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「こうも久しぶりだと、何から話していいもんかよくわかんないな」
向こうから誘っておいてそんな言葉で始まった夕食は、穏やかに進んでいた。
場所は支店からそれほど遠くない、こぢんまりとしたレストランだ。もともとはフランス帰りのシェフが始めた「地元の海産物と野菜を使った上質なフレンチ」という触れ込みのお店だったけど、この田舎で高級フレンチの需要はそれほど多くなかったのだろう。数年で畳まれてしまったお店を地元のレストランチェーンが居抜きで買い取り、リーズナブルな洋食屋へと変身させた。フレンチシェフが凝りに凝った内装はとてもお洒落で、値段もちょうどよい、お気に入りのレストランのひとつだ。
「上村くんはいつこっちに戻ってきたの?」
「上村くん、ね」
そう言って彼は肩をすくめた。
上村 一成。
高校一年の時に同じクラスで、「かみさわ」と「かみむら」という互いの苗字のおかげで入学時の席が前後だった。
たぶん気が合ったのだと思う。自然と仲良くなって、お互いを「麻衣」「カズくん」と呼ぶようになるまでに時間はほとんどかからなかった。彼から漂ってくるいい香りが果たして異性に対する好意なのか、それとも純粋に友達としてなのか。全然わからなくて、彼の言動に一喜一憂したりもしたものだ。
「帰ってきたのはつい二週間くらい前だよ」
「そうなんだ。東京から戻ってきたら、こっちは何もなくて退屈しない?」
東京へ出た友人たちの多くは、ここへ帰ってくるたびに「空気はおいしいけど、遊ぶところがない」とぼやく。そんな言葉たちにどうしてか少し傷ついてしまうのはたぶん、田舎をバカにされたとかじゃなくて、自分が置いてけぼりにされた気がするからだろう。皆が変わっていくのに、自分だけ変わらないような。
「まぁね。でも俺、こっちが好きでさ。向こうにいたときからちょこちょこ帰って来てたから。そんなに新鮮って感じでもないな」
「そっか」
「俺、ここの空が好きなんだよ。高くて青くて」
「東京の空は青くないの?」
「青くないんだよ、これが。快晴の日でも色がくすんでる」
「そうなんだ」
「帰って来るたびに、変わらない空の色にホッとしてた」
同じ空なのに。
その後も当たり障りのない会話が続いて、時折はさまる沈黙にほんの少しの気まずさも感じて。
注文した料理の皿がほとんど空になったところで、彼が水を一口飲んだ。
「麻衣は変わったよなぁ」
グラスを置きながら軽い口調で言われた。
「え?」
急な言葉に驚いた。
変わったところなんてあるだろうか。
高校時代と変わらない場所に住んで、同じようなことで悩んで。高校生から見た二十五歳は随分と大人だったのに、実際は全然変わらないものなのだと日々実感している。
「こっちに帰ってくるたびに、噂、聞いてたから」
彼の言う「噂」がどんな内容だかは聞くまでもなかった。自分にまつわる噂を知っているからでもあるし、彼の表情から明らかだったからでもある。
だけど、確かめるように聞いた。
「それは……男性関係……ってこと?」
彼は小さく数度頷いた。
「そっか」
「随分モテるって? あーまぁ、モテるの自体は相変わらず、なんだけどさ」
「モテてるわけでは……」
「高校時代からモテてたろ。可愛いし、明るくて。いかにもチア部って感じで。麻衣と付き合いはじめたとき、めちゃくちゃイジられた」
その言葉を彼がどんな気持ちで紡いでいるのか、まるでわからなかった。
「たぶん、だからなんだよな。高校時代の男共で集まると、必ず麻衣の話が出る。大学の先輩と付き合ってるらしいとか、今は同期だとか、サークルの後輩だとか、バイト先だとか。長い休みに帰省するたびに二つも三つもアップデート情報があって」
ちくり、ちくり。
胸を刺す棘の正体は何だろう。
後悔だろうか。
それとも、何か別の。
「高校時代は、モテるけどそんな感じじゃなかったのに」
過去形が心を穿った。
そんな感じじゃなかったのに、いまの私はそんな感じなのだ。どんな感じかといえば、つまり。
とっかえひっかえ男と付き合っては、短期間で別れる女。
「そうだったっけ」
傷ついていることを隠したくて、『飽きちゃった』の台詞と同じくらいの冷たさで、同じくらい興味なさそうに吐き捨てた。同じくらい、消耗した。
「忘れられない奴がいて、それを忘れるために付き合ってる……とか?」
切れ長の目がまっすぐに私を見つめている。
「それなら俺、ちょっと気持ちわかるからさ」
そこに何かの期待がこもっているのはわかったけれど、私は首を横に振った。
「ううん。そういうのじゃないよ」
「……じゃあ、ただ男が好きってだけか」
「うん、そうそう。ただの男好き」
――ちがう、そんなんじゃない。たしかに大学時代はとっかえひっかえ、求められるままに好きでもない人と付き合った。でも、それはもうやめて、ちゃんと好きだと思った人と付き合うようになった。匂いのせいで短命で終わってしまうことばかりだけど、それでもちゃんと、相手のことを好きだった。
心の中で山ほど言い訳をしたけど、頭ではわかっていた。
私の行動を客観的に見れば、ただの男好きだ。
それに実際、男性が嫌いというわけじゃない。
涼子みたいにクールに「私は一人で生きていくんじゃないかなぁ」とも言えなくて、探し続けている。たったひとりでいいから、ずっと傍にいられる人を。
「じゃあ――」
彼は一度下を向いて、額に大きな手を当てた。
すらりと伸びた指はいかにもピッチャー。野球のことにあまり詳しくなかった私にフォークボールの握り方とか、スライダーの回転とか、そんなことを一生懸命説明してくれたあのときと何一つ変わらない指だ。
思い出はキレイだった。
キスのときの失敗以外は、全部全部キレイで幸せな記憶だった。
「――俺が抱かせてって言ったら、抱かせてくれんの?」
キレイだったそれは、胸を締め付けるギリギリとした音とともに脆くも崩れ去った。
「……それを言うために食事に誘ったの?」
さっき彼の目に滲んだ期待は、これだったのか。
彼から目を逸らし、自分の手を見つめた。何の変哲もない、ただの指だ。長くもなく短くもない指に小さな爪がくっついている。他の人みたいに伸ばそうとしてもすぐに割れてしまうから、いつも短く切りそろえて、窓口業務に差し障りのない地味な色のエナメルを塗っている。
彼からの返事はなかった。
返事のないことが返事だったから、私の指はそのままゆっくりと鞄の中にもぐりこんだ。大学時代から気に入って使っている長財布を持ち上げ、お札を数枚引っ張り出してテーブルの上に置いた。そして鞄の持ち手をつかむ。
「麻衣っ」
その間ずっと息を止めていたから、彼がどんな匂いを放ちながらそう言ったのかはわからなかった。
知りたいとも思わなかった。
息を止めたまま店を出て、苦しくなるまで走り続けた。
昔から走るのは嫌いじゃなかった。
高校の体育祭の男女混合リレーで彼と一緒にクラスの選抜選手になった。第三走者だった私はアンカーだった彼にバトンを渡すとき、ドキドキしすぎて落とさないか心配だった。
酸素が足りなくて、頭の奥でどくどくと血管の脈打つ音が聞こえる。
止めていた息を一気に吐き出したのと同時に、風が目に当たって涙があふれた。
頬を切る風はぬるくて湿っぽくて、ちっとも気持ちよくなかった。
耳の奥では、遠い日のチアの掛け声が聞こえていた。