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 外に出ると、ぶるり肩が震えた。日中は嫌になるほど暑いくせに、朝晩は冷え込みがきついのだ。日暮れ後一時間ほどたつと、ぐんと寒くなる。

 スマホを確認すると、時刻は二十三時を回ったところだった。少しホッとした。それほど遅い時間でなくてよかった。


 それでも田舎の夜は早い。すでに人通りも車通りもない夜の道をひたすら歩く。

 トンネルの中は、響く自分の足音が怖くて小走りになった。トンネルには怪談がつきものだから、きっとここにも一つや二つ、あるのだろう。


 トンネルを抜けるとすぐに、二人でタクシーに乗り込んだ病院が見えてくる。

 まだタクシーがいるだろうかと期待したけど、一台も見当たらなかった。

 すでに終バスの時刻も過ぎているし、路面電車はとっくに終わっている。

 家の方角も道もわかるけど、疲れた体を引きずって歩くには少し遠い。


 どうしたものかと迷いながら、病院の駐車場の車止めに腰を下ろした。下半身が重い。

 この辺りではそこそこ大きな規模の病院で、たしか救急外来もあったはずだ。救急用の入り口はたぶん裏側なのだろう。外来入口、と書かれたガラスの向こう側は真っ暗で、非常灯の緑のライトだけがぼんやりと浮かび上がっている。


「上澤?」


 声をかけられ顔を上げると、外灯の光の下に立ってこちらを窺い見ていたのは、キンモクセイの人だった。


「……新井さん……」

「こんな時間に、どうした?」

「新井さんこそ、どうされたんですか?」

「救急に妹を連れてきたんだ」

「えっ」


 何ができるというわけでもないのに、慌てて立ち上がった。


「いや、大丈夫だよ。軽い食中毒だった。それがわかって安心したところ。いま点滴打ってるんだ。それで、大丈夫だったっていう連絡を親に入れるために出てきたら人影が見えたから」

