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 カラン。


 何かが転がる小さな音がして足を止めた。慣性で体が前につられるのを二、三歩でこらえ、トン、とつま先で止まって大きく息を吐いた。

 振り向くと、鞄から飛び出したらしいリップスティックが地面に転がっていた。よろめきながら指先でつまみ、拾い上げて鞄に戻す。

 喉の奥で唾が絡んで苦しくて、前傾姿勢のまま肩で荒い息をした。汗があふれて顎を伝い、地面に落ちて染みになる。

 脇の車道を、シャア、ともザァ、ともつかない音と共に、車が次から次へと通り抜けて行く。腹が立つほど軽やかに走る車に、取り残されたような気分になりながら息を整えた。

 鞄から大判のタオルハンカチを取り出して首に張り付いた髪の毛を払い、汗をぬぐったそのときだった。

 後方から近づいてくる足音が聞こえた。


「麻衣」


 振り向くと、彼が私と同じくらいの荒い呼吸でそこにいた。


「足は、俺だって、負けてなかった」


 ぜぇぜぇという息の合間に、彼は言った。

 そりゃあ、負けているはずがない。彼はアンカーだったもん。私が四位でもらったバトンを二位で渡し、彼が一位でテープを切った。最終種目だったリレーはクラスの総合優勝にも大きく影響する大事な得点源だったけど、私の内心は得点どころではなかった。チーム四人で抱き合って喜ぶ中、彼の腕が私の肩に触れていることが気になって仕方なかったから。


 ――麻衣、ナイスラン。

 ――カズくんも。


 ぷは、と、目の前の彼が前かがみで膝に手を当て、息をつく。

 ゴールテープを切った鉢巻き姿の彼の姿がゆらりとかぶさる。


「それに、靴がさ」


 ぜぇ。


「パンプスと、スニーカーじゃ、俺の方が、断然有利だ。歩幅も、違うし」


 彼は切れ切れに言ってTシャツの肩口で顔の汗を拭い、襟元を引っ張って風を通すようにパタパタした。


 ――やべぇ、汗、止まんねぇ。

 ――制汗スプレーいる?

 ――麻衣のって女っぽい匂いのやつだろ? やだよ、恥ずかしいから。


 緊張をゆるめたくて飲んだ、たった一杯のサングリアのせいか。

 そのあとの全力疾走のせいか。

 体をめぐる熱が全部、頭に押し寄せる。


「ごめん」


 彼は言った。

 この謝罪は何に対してだろう。

 制汗スプレーを断ったこと?

 ちがうちがう、それは昔の。


「あの言い方はひどかった」


 噂は全部本当のことだし、私は噂に傷ついたわけではない。彼の言葉に傷ついたというのとも、たぶん違う。

 かすかなオレンジと、ヘドロと、自分の汗の匂いと。

 青い青い空の下を彼めがけて必死で走る自分と、それを追って風に乗る声援。

 それが今のものか、昔のものか、判断するのが難しいくらいに色んなものが押し寄せてくる。

 まとわりつくすべてを払うように一度頭を振った。


「いいよ」


 すぅ、と。押し寄せていたものが一度に消えた。

 謝罪に対する答えだと思ったのだろう。彼はホッと安堵の表情を見せた。

 だから私は、もう一度わかりやすく言った。


「いいよ。しても」

「え?」

「しても、いいよ」

「ま……」

「いいよ、カズくん(・・・・)


