が揃って『あの子にやらせたらいいよ』って言ってたんだ。大当たり」


 どうやら体よく押し付けられたらしいことを理解した。


「うちの甥っ子、新聞社に勤めてるけど、どう? 三十四。バツいちだけど、なかなかイイ男だよ」


 笑いながらの言葉だから、どこまで本気だかよくわからなかった。でも、きちんと断っておかないと後々めんどうなことになりそうだと判断して、こちらも笑いながら答えた。


「彼氏はいないですけど、好きな人がいるんです」

「片想いってやつ?」

「そうです」

「支店の人だったりして? それならおじさんも知ってる人かも」

「いいえ、職場の方ではないです」

「どんな奴なのよ。ちょっと言ってごらんよ。おじさんが判断してやるから。うちの甥っ子よりいい男かどうか」

「高校の同級生です」


 ただの言い訳だったはずのそれが、ずるずると真実味を帯びる。


「へぇ、それで?」

「初恋の人で……卒業してからずっと会ってなかったんですけど、ついこの間久しぶりに再会したんです」

「そっかぁ。そういう歴史があるとなると、うちの甥っ子もちょっと太刀打ちできないかもなぁ」


 作り話でよかったのだ。焼きそばおじさんのお節介計画を頓挫させられさえすれば。

 嘘っぽくなりすぎないようにと適度な真実を混ぜ込んだはずのそれは、嘘というには少し重かった。どこまでが嘘で、どこからが真実か、自分でもよくわからなくなってしまう程度には。


「うまくいくといいね」


 おじさんの言葉に頷きながら、耳の前を伝う汗を拭った。

 紅ショウガの正体を知ってしまった私は、知らなかった頃のキラキラした感動を得ることはないだろう。

 だけど代わりに、焼きそばとの相性が抜群なことも、刻んでたこ焼きに入れるとおいしいことも知っている。枝豆と一緒に天ぷらにすると、酒の肴に最高だということも。

 あの女の子の感動とは違う、新しい感動を得るたくさんの方法を。


〈上村です。伝言、聞いた。できれば会って話がしたい〉


 次の晩、短いメールが届いた。

 とうにわからなくなったとばかり思っていた彼のメールアドレスは当時と変わっていなかった。私のアドレスもまた、あの当時と同じだ。ずっと変えずに同じアドレスを持ち続けていたのは、心のどこかで何かを期待していたせいかもしれなかった。




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