「そうでしたか。よかったですね、大事に至らなくて」

「うん。上澤は?」

「あの、ちょっと……」


 夜の病院の駐車場にひとりで座り込んでいる女なんて、それこそ怪談だ。


「見舞い? なわけないか、この時間に」

「あ、はい。今ちょっと……帰りで」


 新井さんは眉を持ち上げた。支店から自宅までの通り道でないことを知っているからだろう。


「……家まで送るよ」


 キンモクセイの匂いはしない。でも代わりに、嫌な臭いもしなかった。


「あ、いえ、平気です」


 『飽きちゃったの』なんて吐き捨てた女を相手に、この人は何を言い出すのだろう。


「だってこの時間だから、足、もうないでしょ? どうするつもりだったの?」

「歩こうかな、と」

「家まで?」

「はい」

「歩くには結構距離あるし、危ないよ」

「平気です。それに、妹さんが。ついててあげてください」


 チアで培った自慢の笑みを浮かべてみたけど、新井さんはニコリともしなかった。


「点滴はまだ時間かかるから、その間に送って戻ってこられるよ。点滴の間ずっとくっついててやらなくちゃいけないほど子供でもないし、なんならウザがられるくらいだ」

「でも……」

「俺の車に乗るのが嫌、とかじゃなければ」


 そう言われてしまうと断わりにくい。

 それに、体がひたすらに重かった。


「ごめんなさい。お礼は今度必ず」

「礼なんていらないよ」


 深々と腰を折ると、柔らかな声が返ってきた。

 付き合っていた時に何度も乗せてもらった車内からは、私をあれほど悩ませたキンモクセイはすっかり消えていて、オリエンタルな香水の香りだけが漂っていた。

 つまり、新井さんは私をもう好きじゃないってことだ。

 傷つく権利なんてないのに、じくじくした傷口に息をふきかけたときみたいに、つんと胸が痛んだ。


***


 クールな涼子が珍しく怒っているようだった。

 表情は普段とほとんど変わりなくて、違うのは眉間に皺が寄っていることくらいのものだけど。


「バカもの」

「ええとそれは、私のことでしょうか」

「もちろん、そうですとも」


 涼子の声が鋭い。


「ええと、うん。弁解の余地はありません」

「一体、何がどうなったらそんな急展開になるの」

「私にもよくわからないです」


 あの日の出来事を涼子に話すかどうか、実はちょっと迷っていた。絶対に怒られるという確信があったし、涼子の氷点下の怒りはなかなか恐ろしいからだ。

 ところが迷っているうちに、涼子のほうから電話がかかってきた。『今日、うちの支店長に用事があったらしくて新井さんが来てたんだけど』と。

 キンモクセイの新井さんは、あの日私の首筋に鬱血痕――いわゆるキスマークを見つけていたらしい。その上私が一人であんなところに座り込んでいたものだから「何かひどい目に遭ったのでなければいいけど」と心配して涼子にそれとなく尋ねたらしい。涼子は「それとなく」の意図に気づくには十分すぎるくらい敏いから、すぐに私に連絡をくれた。『洗いざらい吐きたまえ』と電話口で言った涼子の声は普段より一オクターブくらい低かった。

 話すかどうか迷っていたとはいえ嘘をつく気にもなれなかったから、定時退社日の今日、仕事帰りに涼子と会って事のあらましを説明し、今に至る。

 話の中盤から涼子の目がだんだんと据わっていくのを目の当たりにして、早くも話したことを後悔しつつあるけど。


「最低」


 さらに厳しいお言葉を食らい、私の体が勝手に後ろに下がる。


「……ええとそれも、私のことでしょうか」

「ううん、これはちがう」


 涼子の声はやっぱり鋭い。


「上村先輩のこと」


 涼子はそう言って盛大なため息をついた。

 高校の一年後輩にあたる涼子は彼のことを知っている。


「はぁぁ。上村先輩、高校時代は爽やか系でイメージよかったのに。野球部の黄金時代のエースだったし、体育祭でも活躍しててさ。チア部の彼女ができたって聞いたときは、うちの学年の女子も残念がってたくらい」


 その「チア部の彼女」というのが私なものだから、何とコメントすればいいのかわからなかった。


「そんな人が、『ヤらせろ』だなんて、爽やか詐欺もいいとこだわ。本当最低」

「『ヤらせろ』とは言われてないよ」

「『抱かせろ』だっけ? 同じでしょ」


 普段のクールな態度にトッピングされた怒りは、私を少し怯ませた。


「正確には『抱かせてくれんの?』だったけど、まぁ、同じだよね」

「そんな最低な誘い文句、聞いたこともないよ。本当びっくりだわ」

「……人は変わるってことなんだろうね」


 彼に言わせれば、私は変わった。

 私に言わせれば、彼は変わった。

 つまり、二人とも変わったってこと。

 キレイな思い出の中の二人はもういなくなってしまった。それだけのことだ。


「タンスの角に小指ぶつければいいのに」


 かわいい呪いの言葉を吐きながら、涼子は腕を組んで背後の壁にもたれた。

 黒髪で前下がりのボブに、少しつり気味の大きな目。アイラインのハネを長めに描いた日なんて、「こんな顔の人、パリコレのランウェイを歩いてるよね」と言いたくなるような整った顔立ちをしている。