 切れ長の目が大きくなった。一瞬困惑に揺れ、それからすぐに定まった。

 彼は私の意図をはかりかねているようだったけど、私にも自分の気持ちがわからないのだから無理もなかった。

 少し歩いた場所にある病院前でタクシーを拾い、二人とも無言で乗り込んだ。


「本当は……麻衣があの支店にいるって、知ってたんだ」


 彼は窓枠に肘をついて手に顎をのせ、外を見ながら言った。


「……そっか」


 ああ、だから金曜だったのかと、妙に納得した。最初からこのつもりだったのなら、翌日仕事のない金曜を選ぶのは自然だ。


〈今日は遅くなるから、先に寝てください〉


 通信アプリを開いて家族のグループに送信すると、ほどなくして母から返信があった。


〈飲みすぎないようにね〉


 たぶん支店の飲み会だと思われたのだろう。

 スマホを鞄にしまい、ふぅと一つ息を吐きだして窓の外を眺めた。


 トンネルの中、等間隔に並んだオレンジ色の灯りがひとつ、またひとつと後ろに飛んでいく。

 ぐるぐると巡る熱と、裏腹にやけに冷静な自分がせめぎ合っていた。

 古びたラブホテルの前にタクシーが停まった時には、せめぎ合っていた感情はすでに「後悔」の方向に振りきれていた。だけど、それを口に出すことができなかった。今更そんなことを言えば、きっとヘドロの臭いが襲いかかって来るに違いない。それをただただ恐れたからだった。


 彼が何を考えているのかはわからなかった。漂ってくる匂いは不安定で、何の匂いと呼べばいいのかわからない。今日みたいな真夏日の炎天下に数時間オレンジを置いておいたらこんな匂いになるのかもしれない、と思った。


 薄暗い部屋に入ると、言葉もないままキスをされた。理解が追いつかない状況の中で唯一確かなことは、そのキスが不思議に優しいことだった。

 あの日みたいに強烈なオレンジに気分が悪くなることはなかった。それは残酷なことのようでもあったし、今の私にとっては楽なことでもあった。ただ、舌を絡めたら一瞬強烈なヘドロの臭いに包まれた。このタイミングで悪臭なんて、むごい。胸がしくりと痛む。


 夏場で薄着だから服を脱ぐのにさほど時間はかからなかった。

 汗で肌に張り付いた服は、脱ぐ、というよりも剥く、といった方がよいかもしれなかった。剥かれた服は入口からベッドまで点々と床に落とされ、唇は離れないまま、全力疾走で汗まみれになった肌を大きな手が滑って行く。

 くすぐったいような、もどかしいような。

 とん、と肩を軽く押されてベッドに沈み込んだ。

 ぎし、とマットレスが軋む。

 体を見下ろされるのが恥ずかしかったから、腕を伸ばして彼の体を引き寄せた。

 柑橘と何か別のものが、ないまぜになった匂いが降ってくる。

 きっと軽蔑されている。

 こんな女になったのか、と。

 粉々になっていく。

 ひとつ、ひとつ。


「まい」


 声は固かった。

 初めてそう呼ばれたときのことが蘇った。


 ――ねぇ、「麻衣」って呼んでいい? 俺のことも「カズ」でいいから。


 そう笑いかけられて、呼び捨てはちょっと、と妥協案として「カズくん」を呈示した。

 休み時間には他愛もない話で盛り上がった。


 ――やっべ、制服のズボンの下にパジャマ履いたままだったわ。

 ――えぇっどうしてそんなことになるの?

 ――寝坊して急いでたんだよ。


 私に覆いかぶさっている彼の汗が、ぽとりと頬に落ちた。


 ――カズくん、夏休みの間に背伸びた?

 ――ひと夏で十センチだよ。すげぇよな。

 ――それに黒くなったね。

 ――毎日部活ばっかだったからな


 腕をつかむ力が少し強くて反射的に体をよじった。途端に臭いが増す。


 ――今日俺、部活休みなんだけど。

 ――私も休みだよ。

 ――うん、知ってる。帰り、行く?

 ――いいね。


 デートはいつも、当時出来たばかりだった大型のショッピングモールへ行った。娯楽施設の少ない田舎だから学校帰りに寄れるようなデートスポットがほかになかったのだ。友人の誕生日プレゼントも親戚の入学祝いもそこで買うし、流行りの服をそこで揃え、映画もそこで観る。 放課後にショッピングモールでタピオカドリンクを飲んで、プリクラを撮るのが王道のデートだった。

 あのときのプリクラを今でも机の引き出しにしまってあると言ったら、彼は驚くのだろうか。おそろいのポーズをとって互いの名前と日付を書き込んだ遠い記憶は、小さな缶に封印されている。

