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「麻衣、じゃあ、気をつけて」
「うん、ありがとう。涼子もね」
バイバイ、と手を振り合った。それからまた少し歩き、ひとりで汽車に乗る。都会の人からはときどき「汽車って何? 電車でしょ?」と聞かれるけど、あいにくこれは電車じゃない。動力が電気じゃなく、ディーゼルエンジンなのだ。
そんな汽車は三両編成の単線で、四十五分に一本というのんびり具合だ。四十五分待つのとタクシーを拾うのとで微妙な選択を迫られることも少なくないけれど、今夜はタイミングよくわずかな待ち時間で乗ることができた。
ごとん、ごとん。
揺られながら、向かいの窓の外を見つめていた。空が少しずつ黒に染まっていくのは不思議な光景だ。家々からもれる橙の灯りが空の群青と交じって暖かな色を創り出している。青でも、黄色でも、オレンジでもない。
――オレンジ。
何となく、手の甲で額をごしごしとこすった。たぶん、自分の中で生まれかけた何かを消そうとして。
お酒を飲んで体がぽかぽかしているせいか額には少し汗がにじんでいたから、手の甲は汗でするりとすべって目尻へと落ちる。その目尻は、あの日からずっと乾いたままだ。
もう二度と会うことはないだろうと思っていた人と再会して、たぶんもう二度と会わなくなっただけ。それはきっと、哀しむようなことじゃない。
無人の駅に電車が止まり、改札口に備えられた箱に切符を入れて駅を出た。
駅から家までは直線距離で二百メートルほど。街灯の数は少なく、両脇の家からこぼれる灯りがなければ夜にはほとんど真っ暗になるけれど、この辺りで不審者が出たという話は聞かない。
平和で、きっと少し取り残された古い町。夜の一人歩きで気を付けなければならないのは変質者よりも側溝だ。毎年この季節には台風が上空を通過していくから、大量の雨水を逃がすために道路の両脇には深さも幅も九十センチくらいの大きな溝がある。台風のときはゴーゴーという濁流が過ぎるそこも、普段はちょろちょろとわずかな流れしかないものだから、ボウフラもわんさか湧くし、ヒキガエルの鳴き声がうるさくて眠れない夜もある。
だけど、私はこの町を、この場所を、この家を離れようと思ったことは一度もない。
「ただいまー」
古い日本家屋の引き戸をガラガラと開け、家に入った。
玄関には靴が四足。革靴が一足と、私のよりも一回り大きいローシューズが一足、すっかり汚れて黄ばんだ運動靴が一足に、脱ぎ散らかされたサンダルが一足。家族はすでにみんな帰宅しているらしい。サンダルの持ち主とは、久しぶりの顔合わせだ。
框を上がるとすぐに短い廊下があり、右手には二階に続く透かし階段が、左手には居間に続く障子がある。障子越しに光と音楽と数人分の笑い声が漏れているから、皆でテレビでも見ているのだろう。
ひっくり返ったサンダルと自分の靴をそろえて廊下を進み障子を開けると、やはり思った通り、炬燵用の長方形の座卓を囲んで両親と弟二人がテレビを見ていた。
「あっ姉ちゃんおかえり」
Tシャツに短パンでくつろいでいる下の弟、晃平はまだ高校二年生だ。三厘の坊主頭に毎日の部活でこんがりと焼けた姿は焼きおにぎりのようだと、いつも思う。
「ういーっす久しぶりー」
首を反らしてこちらを見上げてそう言ったのは、上の弟の翔平だ。上の弟は春から大阪で大学生をしているが、夏休みを利用して帰省すると聞いていた。どうやらそれが今日だったらしい。髪の色がすっかり明るくなっているところをみると、大学生活をエンジョイしているのだろう。
「ただいま。翔平、達者でなにより」
「侍みたいな挨拶やめろよ」
「彼女できた?」
「そんなにすぐにはできねぇって。そういうねぇちゃんはどうなんだよ」
「さぁて、どうでしょう」
上の弟と軽いやり取りをしていたら、下の弟が「あ」と小さく声を上げた。
「ねぇちゃん、上村さんって知ってる?」
この状況で一瞬言葉に詰まった私は、決しておかしくないと思う。
「ええっと、どちらの上村さんのことかな」
「何かさ、来週から新しいコーチ来ることになってさ、今日その人が挨拶に来てたんだけど」
「うん」
「うちのOBで、センバツ出たときのチームにいたって言ってたから、ねぇちゃんと代かぶってるんじゃないかと思って」
ほとんど確実に、あの上村さんだ。
県内には甲子園での優勝経験を誇るスポーツエリート高校があり、春夏を通じて私の母校が甲子園に出場した回数は多くない。
「……下の名前は?」
「忘れた」
「一成、だったら、知り合いだけど」
「あー……そんなだったような……」
弟は少し嬉しそうに言った。
「ねぇちゃん、仲良かった?」
「いや、ただのクラスメイト。仲は……微妙」
紛うことなき真実だ。卒業前も、今も、彼との仲は微妙以外の何物でもない。
なぜこのタイミングで、と一瞬思ったけれど、野球部のかつてのヒーローが帰郷してこちらに腰を落ち着けるとなれば、コーチの打診があっても不思議ではない。そして私と彼の再会も彼の帰郷がきっかけなのだ。つまり、とりたてて驚くような偶然ではない。
もちろん、びっくりしたけど。
「なんだ、そっか」
残念そうな弟に、一応釘を刺しておくことにした。五寸釘くらいのぶっといやつを。
「まぁだから、そのコーチに私のことを聞いたりしないように」
「えっねぇちゃんの高校時代のこととか聞き出してやろうと思ってたのに」
それはありとあらゆる意味でまずい。
「いらんことせんでよろしい。余計なことしたらもう二度とテスト前の一夜漬けノート作ってあげないから」
「えっそれはやばい。あれがないと俺赤点確実だもん」
「それなら大人しく言うことを聞きたまえ」
「へーい」
弟がつまらなそうに短い返事をしたところで、母がニコニコと笑いながら「麻衣、ご飯食べた?」と尋ねてきた。
「うん。軽くだけど」
「夕飯のおかず少し残ってるけど、食べる? お酒飲みながらだと、あんまり食べてないんでしょう」
「じゃあせっかくだから、もらおうかな」
母は「よっこらしょう」と言って立ち上がる。
その言い方が、私の「よっこらしょう」にそっくりで笑ってしまった。一緒に暮らしていると似てくるものなのだろうか。
「いいよ。自分で用意するから」
「いいのいいの、お母さんやるから、その間に楽な服に着替えてきなさい。ついでにお風呂も入っちゃったら? 今日も蒸すから。汗かいたでしょう」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
「たくさん飲んだならシャワーだけにしときなさいよ」という母の言葉に「はーい」と返事を返しながら、部屋着兼寝巻にしている高校時代の体操着を持って風呂場に向かった。