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今日も暑い。
日本の南の方に位置するこの辺りは気候的には亜熱帯に属している。外を歩けば数分で汗だくになるし、肌をじりじりと焼く太陽の熱に体力を全部奪われる。
そんな地方だから、夏場の熱中症患者の数は深刻だ。おまけに高齢者の割合が四十七都道府県の中でトップレベルに高いことも相俟って、この時期には毎日のように憂鬱なニュースが流れる。
だから今日みたいに暑い日には、冷房を求めて店舗にやってくるおじいちゃんおばあちゃんたちの姿がちらほら。家で一人きりで冷房をつけて過ごすのはもったいないし、引きこもってばかりでは退屈だろう。
地域密着を強みにしている地方銀行にとって、彼らは大切なお客様だからと、今の支店長の方針で店舗の隅に小さな休憩スペースを作った。すぐ近くにはウォーターサーバーも置かれ、地元の高齢者のちょっとした団らん場所ができている。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。あぁ、涼しくて生き返るー」
外から入った時に「涼しい」と感じる温度というのは、その中で一日中座っているには少し低すぎる。だから支店の女性陣は皆、カーディガンとレッグウォーマーを装備して業務に当たる。
「こんにちは、水飼さま。鳥居さま。ちょっと失礼しますね」
カーディガンの袖をまくりながら常連のおばあちゃま方に声を掛けつつ、空っぽになったウォーターサーバーのボトルを取り換える。
こうした作業の合間に地域のおばあちゃんやおじいちゃんと話をするのも大切な業務の一環だ。警察から情報提供のあった新しい詐欺の手法を伝えて注意喚起をしたり、逆に「こんな電話がかかってきたんだけど」と相談されることもあったり。
他愛もない話をしながら蓋をあけて中のボトルを取り出し、除菌シートでボトルの差し込み口を拭く。それから新しいボトルを運んできてセットすれば、交換は完了だ。
何てことはない単純な作業なのだけど、ボトルが軽く十キロを超えているものだから、これを持ち上げる作業にはなかなか骨が折れる。
「よっこらしょう」
お腹の底に力を入れて声を出しながら膝まで使ってボトルをセットしていたら、おばあちゃんたちも「がんばれー」と応援してくれる。
無事にセットを終えて蓋をし、水が出ることを確認していたら、後ろから声を掛けられた。
「麻衣?」
聞き覚えのある声に振り返ると、カジュアルな服装の男性が私の顔を覗き込むような仕草を見せていた。
昔とちっとも変わっていなかったから、それが誰かは一目でわかった。でも、すぐには反応を返せなかった。
「やっぱり麻衣だ。久しぶり。俺のこと、憶えてる?」
そう言った彼の、意志の強そうな眉、切れ長の目、すっと通った鼻筋と薄い唇を見つめた。
あの頃と違うのは高校時代には坊主だった髪の毛が伸びていることくらいだろうか。ああそれに、体も幾分がっしりとしただろうか。長身なのは昔からだけど、記憶にあるよりも肩幅が広い気がする。この暑いのにネクタイをきっちり締めたワイシャツ姿で、袖を肘のあたりまでまくっている。そこから覗く前腕も、やはり記憶にあるよりも筋張って逞しい。
「……はい」
答えた私は、制服にカーディガン、足元はレッグウォーマー、歩きやすい黒のパンプスという地味すぎる出で立ちだ。普段なら窓口カウンターの外に出るときはレッグウォーマーは外すのに。今日に限って、早くボトルを換えなければと横着したのだ。
「上村……さま」
空っぽになった水のボトルと空き箱を抱え、談話スペースから少しずつ離れながら言った。
「おっ、名字呼び? おまけに『さま』付け? 随分よそよそしいな」
「その……今は仕事中ですので……」
彼は初めての彼氏だった人だ。つまり、初めてのキスなるかというタイミングで悲惨な目に遭わせた人だ。以降気まずくなって付き合いは自然消滅し、その後一度も話をすることなく卒業した。
あれからもう十年近く経ったのだ。付き合っていた頃の浮かれた呼び名なんて使えるはずがない。
「麻衣」
彼の方に顔を向けつつも体は窓口の中へと逃げ込もうとする。せめて窓口のカウンター越しならば、もう少し気持ちを落ち着けることができるかもしれない。
