4話
「……ねえ、ここって、前から空いてたっけ?」
瑠衣の声に、唯斗は顔を上げた。
放課後の教室。
誰もいなくなった教室の後ろの席を、
ふたりで見つめていた。
「そこ、誰か座ってた気がするんだけど……」
「俺も、そんな気がする。
でも、誰だったかは思い出せない」
「名前も?」
「うん。顔も、声も、全部ぼやけてる。
でも、“いた”って感覚だけはある」
ふたりは、しばらく黙ってその席を見つめていた。
そこには、何もない。
ただの空席。
でも、**“空いていることが不自然”**に感じられた。
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その日の帰り道。
ふたりは、並んで歩いていた。
春の風が、制服の裾を揺らしていた。
「……ねえ、唯斗」
「ん?」
「私たち、
誰かを忘れてるのかな」
「たぶん、そうだと思う。
でも、思い出せない。
思い出そうとすると、
頭の中が、ふわって白くなる」
「私も。
まるで、夢の中の人みたい。
でも、夢じゃない。
ちゃんと、いた。
私たちのそばに」
「……塔のせい、かな」
「うん。
きっと、また何かが動き始めてる」
ふたりは、歩く速度を少しだけ落とした。
まるで、**“記憶の影”に追いつかれないように**。
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その夜、夢界はノートを開いていた。
ページの上には、今日の記録が綴られていた。
**『15時12分、教室後方の空席にて、
ふたりが“誰か”の不在を認識。
記録上、その席に該当する生徒の記述は存在しない。
しかし、ふたりの反応は一致しており、
記憶の綻びが現実に影響を及ぼし始めている可能性あり。』**
夢界は、ペンを止めた。
そして、ページの隅に浮かび上がる文字を見つめた。
**『識別不能:記録外の影、観測開始』**
「……やっぱり、来るんだな」
彼は、ノートを閉じた。
そして、そっとつぶやいた。
「でも、まだ名前は出てこない。
なら、まだ“記録”じゃない。
ただの、影だ」
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翌朝。
教室に入ると、黒板の端に貼られた座席表が目に入った。
唯斗は、ふと足を止めた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「この座席表、
なんか、ひとつだけ空白がある」
「ほんとだ……。
番号はあるのに、名前が書いてない」
「これ、前からこうだったっけ?」
「ううん。
絶対、誰かの名前があった。
でも、思い出せない」
ふたりは、顔を見合わせた。
その目に浮かんでいたのは、
**確信のない確信**だった。
「……ねえ、唯斗。
もし、私たちが本当に誰かを忘れてるとしたら、
それって、どうすればいいんだろう」
「……思い出すしか、ないんじゃないかな。
たとえ、全部は無理でも、
何かひとつでも、手がかりがあれば」
「手がかり……」
瑠衣は、ふと窓の外を見た。
塔の先端が、朝の光に照らされていた。
「……あの人、
あそこにいた気がする」
「え?」
「ううん、なんでもない。
ただの、気のせいかも」
唯斗は、何も言わなかった。
でも、その手は、そっと瑠衣の手を探していた。
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その日の放課後。
ふたりは、塔のふもとにいた。
しずく花の群れの中に、
またひとつ、黒い蕾が増えていた。
「……昨日より、増えてる」
「うん。
このまま咲いたら、どうなるんだろう」
「咲いたら、
“思い出す”のかな。
それとも、“忘れる”のかな」
「どっちも、怖いね」
「でも、どっちにしても――
私は、あなたと一緒にいたい」
「俺も。
たとえ、何かを忘れても、
君のことだけは、忘れたくない」
ふたりは、しずく花の中で手をつないだ。
その手のぬくもりだけが、
この世界の“確かさ”を教えてくれる気がした。
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その夜、夢界はノートを開いた。
ページの上に、また新しい文字が浮かび上がっていた。
**『記録外個体、接近中』**
夢界は、深く息を吐いた。
「……名前が出るのは、
もう少し先か。
でも、気配は、確かに近づいてる」
彼は、ノートを閉じた。
そして、静かに立ち上がった。
「ふたりが気づく前に、
俺が、先に見つけないと」
塔の影が、夜の闇に溶けていく。
その奥で、何かが、
**静かに目を覚まそうとしていた。**
(続く)




