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 もうすぐ築五十年を迎える木造の家は、すでにあちこちにガタが来ている。風呂場の引き戸の尋常ならざる重さもそのひとつだ。


「よっこらしょう」


 思いっきり力をこめてズリズリと戸を開け、タイル張りの洗い場に入って、再びの「よっこらしょう」と共に戸を閉める。

 古い家だからあちこちに隙間でもあるのか、夏になると得体の知れない虫たちがどこからともなく襲来する。風呂の高い天井の近くには今日も小さな虫が何匹か張り付いていたけど、自分に向かって飛んでこない限りは別に害もないのでそのままにしておくことにした。

 ここで暮らし始めたばかりの頃は大きな蜘蛛を見つけて悲鳴を上げたり、トイレの壁にはりついた小虫ひとつで大騒ぎをしたりしていたけれど、今では慣れたものだ。虫たちとの共存は田舎に暮らす宿命だから。

 虫から目を離し、ボディーソープをスポンジにつけて丹念に泡立てた。

 すでにほとんど消えた鬱血痕をなぞるように首からゆっくりとスポンジを滑らせる。お酒で火照った肌に触れる泡の感触は普段と少し違う。ふわふわ、やわやわとしていて、何となくつかみどころがない。

 首、耳の後ろ、肩……毎日繰り返すこの作業には自分の中で決まった順序があるけれど、その順序は家庭によって、人によって違うものらしい。私の場合は母から教わったものだ。


 ――『まずは首から。そう、上手上手。耳の後ろを洗って。それから、肩。腕。うんうん、麻衣ちゃん、その調子』


 優しい声に、初めて嗅ぐボディーソープの香り。それらと共に私を包み込んだ苺の香りが、私にどれほどの安らぎを与えてくれたことか。あの日と同じボディーソープをあの日と同じようにぬるめのお湯で洗い流していたら、不意に涼子の言葉が蘇ってきた。


 ――やっと普通の恋愛ができるじゃん。


 普通の恋愛。

 それは私がずっと願ってきたはずのものだった。匂いに邪魔されない、ただ、普通の恋愛。

 シャワーを頭からザーザーとかぶる。


 ――俺が抱かせてって言ったら、抱かせてくれんの?


 彼の言葉に傷ついたわけではない。

 ただ、キレイな思い出と一緒に粉々になったものがあった。

 粉々になったのは希望だ。

 人並みでいい。

 普通でいい。

 ただ、好きな人に好かれたい。

 その人とずっと一緒にいたい。

 バカみたいに追い求めてきたものは、追い求めたがゆえに手の届かないところに行ってしまった。

 私ひとりを大切に想ってくれるような誠実な人は、短命な恋愛ばかりを繰り返す私みたいな女を本気で好きにはならない。そんな当たり前のことに、あのひと言で気づかされたような気がした。


 ――抱かせてくれんの?


「ヤケっぱち、だったのかなぁ」


 そう呟いたつもりだったけど、シャワーを頭から浴びていたせいでガボガボという音しか出なかった。

 シャワーコックを締め、顔の水を軽く手で拭う。それからシャンプーを済ませ、面倒だからとトリートメントは省いて風呂を上がった。濡れた手足ではなかなか踏ん張りが利かず、出るときの「よっこらしょう」は入るときよりも力がいる。

 掛け声とともに風呂の戸を閉め終えると、バスタオルで手早く体を拭いていく。

 急いで済ませたつもりだったけど、部屋着を身につけ終わるころにはすでに洗面台の鏡は真っ白に曇っている。バスタオルの隅っこで鏡の真ん中をキュッキュと拭いて化粧水をつけ、生乾きの髪の毛をタオルで包んで洗面所を出た。