「俺、こっちに戻ってくることになったんだ」
「そう……ですか」
「親父の後継ぐことになってさ」
高校卒業後、彼は東京の大学に進学した。その後そのまま東京の会社に就職したらしいと、いつだったか人づてに聞いた。たしか有名な会社だったと思うけど、名の通った大企業、という以外の情報はもう忘れてしまった。忘れようとしていたのかもしれなかった。
高校生の時分は誰の家が何をしているだなんて全く興味がなかったから彼のお父さんが何をしていたのか知らないけれど、継ぐ、ということは会社でもやっているのだろうか。
「口座の開設に来たら懐かしい人がいるもんだからさ」
「そうでしたか。お手続きはもうお済みでしょうか」
「いま終わったとこだよ」
「弊行をご利用いただきありがとうございます」
「他人行儀だなー」
そう言って苦笑する彼はまったくの無臭だ。私はそのことに安堵していた。最悪のキス未遂の直後は微かに悪臭がしていたから。まぁ、無理もないんだけど。
今となっては、私をあれほど悩ませた彼の好意がどんな匂いだったのか思い出せなかった。
「よかったら、久しぶりに飯でもどう?」
予想だにしなかった言葉に、返事が一拍遅れた。
「え、あの、私はいま勤務中ですので」
そう言いながら観葉植物の鉢を避け、カウンターの向こう側に回りこむ。そして意味もなくお金を乗せるトレーを積み重ねてみたり、指サックをはめてみたりした。平静を取り繕っているつもりだけど、明らかに失敗していることに自分でも気づいていた。
――ほかのお客さんが来てくれたらすぐに逃げられるのに。
そう思って入口の方に視線を向けたけど、誰かが入ってくる気配はなかった。
小さな支店だから、二月に一度の年金の支給日と給料の支払日、入試の出願シーズン以外はそれほど混まない。今日は残念ながら繁忙日ではないし、混雑ピークの時間帯はとうに過ぎている。店舗にいるのは、彼を除けば休憩スペースのおばあちゃんおじいちゃんたちだけだった。
同僚たちは私の状況に気付いているのかいないのか、パタパタと歩く足音は聞こえるものの、助け船を出してくれる様子はない。知り合いがやって来て軽く言葉を交わすくらい、この田舎の銀行では日常茶飯事だからだろう。
「俺、あのあと謝られた記憶、無いんだけど」
思わず顔を上げた。
彼は真顔でまっすぐに私の目を見ていた。
まだ、無臭だ。ヘドロの臭いはしない。
「いつのこと言ってるか、わかるよな?」
頷かなかった。だけど勿論わかっていた。
最悪のファーストキス未遂のあとのことだ。謝るどころか、恥ずかしくて情けなくて格好悪くて、顔を合わせることすらできなかった。だから逃げた。
とっくにふさがっていたはずの古傷が、じくじくと痛む。
「てなわけで、今日は十……正確には八年くらい? 越しのお詫びのディナーでもどう?」
「あのっ」
「七時には出れる?」
「いいえ、無理です」
「じゃあ七時半くらいに迎えに来るよ」
「あの、無理です」
「用事でもある?」
「あの、そうです。用事が」
「そう。明日は?」
「明日も用事が」
「じゃあ明後日」
「……用事で」
「……三百六十五日全部スケジュールが埋まってるとでも言う気?」
「その通りです」
「それは、金輪際俺と飯を食う気はないってこと?」
冗談っぽくそう言いながら、彼の鼻がひくりと動いた。
――あ、これは。
「あの……緊張、してるの?」
思わずタメ語で聞いてしまった。
だって、記憶がどっと降ってきたから。
『俺、麻衣のこと好きなんだけど』
高二の終わり。
彼はたぶん緊張のあまり、私の方をちらとも見ずにそう言った。その時も、今と同じように鼻がひくりと動いていた。
私の問いに、彼からほんの少しだけ柔らかな匂いがした。
「してるよ」
観念したように笑う顔は高校時代と同じだった。
「緊張してる」
彼はたしかめるみたいに、もう一度言った。
なんだ。わたしと同じだ。
そう思ったら肩の力が抜けた。
昔懐かしい人との食事くらい、大したことじゃない。
「……今日、たぶん七時半には出られると思う」
ふわり笑って、彼は去って行った。
――そうだ、カズくんは。
彼はオレンジの匂いだった。