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「聞いたよ」


 居酒屋の小さなテーブルの向こう側に座って腕組みをする友人を前に、返す言葉もなくうなだれた。


「麻衣、また別れたんだって?」


 うなだれたまま頭をこくんと動かすと、友人は深呼吸ともため息ともつかないものを吐き出した。


「理由は?」


 そう問われ、小さな声で「いつもと同じ……」と答えた。

 ふぅ、と頭上で細く吐き出された音は深呼吸よりもため息に近い。けれど、同時にふわりと香った甘い匂いのおかげで、私の気持ちは落ち着いていた。


「で? 今度は何の香りだったの?」


 顔を上げると、呆れながらもどこか面白がっているふうな友人の顔があった。


「……キンモクセイ」


 また視線を落としながら答えた瞬間、友人はブホッと吹き出した。


「小学校のトイレじゃん」

「うん、まさしく」

「それはキツイ」

「わかってくれる?」

「わかるわかる」


 友人――小川涼子はひとしきり笑った後、スッと真剣な表情になった。


「でも、覚悟しとかなきゃ。特に今回は」

「うん。わかってる」


 覚悟――噂話の。

 噂といったって根も葉もないものではなく、おおむね事実だから仕方ないのだけど。別の支店で働く涼子の耳にも入ったということは、すでに社内でかなり広まっているのだろう。

 直接耳にしたわけではないから詳細はわからないけど、見当はつく。『小橋通り支店の上澤かみさわ麻衣がまた男をフッたらしい』とか、『しかもその理由が、またいつもと同じアレらしい』とか、『おまけに今度は社内だから、始末がわるい』とか。


「いい人だったんだけどなぁ」


 私がぼやくと、涼子はうなずいた。


「そうだね。でもまぁトイレの香りじゃ仕方ない」

「それに彼がオリエンタル系の香水をつけるもんでさ」

「あー……香りが混じるのかぁ……それはキツイ」

「うん。最近会うたびに具合悪くなって、もう限界だった」

「具合悪く……? むしろ、よく我慢したね」

「だって、いい人だったもん」


 優しいし、楽しいし。見た目だって爽やかで、仕事ができる。文句の付けどころのないその人に、ひとつだけケチをつけるとしたら。

 トイレの芳香剤の匂いだった。一緒にいると具合が悪くなるくらい濃厚な、むせ返るようなトイレの匂いだった。


「あの人ならきっと、すぐに次の相手が見つかると思う」


 そう言いながら鼻の奥がツンとした。

 彼と一緒にいて濃厚なキンモクセイを感じるのは私だけだ。優しくて楽しい彼だから、素敵な彼女ができるだろう。それを悲しむ資格はないとわかっているけど、自分を好きでいてくれた人が別の人のところへ去っていくのはやはり寂しい。

 私のひどい鼻声を聞いて、涼子はまたひとつ小さなため息をついた。


「本当に難儀な体質だね」


 私は黙ってうなずいた。うなずいた拍子に、こらえきれなかった涙がぽろりとこぼれた。


「よしよし」


 小さなテーブルに突っ伏して、涼子に頭を撫でられながらひとしきり泣いた。お酒はあんまり飲んでないから、この涙は本物だ。


「どうして社内で付き合ったりしたんだろう」

「絶対にやめとこうって思ってたのに」

「本当に素敵だったんだもん」

「優しかったし」

「匂いさえなければ」

「もういやだ」

「どうして私ばっかり」

「好きでこんな風になったわけじゃないのに」


 二十五にしてはえらく子供っぽい言葉を次々に並べながら、涼子の香りに包まれていた。

 涼子から漂ってくるのはいつもの香りだ。強すぎず、弱すぎず。こういうときだけ普段よりほんの少し甘さを増す香りは、いつだって私を安心させてくれる。なぜならそれは、彼女の好意の証だから。


「こんな変な力、いらないのに」


 私には特技がある。それが、人の好意と悪意、正の感情と負の感情を嗅ぎ分けることだ。

 特技というと語弊があるかもしれない。望んでそうなったわけではないし、他の人と比べて優れているというのとも違う。ただ、悪意は悪臭として、好意はいい香りとして、鼻にダイレクトに飛び込んでくる。だから望んでいなくとも「嗅ぎ」分けてしまう。

 この妙な能力に気づいたのはいつだったか。幼いころは、それと知らず恩恵を受けていた。


『くさい人には近寄らない』


 たったそれだけで自分に対して悪意を持つ人から遠ざかることができるのだから、それほど悪いものではなかったし、むしろ便利だった。迷子になったときに『お父さんとお母さんを一緒に探してあげる』と話しかけてきたおじさんがものすごく臭くて、一目散に逃げ出したこともあった。今思えばあれは、相当危ない状況だったんだと思う。

 混乱し始めたのは小学校の中学年くらいの頃だった。その頃には、ほかの人が感じない匂いを自分だけが嗅ぎ取ってしまっていることに気づいていた。

 とても甘い匂いがするくせに意地悪なことばかりしてくる男の子の存在だとか、私の容姿をいつも褒めてくれるのに、ものすごく臭い女の子の存在だとか。不可解なことが増えた。

 決定的にこの能力を嫌ったのは、高校で初めての彼氏ができたときだ。

 付き合い始めたときから彼はいい匂いだった。いい匂いは日に日に強くなっていった。そしてある日――はじめてのキスというイベントを迎えた瞬間に、私は痛感することになる。


「過ぎたるはなお及ばざるが如し」


 何事もほどほどが肝心だ。

 どんなに甘くていい匂いだろうと、強すぎれば凶器になる。たとえば超強力な広いトイレ用の芳香剤を十個、自宅の小さなトイレに置いたとしたら。そこで用など足せるだろうか。香水を一瓶振りかけた人と電車で同じ車両にいられるだろうか。