 そのせいだろうか。険しい顔をすると、とんでもなく怖い。


「でも、自業自得だってわかってるんだ。そんな女だと思われたのは私のこれまでの行動が原因だから。大学時代に涼子に言われたことが、ついに起きたなって」


 言いながら、お猪口を持ち上げた。

 くいと傾けてきゅっと吸う。


「それに、『いいよ』って言ったのは私だもん。彼を責めるのはお門違いかなって」


 『いいよ』って言ったときに驚いた顔をしていたから、追いかけてきたのはソレ目的ではなかったのだろうし。


「まぁ、麻衣にも山ほど言いたいことはあるよ。なぜそんな最低な誘い文句に乗ったのか、とか。それでなぜ、新井さんに実家まで送ってもらうような羽目になったのか、とか」

「うん。すみません」

「私に謝ってもしょうがないけど」


 涼子はまた小さなため息をつく。


「別に、麻衣を責めたいわけじゃないんだよ」

「うん。涼子が私のことを心配して言ってくれてるって、わかってるよ。ありがと。でも、私は元気だし大丈夫だよ」

「……その後、向こうから連絡はないの?」

「うん、何も」

「そっか」


 実際のところ私にもよくわからないのだ。どうしてあのとき「いいよ」なんて言ったのか。


「麻衣、答えたくなかったら答えなくていいけどさ」

「うん」

「ぶっちゃけ、今でも好きなの?」

「え?」

「麻衣は大学時代からフラフラしてたし、お世辞にも身持ちが堅かったとは言えないけど。付き合ってない人とそんな関係になったこと、ある?」

「……ない」

「よね?」

「うん」

「だから、上村先輩のことを好きなのかなって」


 好き。

 好き?


「……好きだった、んだよ。好き、なわけじゃなくて」

「過去形ってこと?」

「うん。高校時代のこととか色々思い出しちゃって。呑み込まれたっていうか」


 あの頃の二人の関係に戻りたい、と思ったわけではなく、あの頃の自分に戻りたかったのかもしれない。初めてのキスが散々な結果に終わるあの日より少し前、彼のことが本当に好きでたまらなかった、初々しくて愛しい私。


「手をつないだり、並んで歩いたりとか。そういうことだけで口から心臓を吐きそうなくらいドキドキしててさ」

「……もうちょっといい表現、なかったの」

「だってそれが、まさに、な表現なんだもん」

「で? 口から臓物をリバースしそうで?」

「……悪意を感じる」

「言い換えただけじゃん。で? 吐きそうでなんだって?」

「そういう経験って、この歳になると、もうあんまりないでしょう」

「まぁ、そうだね」

「『減るもんじゃない』とかいうけどさ。減っていくよね」

「何が?」

「感動とか、ドキドキとか。数を重ねるごとに減っていっちゃうんだよね。並んで歩いてるだけで、肩が少し触れるだけでドキドキしてたのが、いつの間にかしなくなって。手をつなぐのなんて当たり前になって。触れるようなキスだけで舞い上がってたのが、いつの間にか通過儀礼みたいになって」


 あの頃の私は彼の隣を歩いているだけで、世界のすべてを手に入れたくらいに幸せだった。

 大人になった今、あの頃のような鮮烈な感情を持つことはない。


「通過儀礼っていうの、たしかにわかるかも。その先に続くものを知っちゃうとね」

「うん。だから、減るんだよね。大事にしないと」


 涼子は神妙な面持ちで聞いて、小さなため息をついた。


「……それで? 電話で言ってた、匂いの件は?」


 彼女の声は静かだった。


「ええと……変わらず、かな」

「それはどっちの意味で?」

「戻ってない」

「消えたまま? 普通の匂いは? そっちも?」

「ううん、普通の匂いはするよ」


 手酌でついで、お猪口を傾ける。

 県内の造り酒屋の純米吟醸「青野」は人生で初めて呑んだお酒だ。私の成人のお祝いにと父が嬉しそうに買ってきてくれた思い出の清酒。

 そのせいか、今でも地酒を扱っている居酒屋に入ると必ずこれを頼む。

 喉をすりぬけていく冷たさと後を追う熱。甘い香りと爽やかなあと口。


 ほらね、ちゃんと。


 お酒の匂いは感じている。


***


「じゃあ、例の匂いだけが消えた感じ?」

「うん」


 お酒が生んだ熱が、お腹の中からやわやわと手足に広がる。その熱に乗せられてウツボの佃煮に箸を伸ばしたら、ネイルがみすぼらしく剥がれていることに気づいた。半月ほど塗り直していないから、当たり前といえば当たり前だ。彼に会った日にはまだキレイだったのが、せめてもの救いか。