 洗面所のすぐ隣にはトイレがあり、廊下の左側のドアを開けるとダイニングキッチン。反対側の障子戸が居間につながっている。

 居間からは、光と共に相変わらず楽しそうな笑い声が漏れてきていた。


 真ん中の弟は明るく、話がうまい。大学から持ち帰った色々な話を面白可笑しく語っているに違いない。

 私もその輪に入ろうと襖に手を掛け、開いた瞬間だった。

 飛び込んできた団欒だんらんの風景と、飛び込んでくるはずだった家族の甘い匂い。母からは苺、父からはブルーベリー、真ん中の弟はラズベリーで、一番下の弟はコケモモだった。だけど今は、障子から漂うかすかな紙の匂いがするだけだった。


「あ、上がった? ご飯、ダイニングのテーブルの上に置いてあるよ」


 母の声がどこか遠かった。


「ねぇちゃん? ぼぉっとして、どした?」


 下の弟の声も遠い。


「髪早く乾かさないと風邪ひくぞ」


 父の声はうっすらとした膜の向こう側から聞こえてくるようだった。


「おい、ねぇちゃん。飲みすぎか? オーイ」


 上の弟の声でようやく我に返った。

 数度瞬きをし、視線を団欒の風景に戻す。


「大丈夫? のぼせたの?」

「ううん、ごめん、大丈夫。お母さん、ご飯ありがとう」

「洗い物は明日の朝まとめてやっちゃうから、終わったら食器流しのとこに置いといてくれればいいから」

「わかった」


 障子を閉め、ダイニングへ続くドアを開けた。

 暗い空間に一人分の食事。

 記憶の片隅にわずかに残る声が耳の奥で響いた。


 ――あっち行ってろ、ガキが。

 ――あんたのせいでまたフラれたよ。

 ――カップ麺、置いてあんだろ。カップ麺が嫌だなんて言える立場だとでも思ってんの? ひとりで生きていけないガキのくせに。

 ――邪魔なんだよ。視界に入るな。

 ――ゴミ出しとけって言わなかった? 忘れたじゃねぇよ。ふざけてんのか。

 ――さわんなよ。

 ――甘ったれんな、泣いたって優しくなんかしねぇからな。

 ――こぼすんじゃねぇよ、こぼすなら食うな。

 ――なに見てんだ。その目がムカつくんだよ。


 高い声に、時折低い声が混じる。

 低い声はどれも違う人物のものだ。声の主は違っても、かけられる言葉はほとんど同じだった。いつも苛立ちと嫌悪が混じった言葉をぶつけられた。

 それをかき消すように頭を振ると、優しい声が脳裏に響く。


 ――給食費、もらえたかな?

 ――この痣はどうしたの?

 ――お母さん、今日はお家にいる?

 ――お母さんに会ってお話ししたいって伝えておいてくれるかな?

 ――いつも夜、ひとりでいるの? お母さんは?

 ――この間ここに来たときに一緒にいた男の人は誰? お母さんの恋人?


 わからない。

 わからない。

 どうして嫌われているのか、どうして邪魔にされるのか。

 いつ怒られるのか、どうして怒られるのか。

 あの人がいつも、どこへ出かけていくのか。

 次はいつ帰ってくるのか。

 誰と帰ってくるのか。

 その人は叩く人なのか。

 どうすれば叱られずに済むのか。

 どうすれば好きになってもらえるのか。

 わからない。

 わからない。


 ――麻衣、ごめん。今まで気づいてやれなくて、ごめん。お父さんたちと暮らそう。新しいお母さんも「楽しみにしてる」って。

 ――麻衣ちゃん、はじめまして。「お母さん」って呼びにくかったら、無理に呼ばなくてもいいからね。いつか呼んでくれたら嬉しいけど。

 ――麻衣、これが麻衣の弟だよ。ショウヘイっていうんだ。今日から麻衣はお姉ちゃんだ。もうすぐもう一人弟が増えるから、もっと賑やかになるよ。


 遠い、遠い日の記憶。


 ――『麻衣、心当たりはないの? 匂うようになった理由とか、急に匂わなくなった理由とか』


 何度思ったことだろう。


「どうして私にだけ匂いがわかるんだろう」

「こんな能力、いらないのに」


 だけど、失ってしまった今ならわかる。

 あれはきっと、身を守る術だった。

 そしてたぶん、心を守る術でもあった。




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