5話
放課後の空は、春のくすんだ光に包まれていた。
雲の切れ間から差す陽射しは、どこか頼りなく、
まるで世界そのものが、
**何かを思い出しかけているような**、そんな気配をまとっていた。
唯斗と瑠衣は、無言のまま歩いていた。
目的地は決まっていた。
言葉にしなくても、ふたりの足は自然と、
**塔のふもと**へと向かっていた。
「……今日、またひとつ増えてた」
瑠衣がぽつりとつぶやいた。
唯斗は頷いた。
「黒い蕾、だよな。
昨日より、明らかに多い」
塔の根元に広がるしずく花の群れ。
その中に、ぽつぽつと混じる黒い蕾。
まるで、白い記憶の海に落ちた、
**忘却のしずく**のように見えた。
「これ、咲いたらどうなるんだろうね」
「……咲いたら、何かが戻ってくるのかも。
あるいは、完全に消えるのか」
「どっちも、怖い」
「でも、見届けなきゃいけない気がする。
俺たちが、ここにいる意味って、
たぶん、そういうことなんだと思う」
瑠衣は、しずく花の中にしゃがみ込んだ。
白い花びらに指を添え、そっと撫でる。
「この花、
前に見たときより、少し冷たい気がする」
「冷たい?」
「うん。
なんていうか……
記憶が、凍っていくみたいな感じ」
唯斗も、隣にしゃがみ込んだ。
そして、黒い蕾に目をやった。
「これ、咲くのかな。
それとも、咲かせちゃいけないのかな」
「わからない。
でも、咲いたら、何かが変わる気がする。
私たちの記憶も、世界も」
ふたりは、しばらく黙って花を見つめていた。
風が吹き抜け、花が揺れる。
その音が、まるで塔の呼吸のように聞こえた。
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その夜、唯斗は夢を見た。
塔の中。
白い廊下。
無数の扉。
そのひとつが、ゆっくりと開いていく。
中にいたのは――
**誰か**だった。
でも、その顔は見えなかった。
光の中に溶けていて、
輪郭さえ曖昧だった。
「……誰?」
問いかけると、
その“誰か”は、静かに振り返った。
**「まだ、思い出さないで」**
その声は、どこか懐かしくて、
でも、確かに“今の自分”には届かない場所にあった。
唯斗は目を覚ました。
額に汗をかいていた。
(……あれは、誰だったんだ)
スマホを見ると、
瑠衣からメッセージが届いていた。
「今日の黒い蕾、
少しだけ、開きかけてた気がする。
明日も、見に行こう」
唯斗は、短く返事を打った。
「うん。行こう」
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夢界は、塔のふもとにいた。
ノートを開き、
今日の記録を淡々と綴っていた。
**『黒い蕾、観測数:5。
前日比+2。
ふたりの接触により、蕾の開花反応に変化あり。
記録外個体の影響、進行中。』**
彼は、ページの隅に浮かび上がる文字を見つめた。
**『記録外個体、接近中。
記録守、干渉限界に近づく。』**
「……限界、か」
夢界は、ノートを閉じた。
そして、塔を見上げた。
「俺は、記録することしかできない。
でも、それでも――
ふたりの“今”を守るためなら、
少しくらい、規則を曲げてもいいよな」
彼は、ポケットから小さな紙片を取り出した。
それは、ノートとは別の、
**“記録されない記録”**だった。
「これは、俺の“余白”。
記録守としてじゃなく、
“夢界”としての、俺の言葉」
彼は、その紙片に、こう書いた。
**『ふたりが、誰かを忘れている。
でも、その“誰か”は、まだここにいる。
記録の外で、静かに、確かに。』**
風が吹いた。
紙片がふわりと宙に舞い、
塔の影に吸い込まれていった。
夢界は、そっと目を閉じた。
「……届いてくれ。
ふたりの“今”が、
これ以上、壊れないように」
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翌朝。
教室に入ると、
黒板の座席表が、また変わっていた。
「……空白、消えてる」
「ほんとだ。
でも、名前が書いてあるわけじゃない。
ただ、“空白じゃなくなった”だけ」
「……誰かが、戻ってきてるのかも」
「でも、まだ“誰か”じゃない。
ただの、影」
ふたりは、顔を見合わせた。
その目に浮かんでいたのは、
**言葉にできない確信**だった。
(続く)