 あの日は新井さんのご厚意に甘えて帰宅し、そのまま眠りについた。

 そして翌朝目覚めると、私の世界からは例の匂いがすっかり消えていた。

 家にはトーストの匂いもマーガリンの匂いもコーヒーの匂いも漂っていたし、朝シャンのときにはシャンプーの匂いもした。だけど、普段ならそれに混じってくるはずの他の匂いが無くなっていた。


 週が明けても、それは変わらなかった。七つ上の先輩から漂っていた腐りかけのフリージアも、支店長から漂っていたセージも、二つ下の後輩からの生ゴミも。全部が一気に消え失せた。

 反対に、私への好意だと思っていたパートの女性のサンダルウッドが香水の匂いだったことが判明したり、私のことを大嫌いなのだと思っていたお客様がただの強烈な体臭もちだったことがわかったりもしたけど。

 あれから一週間と少し。

 匂いが戻ってくる気配はない。


「まぁ、よかったんじゃない? 消えてくれて」

「……うん。ちょっと……不便だけどね」

「不便?」


 くい、と涼子は片方の眉毛だけを持ち上げた。


「自覚してたよりも匂いに頼ってたみたい」

「あぁ……他人の心を読む、的な?」


 心を読む、というほど大層なものではなかったけど。


「突然なくなると、皆の気持ちがまるでわかんなくて変な感じ」

「それって私にとってはごくごく普通のことなんだけど。たぶん私以外の大半の人にとっても」

「そうだよね」

「よかったじゃん。これで、濃厚なバニラやらラベンダーやらキンモクセイやらに恋路を邪魔されなくて済むんだから。やっと普通の恋愛ができるじゃん」

「うん」


 こくん、と頷いてはみたものの。


「恋愛はもう、しばらくいいかな」

「せっかく楽になったのに?」


 涼子は少し意外そうだった。

 私が恋愛に消極的だったことは今までになかったからだろう。


「はじめ方とか、よくわかんないし」

「はじめ方?」

「今までは簡単だったの。いい匂いの人を見つけたら嬉しいでしょ?」

「『でしょ?』って言われてもわかんないけど。そんなもんかね」

「男女関係なく、誰かに好かれるのって嬉しいじゃん」


 涼子は軽く首を傾げた。


「私は別に、自分が好きでもない相手にどう思われてもいい」

「……相変わらず、惚れ惚れするくらいの潔さで」

「そりゃどうも」


 肩をすくめ、涼子は猪口を手にしてズズ、とお酒をすすった。普段はウイスキー派の涼子だけど、二人で呑むときは私の好みに付き合ってくれることも多い。


「私は誰かに人として好かれてるっていうだけで嬉しいの。それで、もっといい匂いになってほしいって思うんだ」

「なるほど。それで?」

「いい匂いがする行動をとってたら、段々いい感じになっていくことが多いかな。あ、でも、その人からいい匂いがするのと同時にほかの人から嫌な匂いがすることもあったりしてね」

「あー……恋のライバルってこと?」

「たぶんね。そういうときは引くようにしてた」


 涼子はいつもの呆れ顔をした。

 それは本当に普段どおりの表情だけど、匂いという手段を持たない今の私には、涼子が本気で呆れているのかどうかの判断がつかない。


「……麻衣って、ほんとにぐちゃぐちゃ色々考えてたんだね」

「うーん、まぁね」


 匂いがなければ気づかなくていいことに、気づいてしまうからこそ。


「でも、麻衣が色んな人と付き合ってもあんまり女子に嫌われない理由、それでわかった気がするわ」


 涼子はもう一口お酒を飲んで、顔をしかめた。

 本人は気づいていないかもしれないけど、日本酒を呑むと涼子はいつもこんな顔をする。わたしが密かに『おっさん』と名付けているこの顔が出てくるのは、もうイイ感じに酔いが回っている証拠でもある。