 首筋にかかる息が熱くて、耳を擦る彼の髪の毛がくすぐったくて、顔を少し逸らした。

 彼は体を少し離して私を見下ろした。

 一瞬彼を見て、ゆるりと目を逸らす。


「まい」


 もう何の匂いだかわからなくなってきた。

 部屋に染みついた煙草の匂いに、自分の汗の匂い、彼の汗の匂い。オレンジの香りの強さは波みたいに移ろっている。ビニールを破くピリッという小さな音がして、新たにゴムの匂いが混じりこむ。

 私はずっと昔のことを考えていた。

 カズくん、やっぱり大きいな。

 身長は――あの頃から変わっていなければ――百八十六センチ。百四十九センチの私とは四十センチ近い差がある。


 ――麻衣はバス、お子様料金で行けるだろ。

 ――失礼な! もうちょっとで百五十センチなんだから!


 休日にバスを乗り継いで海岸近くにある古びた水族館に行ったこともあった。なんてことのない小さな水族館だけど、ちゃんとイルカもアシカもいたし、ウミガメに餌をやることもできた。


 ――うわ、力、強い。

 ――カズくん、危ないから早く離さないとっ!


 割り箸で煮干しをつかんだままウミガメと綱引きを始めた彼の服の裾を必死で引っ張った。


「んっ……」


 漏れる声は、体を揺すぶられることに対する反応だった。


 ――麻衣。キスしてもいい?

 ――うん。


「っく……」


 雄の匂いと汗の匂いと、オレンジと。

 怒りなのか、嫌悪なのか。ヘドロがふわりふわりと襲い来る。

 欲望とも激情ともわからないものをぶつけられている。


 ――俺、麻衣のこと好きなんだけど。


 両想いだとわかって、うれしかった。

 クラスの友人たちに冷やかされるのも、照れくさいけどうれしかった。

 瑞々しい思い出たちが、浮かんでは消え。気持ちが乾いていく。


「……まい……」


 耳元で、微かな声が聞こえた。

 その瞬間だけは、ほかのすべての匂いを飲み込んでしまうくらい、オレンジが強かった。荒れる息を整えようと口で呼吸をしていたおかげで、気分が悪くなることはなかったけれど。

 大きくひとつ息を吐き、数度腰を揺らして彼が離れていったから、終わったのだとわかった。

 最初から最後まで、言葉はほとんどなかった。

 ふぅ、と静かに息をつく。

 私は仰向けに転がっていただけで、何ひとつしていないというのに、体がひどく重い。

 湿っぽい掛布団の下にもぐりこんで横を向き、ぎゅっと体を丸めた。


「麻衣……?」


 しばらくして、後始末を終えたらしい彼から背中にかけられた声は私を気遣うもののように聞こえたけど、振り向くことはできなかった。

 自分がどんな顔をしているかわからなくて、彼に見られたくなかったから。

 背後で彼も布団にもぐりこむ気配がして、すぐに私の髪に彼が触れたのがわかった。


 ――麻衣の髪、つるつるだな。


 彼は昔よく、私のポニーテールをつかんで引っ張った。くい、と軽く。


 ――ちょっと! 崩れちゃうよ!


 別に複雑な髪型でもないのだから、崩れたら直せばいいだけだった。でも、照れくささを誤魔化すために苦情を申し立てると、決まって彼は「ごめん、つい」と笑った。

 休日、学校ではいつも束ねている髪を下ろしていると、やけに嬉しそうだった。

 さわさわと、毛先だけを弄ばれている。髪を伝って根元へと響くかすかな震動が、緩やかな眠気を誘う。

 その感覚に身を委ね、目を閉じた。


 ほんの一瞬のまばたきのつもりだったけど、たぶん少し眠っていたのだろう。

 次に目を開けた時には、背後から規則的な呼吸が聞こえてきていた。

 何度か強く目をつぶって掛布団の端からするりとベッドを抜け出した。

 彼の方を見ると、私に背を向けていた。


 しばらくその姿を見つめたあと、のろのろと服を着た。部屋が冷房でちょうどよく冷えていたおかげで汗はすでにひいていたけど、服はまだ湿っぽかった。入口に脱ぎ捨てられたスニーカーを揃えて並べ、自分のパンプスを履いて部屋を出た。

 廊下は薄暗く、小さなエレベーターは心許なく揺れる。



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