 初彼氏のあふれんばかりの好意は私の胃の中の物を残らずあふれさせた。初恋はそうしてあっけなく散った。


 その後もそこそこには恋愛をした。たぶん普通よりは少し多いくらいの。

 だけどすべて終わった。

 終わり方は二通り。彼氏からいい匂いがしなくなる――稀に臭くなることもある――か、いい匂いがし過ぎて私が耐えられなくなるか。前者の場合にはお別れを告げるのもそれほど心苦しくはない。でも、後者は辛い。それがまさに、一週間前に別れを告げた人との終わり方だった。

 匂いの種類は人それぞれだけど、彼の場合はキンモクセイだった。付き合いが長くなるにつれ、キンモクセイの香りは強くなった。それは喜ばしいことのはずだけど、私にとっては同時に終焉へのカウントダウンでもあった。

 最近では彼のそばにいるだけで意識が遠のくこともあった。

 何人か前の彼のときのようにデート中に白目を剥いてひっくり返るわけにはいかないからと、様々な策を講じてみたりもした。マスクするとか、ここぞというときには息を止めるとか。でも、そんな自衛にも限界があった。

 そうして終わってしまった。

 好意と悪意が匂いでわかるだなんて信じてもらえるはずもないので、別れの理由はいつもと同じ。


『飽きちゃった』


 理由はどうあれ別れは私の選択で、それも私の一方的な都合で別れるのだ。ツンとすました顔で、つまらなそうに吐き捨てた『飽きちゃった』は、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。どうか引きずったりしないで、早く次の恋を見つけてほしい、という。相手からしてみれば、むせ返るくらいの好意を傾けていた相手から突然「飽きた」と告げられるのだから、さぞかし腹が立つだろうし、恨むだろう。

 こうして私は『最低な女』というレッテルを貼られ、恋愛が終わるたびに評判が下がっていく。

 今回の彼は職場の先輩だったから尚更だろう。これまでだって、田舎の狭い世間の中では十分すぎるくらいの浮名を流してきたというのに。

 だったらもう恋愛なんてよせばいいのにと自分でも思うけど、私にだって願望がある。人並みでいい。普通でいい。ただ、好きな人に好かれたい。その人とずっと一緒にいたい。だから世界のどこかには一人くらい、いい匂いを保ったままでいてくれる人がいるんじゃないかって、今度こそ、そういう人を見つけたんじゃないかって、ついつい願いたくなってしまうのだ。


「麻衣」


 頭を撫でてくれる涼子の手が優しい。

 ズズズッと鼻をすする音で返事をすると、今度は涼子が「しょうがないなぁ」って感じに小さく笑った。

 優しい香りが私を包む。


「麻衣。今度こそ出会えるといいね」


 この友人とは大学時代からの長い付き合いだ。もっと言えば出身高校も同じなのだけど、学年は私がひとつ上だ。高校時代には面識はなく、私は一浪し、涼子は現役で、地元の国立大学に進学した。

 そして大学卒業後、揃って地元の同じ銀行に入った。示し合わせていたわけではなく、偶然に。今は別々の支店で働いているけど、月に一度くらいはご飯に行って近況を報告し合う。

 そんな涼子の匂いはブレが少なくて安定している。

 初めて会ったときは無臭だった。

 それから何年ものときを経て、仄かに甘い香りがするようになった。

 大学時代に友人が持ち込んだ、とっておきのゴシップネタを「暇なの?」と切り捨てた逸話を持つ涼子は、噂話だとか他人の目だとかを気にしないし、それらに踊らされることもない。だから私の評判が日に日に下がっても、そのことで涼子自身の私に対する評価が揺らぐことはない。

 そして逆に、傍にいるのがつらくなるほどの好意を注がれることもない。

 ただ、この子は。


『麻衣。そんなことしてたら、本当に大切なものを見失うよ』


 大学時代、まだ匂いの事情を知らなかった涼子から忠告を受けたことがあった。

 当時の私はすっかり自暴自棄になっていて、手近な男の子と付き合っては別れることを繰り返していた。好きだとか可愛いとかいろんな言葉を寄越す彼らはたいてい無臭か微臭だったから、一緒にいて楽だった。だけどお互いに気持ちのない関係が長く続くはずもなくて、短いサイクルで繰り返されるそれは今思えば恋愛と呼ぶにも値しない物だった。

 そんな私に向かって、涼子は真剣な顔で言ったのだ。


『いつまでバカなことを続けるつもりなの? 自分を大切にしなよ』


 厳しい言葉だったけど、その瞬間に涼子から漂った匂いはそれまでで一番甘くて優しいものだった。

 悪臭を放ちながら耳優しい言葉をくれる人とは違う存在に、救われた気がした。


「あーあ、涼子の男バージョンがいたらいいのに」


 鼻をすすり、突っ伏していた顔を上げながらそう言ったら、涼子はほんの少し口角を上げた。


「私はこの性格のせいで恋愛がうまくいかないのにねぇ」


 涼子はよく「クールすぎる」とか「サバサバしすぎている」と言われるらしい。

 「たぶん人を本気で好きになったことがない」と肩をすくめる彼女は、いつも「今度こそは」と全力で突っ走る私が「ときどきうらやましくなる」のだという。「ときどき」ってところが、涼子らしいけど。


「……私たち二人ともダメダメだね」

「そうだね」

「でも、今度こそ」


 拳を握りしめ、決意を新たにした。

 そんな私を、涼子は笑う。


「うん。今度こそ見つかるといいね」


 ――今度こそ、ちょうどいい香りのひとに出会えるといいな。その人とずっと一緒にいられるといいな。


 とある男性が私の前に姿を現したのは、その日からきっかり一か月後のことだった。


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