 ぷは、と息をついて涼子は言った。


「別に誰かがその人のことを好きだったって関係ないじゃん。付き合ってる人を取るのはさすがに考えものだけど、片想いまで拾い上げていちいち気にしてたら疲れない?」

「うーん。でも、気を付けてたのは自分の知っている範囲だけだよ。別に優しさとかじゃなくて、ただ、周りの人が臭くならないための自衛手段だったから」


 だからよそでは随分と恨みも買っているのだろう。『あんまり』嫌われないというだけで、決して誰からも好かれるというわけではないし。その結果が、音速で広まる噂だ。


「……そういえば、カズくんにだって、もしかしたら彼女がいたかもしれないなぁ。なにも聞かなかった」

「カズくん、ね」


 涼子と目が合った。

 涼子が黙って頷き、私も何となく頷いて、一度会話が止まった。

 互いに箸に手を伸ばし、黙っておつまみをつつく。

 戻り鰹にはまだ早いから、この鰹のたたきは冷凍だろうか。

 そんなことを考えながら、肉厚のたたきを頬張る。くさみの少ない鰹のつるりとした食感と混じって、生姜の香りが鼻に抜ける。ふと視線をやった壁の品書きには『いの町の生姜』という墨字が躍っている。県内の特産品だ。

 そういえば、高校三年間の担任の先生は生姜の香りだった。あれはどっちだったのだろう。いい匂いと、いやな臭いと。私は好きな匂いだけど。

 生姜のぴりりとした後味を楽しんでから口を開いた。


「まぁ……だからさ」


 涼子の目が、「だからって、どれの話?」と言っている。


「いままでは、だいたい向こうのいい匂いから始まることばっかりだったから、不思議なんだ。相手が自分のことを人として好きかどうかすらわからない白紙の状態から、どうやったら始まるのかなって」


 随分さかのぼったところまで話を戻したけど、涼子はそのことについては何も言わなかった。


「……おかしいのは匂いだけだと思ってたけど、色々おかしいんだね」

「そうなんだろうね。私にとっては普通のことだったけど」

「まぁ……それも全部匂いのせいっちゃ匂いのせいか」


 呆れたというよりも疲れた感じの表情で涼子は言った。


「涼子、めんどくさくなってる?」

「あ、バレた? でもたぶん、見た目ほどじゃないよ」


 涼子はそう言って笑った。


「なにこれ、私もちょっと不便。これからはいちいち説明しないといけないの?」

「だって涼子、あんまり表情変わんないからわかりづらいんだもん」

「うわ、その台詞、前の彼氏にそっくりそのまま言われたことあるわ」


 嫌そうな声だったけど、笑っているということは本気で嫌だったわけではないのだろう。

 とくとく、小さなお猪口につぐお酒は透き通っていて、まるで水だ。だけど水よりも甘く、水よりも辛くて、水よりも熱い。


「まぁ、そんなわけだから。今は、恋とかそういうのはいいかな」


 涼子は頷いた。


「しばらくは普通の感覚を楽しんでみるのもアリだね」

「そうする。慣れるまでにちょっと時間かかりそうだし」


 透明の液体を体に流し込んでから、どちらからともなく「そろそろ行こうか」と立ち上がった。

 居酒屋を出て夕暮れ時のぬるい空気の中を歩いていると、涼子がなんてことはなさそうに言った。


「麻衣、心当たりはないの?」

「んー?」

「匂うようになった理由とか、急に匂わなくなった理由とか」

「んー」


 今日は星が綺麗だ。

 星座には全然詳しくないけど、あの真ん中にある星の輝きはきっと一等星だろう。

 もしかしたらゼロ等星かもしれない。

 ん? ゼロ等星? そんなのあったかな。あったような、なかったような。


「まぁ、わかんないよね」

「うーん」


 真上を向いたまま歩いていると、少し足元がふらついた。今日は随分と飲んだから。


「麻衣」

「んー?」

「麻衣ってば」


 ゆるゆると視線を下ろすと、涼子が私を見つめていた。

 消えかけのアイラインに縁どられた大きな目が、お酒のせいか少し潤んでいる。


「大丈夫だよ。麻衣は大丈夫」


 涼子の目は力強かった。

 たぶん今、匂いがわかったなら。

 涼子は大学生のあの時と同じくらい甘い匂いなんじゃないかな。

 そんな気がした。


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